ヤマギシのむらnet

『自分に出会う旅』
【研鑽学校Ⅲ】


研鑽学校Ⅲ交流研

 10月30日春日山西会場で、研学Ⅲ受け入れ交流会がありました。

 今回は地域会員と実顕地会員合同の研鑽学校でした。
今人気の研学Ⅲというのもあって総勢33名のダイナミックな研学であったようです。どの人もなかなか言葉にならない自分の心の奥の奥を訪ねる旅をして来たようです。一条の光を見つけたような清々しい温かいお顔でした。

 真中の学生たちが次から次へ語る熱い思いが会場全体を包みひとりひとりの中に情熱と一体感を呼び覚ましたようです。やっぱり人数が多いっていいですね。

一斉作業~女の人は苺の定植、男は夏の台風でとんだハウスの解体

 どの人も頭で考えるでなしに心で考える(?)感じる世界に入っていくには…
苦しみも又楽しみに替わる‘あきらめないで‘やった2週間だったようです。

 「日頃自分で考えたり、感じていると思っている自分ってほんとうに自分だろうか?」とか、

 「ふと沸いてきた正直な気持ちから逃げていないか?」とか、

 「その人の心になるって使い古してきたけど、その人の心って何?」とか

いろんな切り口で心を探った旅だったようです。
今日からそれを熟成していく新たな旅が始まるのでしょうか。

 最近研学Ⅲに行った何人かの人の近況が出されたり、今日(10/30)から始まる特講の係り団から新たな決意が述べられたりしてさらに厚みが感じられる受け入れ研でした。

【春日山実顕地 平島春美】
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コメント

  • 麻野幸子(豊里)

    工事用の部品清掃に使った洗剤が余った。流しに捨てようかと思ったとき、そのステンレスの流しがくすんでいるのが眼についた。

    洗剤を活かそうかなと水あかをこすり始めた。なかなか簡単には取れなかった。

    建設に配置になった時、この流し、もっと光ってたなあ、とか思っていたら、しばらく「磨く」って感覚を忘れていたなあと浮んできた。

    どんどんやりたくなって時を忘れた。ま、それほど美しくはならなかったけど。又、やろう!

    「磨く」って感覚、そのままでも良いからの出発のような気がするのですが・・・。 自動解任期、明日から建設部のメインロードを掃いてみようと思う。

  • 麻野幸子(豊里)

    研鑽学校Ⅱの受け入れ研をした。ある人が「零位に立つ」の零位のイメージが「万象悉く流れ、移りゆく」かなと思ったと出していた。

    その人が、研学でイチゴのランナー採りをしたとき、「公意を見出したい」と意見を出し合って作業をすすめていくうちに、意見の一致というところを超えていくものを感じ、育っていくイチゴが愛おしく映るこころを話していた。

    聴いて自分は、その人のなかにも、イチゴにも私の中にも流れるものがあると実感して、その人がその時「零位」に立っていたように見えた。

    受け入れ研をやってみて、「零位」が具体的になった感じ。

  • 麻野幸子(豊里)

    こうした自分にとっていちばんの切実な問題に解決のメドが立ったときの「あぁ、そうだったのか!」という心底からの味わいは、「事実」というものの確かな手触り感から齎されてくる解放感ともいえた。(けんさんし 知的革命162)
    *****************************************************

     25年前の特講の「残れますか」の投げかけに私はやらねばならない事があるから絶対に残れない、それにこんなに真面目に考えているのに更に居残れというのかとピント外れを大真面目に言い張って、結果残れなかった。それでも折に触れ、あれは何を言おうとしていたんだろうかと考え続けていた。

     その1年後の研鑽学校で「ドイツに行けますか」を研鑽しているとき、行ける、私、行ける!。天井が抜けるほどの爽快感がからだを突き抜けた。
     自分はこれがヤマギシズムに出会った瞬間だと思っているので、いつでも例題にして探っている。

     皆放して体は研鑽学校に来ているが、自分はやらなければならないことがあって残れないと苦にして頑張る観方・考え方はそのままだった。気がついてみれば何処にでも残れるし、何処にでも行ける自分がいる。もう「事実」その中に飛び込んでいる自分に感きわまる思いに浸った。

     要は、残れるように行けるようにひとつずつ条件を揃えてなっただけ。子どもたちは1週間楽園村に、その後1週間は特講に行った父と母、地域の会員が見てくれた。研鑽学校に行きたくて、行きたくての真情がなしたことだった。

     なるようになしていく、具体的なことをやっていく以外手立てはない。あまりに当たり前のこと。  そのことが、残れないと苦にする自分の在り方を放す実践行為でもあった。自分がやらなければ、自分、自分と頑張る観方・考え方からの解放だった。

