ヤマギシのむらnet

やさしい社会を作りたいのです


やさしい社会を作りたいのです

   分かり易く、夫婦という最低単位である複数の人間関係で、そこに社会が成り立っているか!身近な人との関係となると好きとか嫌いとかの感情面で捉えることはあっても、何でここで、社会云々が出てくるの?となってしまうのが普通です。

 ヤマギシズム学園の解体、世界中に広まりそうもない実顕地生活様式、提唱された山岸さんの描きとは、ピッタリと合はなくなった?昭和30年当時と時代・世相も違うから云々は当然ありますが、遅ればせながら、ズレがあれば修正し、今の自分たちの考え方・暮らし方も改めていくべきと思えてならないのです。最近、外部との接触機会が増え、話をしてみると、学者に限らず、普通の民間の人達の方が自分より、遥かに前を歩いているなと気付く場面に出くわします。自分もヤマギシ調正機関に参画してあっと言う間に20年を超えてしまいましたが、自分の頭の働きは静止したままだったように思えるのです。

 これからそれはおかしい!と非難の声も覚悟して、心しての問題提起です。(当然、真意が伝わらない場合もありです。)長い前置きその2ですが、決して夫婦の気持ちや意思疎通に類した事柄弁明ではありません。その3、研鑽態度や聴く態度の心理的姿勢と混線させ、あんたの言いたい事はこういうことだろう!と、早とちりしないで欲しいのです。いろんな場面でその実例を紹介し、解説してきたのですが、改めて再現すると、外出先から戻って、最後の坂を上る場面、勢いをつけ走っていると、「ここは20キロ!=体言止め用法」と助手席の妻から強い言葉があって、「そう言う言い方、ないだろう!」と、自覚なしに思わず声に出たが・・・これが紙芝居のストーリーです。

 皆さんがもれなく体験・習得した特請の怒り研を思い出して欲しいのです。果たして、その怒りは相手の言葉に反応したのか、それとも、それを聞いて、自分の頭の中で立ち上がった想念に反応したのか?・・・そうなんです。相手には関係ない自爆現象なんですね。

 どうか「腹の立たない人、云々」の横道に反れないで下さい。相手の言った言葉がそのまま自分の中に入ってくるわけではなく、耳から信号が送られ、その時までに自分に集積された知識経験で構成された頭脳・(観念)でその言語を瞬時に「自分の感覚」で翻訳するのです。それでは「こう言ったから、こう思っている」の物差しを当て、この事例を整理し直すとどうなるか?「ここは20キロ」と相手は言葉を発した後、こちらは勝手に「そう言う・・」と聴いている。「そう言う・・」と翻訳したのはこちらで、“責められている”と受ける側の誤訳です。聴いた言葉とは違う意味で、一方的な言語解釈なのに、なんでそういう言い方しか出来ないんだ。これは明らかに自爆です。相手は「こう・・・」とは言っていないのです。「こう言った・・・」は聞く側の勝手な受け止め方でしかないのです。まして「こう思っているハズ」まで行くと、大変です。 以上が聴くです。本当に聴けているか、表題のそこが社会として成り立っているか?日常的には何の支障もなくやれているのですが、ボタンの掛け違いで通過しているだけで、相手の真意をキチッと受け止める(受容)状態とは違う“やさしい社会”になっていないと思いますがどうですか。

 次に見るです。本当に実際・事実を私は見ているかを実顕地内の生活事例で調べたいのです。狙いはやさしい社会で、このやさしいは「Tender me」のやさしさの意味と少し違います。

 ある人Aさんが、「あなたは場内の一旦停止線で止まらず、そのまま通過した。」とBさんがいる集まりの場で、発言した。この事例で調べたいのは“人の非難中傷”の是非についてではありません。勿論「傷つけないように言葉を選んで云々」に焦点を当てているのでもありません。思い出して欲しいのは、前回つぶやきとされた「愛和館に食べに来ない人としているのは、その人自身の事なのか、捉える側の私が一方的にその人をそう捉えたのか?」の事例です。

