ヤマギシのむらnet

楽園村、今までとこれから


子ども楽園村(南那須 1983年)


楽園村いろいろ  豊里ロビーの文化展コーナーに、楽園村開催の歴代のポスターや冊子などが張り出されていて、通りがかりの人たちが、懐かしい!と眺め語りあっていました。 また今、孫娘が夏の楽園村に参加していて、その親達が会場まで見送り行ったら「自分達が子供時代に楽園村で一緒に過ごした仲間が子供を連れて来ていて」と話していたのと併せて、楽園村の流れを思っていました。

 息子は楽園村が始まった最初からと言えるが、第1回はどの時点を言うのかな?と前から分りませんでした。 どこを第1回とするかなのですが、楽園村という言葉が出たのは1973年頃の“愛児に楽園を”の運動的な流れからだと記憶しています。その名の機関誌も発行され、全国的に会員も増加し新島淳良その当時、早稲田大学教授や野本三吉さんなどが、“子どもを救え!”運動として講座を開きながら全国行脚で輪が拡がって行っての流れの中で、新島さんも大学を辞し伊賀の阿山の藁葺きの民家で、幸福学園の発足となったのが1974年でした。

スタッフの若い人は、昼間は地元の土木工事に働きに行き資金を稼ぎ、その内にボチボチと子どもたちも集まり、その庭でテントを張ってキャンプ生活をしたりが楽園村のハシリのようだったかなー。 その後、人数も多くなり諸事情の流れで春日山での開催となった。 阿山での開催の時は、スタッフとしてその場にいたので様子は目にすることが多かったが春日の時は、どんなことをしているやらの感じでした。 途中で一度、出会った時はその汚さに驚き色々な思いに悩んだりもしたが、こちらもその頃は実顕地を造ることに夢中で悩んだり執われたりしている間もなかったなー。 確かに、その後、楽園村が発展して4人の子ども達が夫々の楽園村会場で2週間過ごしての夏の終わりの家庭研鑚で熱く語ってくれるのが楽しみでした。

 豊里で第1回が開催されたのは、どういうキッカケからか定かではないが、丁度その頃に東京で子どもの塾を開き教育運動をしていた平井雷太さんが子どもと共にやって来るということで、それが楽園村ということでスタートしたといえるのかなー。                                          初めてのことで右往左往、スタッフの考え方の違いからの摩擦など、今考えると幼稚な段階で、よくぞやれたものだなー!ということばかりでした。   平井さんの関係で明星学園の子どもたち、その先生方、無着成恭さんなども訪れて来て子ども運動がはれはれ運動として活動していったのではないでしょうか。

 その後の楽園村運動の勢いは今も語り継がれるほど凄まじいものでした。何らかで関わって来た沢山の人たちがいて今に繋がっていると思うのですが、この頃は人数も程よく、今こそ質的に中身のあるものにしていけるのではないだろうかと思っているし、その為にも私たち大人の目的、方向性の確認と、その姿勢、心意気が大事と考えています。

川瀬典子 豊里実顕地

水沢子ども楽園村(1982年)

豊里での第一回の楽園村

 子供らと二週間暮らすとはどんなことか、何をするのかすべて手探りでのスタート。

 子供らが到着、まずまるくなって座るでやってみる。

「今、ここすすめるのアンタやで!」「エッ」

そこからすすめるという具合。こども研鑽会のはじまり、はじまり。

 マラソン、ラジオ体操、海辺のキャンプ、川遊び、ひとつひとつ企画を出し合って、やっていく。村人と一泊二日過ごすマンツーマンはヒット企画。十日目過ぎると職場へ行く時間がだんだん長くなっていったり。

 二週間は濃密だったし長かった。私も若かった。庄一君は参加児童の一人だった。

 交流会(夏祭り)も村人がやるところはやるから、「あんたらは子供見てて」と声がかかって、大安心というかなんか気が楽になったのを思い出す。

 父兄の泊まる部屋も足りないところは村人に空けてもらい、衣生活の人が布団抱えてあちこちらウロウロというのもあった。なぜかしら楽園村の原型みたいなもの、やれたのかなって感じ。

 村の気風というより風圧に押し上げられて熱い夏を何度すごしたことか。

只野幸代 豊里実顕地

六川楽園村(1985年?)

小学校6年の3月に初めて北条の楽園村に参加しました。親に中学になる前に是非行って欲しいと言われての参加だった。 保育園から一緒だった幼なじみがずっと行っていて、誘われていたけど自分はボーイスカウトに入っていてキャンプがあるから行かないと断っていた。

ヤマギシにはじめて触れたのは、その1年前の5月のまつりだった。 その楽園村に幼なじみは参加しなくて、行く時は不安だったけど、行ったら全然そんなことはなく始まった楽園村だった。その時期の北条楽園村は小6がめっちゃ集まってくる楽園村で、小6だけで20人近くいた。続けて北条に来ている子ばかりで、すぐに輪の中に受け入れてもらった。 自分は一人っ子だったけど、近所に中3から小1までの男の子がいて、遊ぶには事欠かなかった。でも楽園村の子は、感じが全然違っていて、気に入った。初日にこいつらちょっと違うなという感覚をもった。

この時の楽園村は中等部の試験が終わって、楽園村が終わったら中等部に行けるかどうか分かるというので、すごく盛り上がっていた。 また、来月に行きたいと親に言ったら、母親が4月の特講に行き、それからはほぼ毎月楽園村に行った。 全国から同じ年代の仲間が集まって、仲良しをすることが一番大きいと思う。作業や運動会、何をやってもいいけど、生活することで、周りの人のことを想って生活するというのが大きいと思う。

北条で一緒だった子達とは1年に1回は会っている。阪神大震災で亡くなった子がいて1月に集まるのがずっと続いている。 楽園村は一生付き合える仲間ができるのが一番大きい。財産だと思う。 今は、それぞれいろいろな場でやっているけど、何物にも代えられない関係だと思っているのを、彼らからも感じる。

中江秀晃 豊里実顕地

スイス国際楽園村(1990年)


私は、小学3年生の時から楽園村に来ていました。 今の学園舎前の自転車置き場を食堂にしていたり、学園舎下の坂の畑の所で、ハレ集をやっていたのを覚えています。 今の太陽の家がある所は、福郁園になっていて、紫陽花やバラ、山岸マークの植え込みがある所を通って、職場実学やお風呂に行っていました。

中学生になって、毎月楽園村にも来たりして、沢山友達も作って、すごく楽しかったです。その後、親が参画して、中等部に入ったら、次の年から友達もどんどん中等部に来て、それからずっと一緒で、今、お母さん同士になって実顕地でやっています。

私にとって、楽園村は、はじけられる場所でした。普段、地域では、周りの空気もあり、おとなしい中学生でしたが、楽園村に来ると、無制限に動いて、大声ではしゃいで、別人でした・・・。

その後、学スタも沢山やらせてもらい、大人になってもやらせてもらい、一緒になって楽しませてもらっています。 うちの長女は、性格が違うのか、あまり好きではないようですが、是非、都会の子ども達には、味わわせてあげたいのが、楽園村だな、と思っています。

村岡佳代子 豊里実顕地