     自分の思い・考えの延長線上にはない「事実」と出会って、飛び込んだ私。
    今までは自分よりの見たとする私の思い・考えからの事実しか知らなかった。万象の中に悉く流れる本流ともいうべき「事実」。
    二つの事実があることを知った。 事実というものを漫然と捉えていたが、分類整理されたようだ。

     本流の「事実」に飛び込んでみると、「事実」の確かな手触りから齎されてくる解放感、行ける!あの爽快感は紛れもなく実在した。 そして、確かにある「事実」を実感させられると、何時でも何処でも「我のない姿そのまま」の自分に戻れそうな気がしてくる。

     自分が自分がと厳重に囲っていた私に事実の方から、心ならずも心足りない一面を知らせてくれる。柔あるのみ。剛は一切やめたいものです。柔らかく、稚々として、情的で、愛くるしく、なつこく、親しく、とろけるような、謙虚で、陽気で芳しく。

     事実の世界にそのつど飛び込んでいけばいい。これを研鑽するということかなあ、検べてゆきたくなってきた。

  • 麻野幸子(豊里)

    今朝、北斗七星がくっきり見えました。小学生のころ、このひしゃく型が見えた時うれしかったなあ、3Dの映像が浮んだ時にも似て。

    研鑽学校から帰って1週間経ち、2週間を振り返っておきたくなりました。今は満腹の腹をさすり、足で土踏み鳴らし踊る、まさに鼓腹撃壌。

    まず、インディアンの秘密の場所や原風景を探りながら、記憶にある過去の事実にくっついている感情をたんぽぽの綿毛を吹き飛ばすように放した。

    ひとりひとりがやっていく心耕しの作業であるが、総勢33人のなかでやれたことが響きあって大きかった。初めての体験だった。

    その後が圧巻。琴線にふれるものを出しながら、ふと気がつくと頭を通してではなく胸とみぞおち辺りがぽーと温かくなっている。初めての思考法。

    ああ、どんなものにも流れる、本流のようなこころが自分の中にあるという事実。私そのもの。本流に飛び込んだ。絵図の昼の世界にいる、はだかの女の人と

    私が重なった。何時でも、何処でも「我のない姿そのまま」の私に戻れる。どんな波が来ようが、私は私。この本流にどっぷり浸れるひとが真の拡大できる。

    そして又、真逆の喜怒哀楽を感じるこころもわたしの中にあるという事実。  二つの事実がある。

    帰って7日目、けたたましくふざける人にイラ「うるさい!」あや~、研鑽学校の賞味期限がこれまでか。と瞬間、本流がよみがえってきて飛び込んだ。

    どこでもドアの入り口でつまずいていた私。

    「柔あるのみ。剛はいっさい止めにしたいです。」他をヒハンしない、他を故意に変えようなど高ぶらず、優しく、明るく朗らかに、恋し愛しい感じ。たかぶ

    らず、卑下せず、ニッコリ負ける。こころならずもこころ足りない一面に事実の方から手を差し伸べて、力づけてくれるようだ。

     何か、つぎつぎと世界が拡がってゆきます。「二つの幸福」とか・・・又、書いてみたいです。

  • 河合さをり(奈良)

    幸子さんの東北弁が笑顔とともに聞こえてきそうな感じですね♪
    今日は早速、近所のおかあさんが子育てのお悩み相談に。
    前はいつも同じことを言っているとどこかで思いながら聞いてたのだけど、
    今日は新鮮に聞こえました。
    こころはいつも新しいものね(^-^)
    研鑽学校で感じたことをブログにアップしてみました。
    みんな、見てくださいね♪

    日々好日也 http://blog.livedoor.jp/prityatomu/

  • 麻野幸子(豊里)

    みーんな、元気ですか。わたし、めっちゃ元気。熟成が始まっている感じ。

    次男の洋平くんから電話。「母さんさあ、洋平のために村に来たと思ってたけど、違ったみたい。」「うん、ぼくもそう思っていたよ。僕は母さんに連れられ
    て来た。」 ふーん。

    研鑽学校では出さなかったけど、実は「失礼な、許せない。」って、すごく腹が立ってたことがあったんよ。解決出来なくて、これは棚上げ、て帰ってきた。

    今朝ね、「どらえもんのどこでもドア」が浮んだ。入り口でつまづいてこけている私がいた。

    ら、ああ、私が間違っていた!って気がついた。失礼なことをしていたのは私だった。もうすっかり、溶けたんです。