 実際、その場面はBさんがそこを通過した。居合わせたAさんはBさんが通過するのを見た。その時Aさんは彼が停止しなかったと思った(判定)。・・・見て、思った(判定)。 果たして、Bさんが止まらなかったのは事実か、それとも止まらなかったと思った、判定したのはAさんの頭の中で起こったことか・・。間違いなく俺はこの目で、彼が停止線を無視して通過したのを見たんだ・・。見たとほとんど同時に判定しているので、愛和館の例より分かりにくいのですが、どうでしょうか。

 自分の中に「自分の判断は正しい、間違っていない」とする強いものを持ったままだとこの事例は分かりにくくなるようです。何も持たない心状態で、冷静にこの場面を振り返ると・・・①目の前をスーと通過するBさんを見た。②ここは一旦停止線を引いた所で止まらなくてはいけない場所、と判断する頭脳の働きがあった。 ③止まらなかったBさんを見たと(思った)。 事実、実際のAさんの行為(現象)として私は①Bさんを見た。②Aさんの頭の中で見たことで反応=頭脳の働きがあった。・・・ここまでの①②と③の止まらなかった“Bさんを見た”が①②と〃実際の事実側のことなのか、Aさんの感覚領域の働きなのか・・・。

 念押しになりますが,ここでは「人間の判断能力の不確かさ」を持ち出さないで、見たのは事実なのか、一方的な感覚領域判断なのかを厳密に整理したいのです。一歩進めて、どこまで見たのか、それは見たと思っただけの事ではないのか・・・です。

 人間の行為、見たり、聴いたり”の実質は耳や目のセンサー反応のことではなく、頭の働き、蓄積された知識などによる頭脳判断=頭で聞いている、見ているのではないでしょうか。

 ここで言うやさしいは、自分の身についていない、外のものを引っ張りださないで、シンプルに分かり易く、ありのまま実際の状態、本当の自分だけ、そのものでやっていく、やれる社会のことです。よくそんな時どうすれば?方法に意識が飛んでいく人が居ますが、そんな無駄なことを考える必要のない社会、法で縛らなくてもよい、敢えて言えば、法では縛れないのが本当の人間で、誰でもそれを願っているのです。やさしい社会はどこにあるのかと問われれば、ここにあると答えたいのです。

鈴木英二 一志実顕地

私にとって、「研鑽の一致点」とは何か

 私にとって、「研鑽の一致点」とは何か最近の事例、一志実顕地で行われた「安全研」に参加しその場の経験から、果たしてこれが「事故のない絶対安全」に繋がっていくのだろうか?と疑問に思えてならない。一般社会で泥沼化している現象、強まるばかりの取締り的な要素、山岸さんの言うハエたたき現象になっていないか、ドンドン罰則的裏面が見え隠れしてきて、うんざり、ガッカリと言った心境です。お断りしますが制度のことではなく、運用についての発言です。 近々、実顕地メンバー対象で予定される安全講習会についてのみんなの“正直な反応”やバンパー擦り傷事故の届出について、押し黙ってしまい、軽く自己申告していく望ましい空気とは違う、裏腹のように変わってきている様に自分は受け取っています。    ここまで書くと、実際に実顕地組織の運営に直接関わっている人への反駁・批判ととられることは当然覚悟しています。その推進する真剣さを理解すればするほど、弁明しても理解されないと思いますが、「どんな実顕地社会にしたいか」を具体的に明言していく材料としては外せないと思うので続けます。

 メンバーの事故に伴う修理費負担について報告した事例で、どこまで行っても①責任の追及ではなく、②本人の自覚を促すことの違いを力説したのですが、焦点は合わないまま曖昧になってしまったのが残念です、青本にある「法で縛らぬ社会へ」、真意は縛れるが縛らないではなく、実際、人間を法で縛ることは本当に出来ないんだ・・という根本がブレていないか・・・です。みんなの事故を減らしていこうとする思いのあまり、・・・・。

 自分が同席した人の事故原因を探っている場面で、「あなたが事故した原因はこれです。」と明言され、「多分そうだと思います」検察庁の自白させられた事例を言っているのではありません、「本人の自覚のないまま」事柄結果についてこうだったとしてしまっては・・・・。

 安全研の真価は「どこまで行っても本人自覚が不可欠です」 本題である表題の「研鑽の一致点」についてです。今まで説明に使わしてもらった安全運転に関する事例の通り、一方的にこうだ・・「正しいのは」これだ。・・・○○と言われたと受け取られない実質、「自ら、これからはここを改善して行こう!」になって初めて研鑽になる。何に一致するのか?みんなの考えや、出された線ではなく、自分に向き合って、本当に自分の本心はどうなって行きたいか?を探って、一致する、納得するです。

 最近の木曜日研で話題になったのが参画請願にある「最も正しくヤマギシズム生活を」としたが、年数経過し、果たして今自分たちはこの「最も正しく」を、如何に運用しているか?になった。  事実の世界では、出来もしない「責任追及と受け取られる」様な動き(正法ではなく逆法)や○○研と称して本人自覚のない=私意尊重されないまま、研鑽の一致点を押し付けることになっていないか・・・さらに常に自分への問い(自分を調べる回路)があるか?これを謙虚に進めていける「見る、聴く」状態になっているか・・・です。3枚目の「見る」の段でも言及したのですが、「研鑽の一致点」や「提案と調整」を運営上不可欠な仕組みとしてやり続けるか、便宜上の仮の姿か質が問われているのではないでしょうか。「鎧」はもう要らない社会にしたいと願っています。

鈴木英二 一志実顕地

 

愛和館に食べに来ない人・・・そんな人は実際にはいないのでは?

 ヤマギシズム生活者にとって愛和館の暮らしは大事な場面であり、できるだけ皆と一緒に食べるべきで、食べに来て欲しいと思っていると、暮らしのあり方に沿わない人で、「食べに来ない人」と一方的に捉え易いのですが、実際の、その人自身は「食べに来ない人」ではなく、家で食事をしている人なのではないでしょうか。そんなの当たり前でしょ!としないで、はっきりさせたいのは、実際のこと=事実なのかです、ほとんど無意識にやっている事ですが、それは事実ではなく、私の捉えた感覚判断領域のことなのではないかを是非もう一度考え、はっきりさせたいのです。

 冷静になって、愛和館以外の他の場面例で、日常的に私達の人の見方・捉え方・判断がいったいどうなっているかを調べてみてはいかがでしょうか?

 例えば①扉を開けっ放しにする人や、②約束時間に遅れてくる人を見て「きちっと戸を閉めない人、遅れてきた人」と決め勝ちですが、愛和館の例と同じで、一方的に判定を下している。その人の実際の事ではなく、私から観たその人の言動ではないかと言うことです。

 その人の実際の「立ち居振る舞い=行為」を事実側の事とすると、①その戸を少し開いた状態にした人であったり、②何かの不都合があって、所定の時間ではない時間に着いたが事実であって、「閉まっていないとか、遅れたとしているのは」私の反応(頭の中で立ち上がった事実とは無関係な認識・感覚でしかない)・・・ここはどうでしょうか。

 

 さて研学に行ってもいないのにと反応されることは覚悟しての発言です。

 研鑽学校Ⅲの狙いになっているようですが、「私自身の中身状態を調べる」ことの大事さを“私の原風景”や“私の中のヤマギシズム”をテーマにし、ヤマギシを妄信する状態になっていないか?を調べ始めています。その成果かどうか、最近、一志の研鑽会の空気も、一人一人の感覚で捉えられた認識・判断を大事にしようとなり始めているように思えます。

 そこでもう一歩を前に進めて、私の中、実際がどうなっているかどうかを探ることが、山岸さんが提唱している研鑽の実質なのではないでしょうか?本当はどうかと・・・先ず私の大本を調べる事なしに、事柄の良し悪しの検討会を続けても、前提が今の私の考えのまま、私の考えは正しいとする物差しのままだとすると、本当はどうか?にならないのではないでしょうか?

 前述の自分の頭の中で立ち上がっただけの内容(感覚認識)を事実として、時には人をこれを根拠に評価したり、妄信しているだけの「ヤマギシズムのあり方」で攻め立てたりしていないだろうか・・・。豊里の高等部男子部の建物が鉄骨むき出し状態にまで解体され、一つの時代の終焉を迎えています。形・現象面は無現象界の顕われにしか過ぎません。

 今、この段階で「ヤマギシズム学園」や「やがて世界中に広がる筈の実顕地」の真価を再考できる資質を持ちえているかどうか問われているのではないでしょうか。

 さあ、皆で愛和館で食べましょうと音頭とっても、それは一時的な現象でしかなく、車の修理提案はきちっと・・・等が脅迫社会、監視社会にしないためにも・・・。

【一志実顕地 鈴木英二】
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コメント

  • 谷口民子(豊里)

     英二さんの文章を読んだ時 難しいことは解らないけれど やさしい社会を作りたいんだなあ と思いました。

     最近のある出来事を書きたいと思います。
    一志の北條美千代さんから 豊里の成瀬信子さん宛にある日 書類が送られました。
    待てど暮らせど 豊里には届かず 信ちゃんは大騒ぎ!
    向かいで仕事を一緒にしているので こちらも巻き込まれ 1階のメンバーも一緒に大騒ぎ! 

     さあー 書類はどこにある 無い 無い と言っている内はなかなか見つからないものです。
    そこで 私は・・必ずどこかにある。
    事実を調べよう と思いました。(笑)

    その時に一志の便で来たのは英二さんでした。 美千代さんが確認したら

    「俺は豊里の村人窓口の産業事務所の箱に入れた!」

    と怒って 電話をがしゃん と切ったと。
    (これは信ちゃんより聞いた話)

    うーん
    そこで 私は考えた。
    入れた と思っているのかな と。

     豊里の窓口のポストには 色々な箱があり、以前私も配送センター行きに入れたつもりが 郵便局行きの箱に間違って
    入れたことがあります。
    可能性としたら そのあたりかな・・・

     結論から書くと
    届かなかった書類は 事実は 配送センター行きの箱に入っていたのです。 

    信ちゃんには 「英二さんに直接聞いてみたら」 と言ったけど 怒っているらしいから とても 怖くて聞けないと言います。
    美千代さんからしたら 豊里のポストの状況はわからないだろうし・・・

    大騒ぎの巻き添えを頂いた 私としては

    信ちゃん・・・ 
     怖がらないで英二さんに聞いたらどうなの?
     美千代ちゃんには豊里のポストのことはわかんないんじゃない
            
    英二さん・・・
     やさしい社会にしたいなら 怒らないで(これは事実じゃないかもね)ほんとに入れたかな と少し謙虚に振り返ってみては

     人に求めるでなく 自分も一緒に創りましょうよ
     女の人は 怖がりなんですよ。
             
     美千代ちゃん・・・
     封筒の宛名の書き方は よく考えましょう。
     怖がらないで 英二さんと一緒にやりましょうよ。

    配送s和子さん・・・
     宛名を確認してから 配送センターに持っていくのも有りかも でも 配送センターでとまっていて良かったありがとう。 

    私・・・
     私たちが生きるって言うのは こんなことの連続だよね。 
    通じあって生きていきたいよね 養鶏法でそんな研鑽したような。
    未熟なもの同士 日々ふりかえって 正直を出していくことかな
    この1件も 今 一志の中や それぞれの中で どうなっているのか
    わからないけど・・・

    大事なことだし 村ネットに入れたいなあ。 

       と 以上 民子目線の投稿でした 長くてごめんなさい。
       でも 読んでもらって 嬉しいです。

    • 江田美知子(春日山G)

      うん、うん! と、一つ一つ うなずきながら読ませてもらいました。
      そう、本当にそういうことですよね。
      いつも「自分はこう聞いた、見た、やったと思っているけれど、事実は、本当にそうなのかな?」と調べていきたいし、
      なにかあるごとに、まず「自分の言動は、ホントにあれで良かったのかな?」と、謙虚に省みていきたい。白紙の心と目で。(練習途中です)

      いろんな人がいて、それぞれ未熟な点などもあって、そういう面々がいっしょに暮らしているんですよね。

      先日も「ナニ、これ。」なんて思うことがありました。
      でも、ひと呼吸おいて落ち着いて考えてみると「よほど慌しい状況だったのかもねぇ」とか思えてきて、
      そうすると「自分にやれることって、ちょっとでもないかしら?」となっていった。
      すると、自分がその人に寄っていっているのが分かり、心がスッキリと軽くなっていくのが感じられました。
      他のことも、こんな風にやっていったら良いのかな、と思っているんです。

  • 本田国子(北条実顕)地

    佐川さんの「春日山愛和館の奇跡」を読みました。研学Ⅲでやった「みかん」のあの場面が思い出されました。
    あの時、自分の中にピンとこなかったものが、今度のこの話の中でピタッときて「この場面、あの時とおんなじだ」という気がしたのです。
    うまく言えませんがほのぼのと、ぬくぬくと心が暖かーくなってきます。
    毎日の暮らしがそんな場面の連続で・・・それだけでいいなーと思えるのです。

  • 喜田栄子(豊里)

    英二さん、私です。
    分かりやすく言ってくれているのでしょうが、やっぱり私には難解。私の感覚や脳を通じてしか読み解くことはできないのでしょうが、それも自分なりにしか。
    でも、やっぱり今を一緒に生きているものとして、それもヤマギシに出会った自分たちとしてももっと、もっと通じて行きたいと思って暮らしていますし、私はみんなと出会えることがなにより好きです。これからもよろしくね。そんな気持ちです。私の書くことも意味不明ですね。

  • ながはたひろこ(雄物川)

    北条50周年に参加したとき車のキーを紛失しました。
    小西さんが遠くから声かけてくれました。「お風呂は探したかー」と。
    帰るとき畑にいた荒瀬崎次さんに挨拶に行った。帰りますと頭を下げたら永旗さんが私の頭を強くやさしく?もっと深く下げれるように押さえた。顔を上げるとそこに前歯をはずした蔓延の笑みを浮かべた荒瀬さんの顔があった。

    どちらもほっこりしたものがあり、今もその光景が私の体に残ってる。

    • 山本孝志(那須)

      読みました。
      誤変換が残念。
      蔓延ではなく、満面、かと思います。

      • ながはたひろこ(雄物川)

        はい。そうですね。

        満面 の 笑み。

        読んで見ておう!そうだよね。ほっこり。

        おおきに!

  • 平山 義章(大阪)

    携帯で読んでいる方もいるようなので長文を投稿するのはちょっと気が引けますが・・・。

    まずは見るということについて僕が考えていることを書いてみたいと思います。
    目の前の光景が目を通って脳に信号として送られてきますが、この段階では写真やビデオ映像のようにその物の像がかなり忠実に届いているのではないかと思います。
    ただ、錯覚のようにまわりの状況でその物の本当の姿とは違って見えることもありますし、人は見ようと思うものをそれ以外のものよりもしっかりととらえようとする働きを持っているようなので同じものを見ても人によってどこをより意識しているかで見える景色が違ってくるということがあるようです。
    今回鈴木さんが焦点を合わせたいのはこの様な目の能力やその個人差の話ではなく頭の中でどのように認識するのか、どう受け止め、どう考えていこうとするのかという「目」から「脳」へ信号が移った後の話だと思います。
    これは僕なりのイメージですが目からやってきた信号に様々な「情報」を付け加える作業が認識するということだと思っています、特に言葉にする時には。「情報」には目の前にあるのは「りんご」だというようなもの、ただ「りんご」だというだけでなく「ふじという品種」だというより詳しいものも、あるいは「社会でのルール」のようなものもあります。
    そして見たものを「言葉」や「文章」にする場合には、どうしてもその人のものの考え方、意識、価値観などが反映されて脚色されてしまうことが多くなると思います。目に入ってくるものは具体的な実体のあるものですが、言葉は人類が作り出したもの「概念」だからでしょうか。

    鈴木さんが出した例で言えば「場内の一旦停止線で止まらず、そのまま通過した」というのはかなりその人のものの観方が付け加えられていると思います。
    なるべく観方を取り除いて表現するとしたら「一旦停止線上を通過した」というような表現になるでしょうか。ただ聞いた人にとっては話の焦点が定まらず何を言いたいのかが分かりにくくなると思います。
    愛和館の例もそうですが「○○しない」というのは大抵の場合「○○する」のが当たり前とか一般的、あるいはそうして欲しいという前提、あるいは逆にしないことが望ましいなど前提がある時に用いられることが多いと思われます。
    一旦停止線のところで止まらなかっただけでなくその前後も止まっていないでしょうに”わざわざ”「一旦停止線で止まらず」と表現したいその心は「停止線では一旦停止する」というルールがあるからでてくるもので「自動車」と「停止線」の映像に、「停止線では一旦停止するというルール」という情報を重ね合わせた時に出てくるものだと思います。
    「事実を見る」ということを忠実にやりたいのならば「停止線で止まらず」という表現はあまり適当でない気がします。
    「やったこと」ではなく「やっていないと頭の中で作り上げたこと」を表現しているからです。

    愛和館の例で考えてみると一志の人が自室で昼食を食べたとして「豊里の愛和館で食事をしなかった」ことも「大阪の平山家の食卓で食事をしなかった」ことも「火星で食事をしなかった」ことも「一志の愛和館で食事をしなかった」という表現と論理的にはまったく同列です。事実は「自室で食事した」という1つだけでしょう。
    しかし、無限に考えられる「食事をしなかった場所」の候補の中で「一志の愛和館」を連想する場合がもっとも多い(というか多分他の候補はでてこないでしょう)のはやはり愛和館というものが単に空腹を満たすだけでない、村の暮らしの中で大きな意味を持っているということと無関係ではないと思います。

    少し話が飛びますがヤマギシズム社会の実態・概要の四・機構と人情社会 に「人を縛る法律万能主義は消えて無くなりますが、それかと云って、原始的無政府・無規範社会にしようというものではありません。」とあり、山岸 巳代蔵氏も一切のルールをなくそうと考えていた訳ではないことが伺えます。
    自他を縛り合う法律万能主義でなく無政府・無規範社会でない目指すべき社会とはどんなものなのでしょうか?
    その社会にあるルールはどんなもので、その社会の構成員一人一人の中でその社会のルールはどんな風に受け止められるものなのでしょうか?
    ちょっと具体的ではありませんが僕の中のイメージでは「最高・最善・最終的」と言えるくらい練り上げられたルールであって、それから外れてしまうと結果として何らかの不便・不都合が生じてしまい誰から言われるまでもなくそのルールに沿っていこうという気持ちになるようなものなのかなと思っています。つまりそれに沿っていくことが最も合理的で誰もが納得できるようなものです。
    そしてもしルールから外れていても直接そのことを取り立てて問い詰めたりするのではなく、生じてきた不便・不都合はきちんと伝えたりするでしょうがルールに沿ってやっていこうとするかどうかはその人の自由意志に委ねるという感じです。

    頭の中にあるものを文章にするというのもなかなか難しいものですね。書き始める時に思っていたものとは違うものになっていますが今日はここで筆を置こうと思います。

  • 佐川清和(春日山)

    春日山愛和館の奇跡

     今から10年ぐらい前、愛和館にも美化なども兼ねて休館日を設けようという提案が研鑽会で出された時、村の愛和館は位置的にも村の中心にあり「常夜灯」のようなものではないのか。この先実顕地はどのようになっていくのか、誰もハッキリした指針を指し示せていない今、せめて愛和館ぐらいは一体食堂「愛和館」としての「食べる場所だけではなく、イズム生活の縮図が顕現される場所でもあるとか、幸福人に成りきることもできる」という仕組み・制度にかけてみようという気持で、休館日はなしでやってみようと云うことになりました。

     ちょうど山岸養鶏でいう「中雛寝枠」のような、いつでも誰もが自由に出入りして一時を憩えるようなものにも例えられます。
     又当時は、村人の人口も眼に見えて減りだしていた時だったので、学育の子らも一緒に食事をすることになりました。そのうち幼年部の子らや老蘇さんも一緒に食事する光景が日常的になってきました。

     ある時、何か心に鬱積したものを抱えて愛和館に入った時、ちょうど夕食時のピーク時だったのか、幼年の子、学育の子、老蘇さん、その他で一杯の光景に出会いました。愛和館の皆が耀いて見えたのです。そしてその中で食事する自分がとても元気づけられたのです。
     ちょっとこんな光景世界中広しといえどもそうそう他には見当たらないな。世界遺産に登録できないかな、とも感じました。

     この時感じた、湧き上がってくるような心持ちは何なのだろう。目前の現象に囚われて一喜一憂したりしている喜怒哀楽の心とは異質の一体食堂愛和館から醸し出される「一体の心」とも呼べるものを感じたのです。 
     ここに今の実顕地の実態があると思えたのです。

     しかも愛和館の光景がそのように映ったのは自分ひとりだけでありませんでした。今一度、落ちついて、じっくりと実顕地の存在価に心を集中させてみようと様々な研鑽会も企画されはじめ、今日に至っています。

     最近もふだんの自分らの暮らしの一コマ一コマを今一度そのまま素直に観てみたいと思って、
     「毎日の食事 風呂 洗濯 家 職場の用意など、誰が何を想ってこんなにもしてくれているのだろう? 報酬も恩も義理も貸しもないし身内でもないし、頼んだ覚えもないのに……。 係だから、担当だから、そうするものだから、言われたから、嫌々そうしているのだろうか?」といったテーマで研鑽しはじめました。

     「豊里の高等部男子部の建物が鉄骨むき出し状態にまで解体され、一つの時代の終焉を迎えています」とか「ヤマギシズム学園の解体、世界中に広まりそうもない実顕地生活様式」等など様々な現象を前にして、暗く見る人とやがて明るい豊かな世界が来ること見えている人と二つの考え方があるといわれています。私には、目の前の荒れ果てたと映る光景も広まりそうもないと映るものも、どうでもよいものに映るのです。価値観の異いからか。できるならば一体の心としてある〓誰の中にもある心ともいえる質のものを、もっもっと研鑽で見いだしていきたいものだと願っています。

    • 鈴木英二(一志)

      へえー!佐川さんからだ。が第一印象、再返信したい内容は山ほどありますが、まず、春日山の愛和館風景についてです。
      自分には佐川さんが言っている世界遺産に登録したくなる程の受け止め方はできませんが、それに近い心境=不思議な世界をみた。”いったいこの光景はどういうことなんだ!”はあります。
       4世代にも渡るいろんな村人が譲り合っての食事風景、一人一人のちょっとした所作にも奥ゆかしさが、あっちこっちで交わされる会話の中身はどうってことないものでも、人の温かさが感じ取れる。人間ならではの交流の場になっている。それは決して考え方だけでは作り出せるものではない。
       誰もが希ってやまない、世界中に拡がってほしい暮らし・・・と。この醍醐味を味わえて、その人の人生観の奥深い所から、そう希っている自覚があるからこそ、何故来ないの!→「来ない人」の言葉使いになって顕れていると考えます。
       何日か前、豊里の矢島さんから電話がありました。一方的に話を聞いた自分側で要点を控えめ(?)にまとめるとこんな感じ?「事実だと捉えているもの全ては、その人の感覚で捉えたものでしかなく、日常的に支障がないのでそのまま物事、人物を事実化していることに気付かず、やり過ごしている。」
       言いたいことは分かるけど、それが今、研鑽になるかどうか?・・ダヨ
      喧嘩を吹っかけられたと受け取る側の心情を察すれば、妥当性はないんじゃないか!言わずにいられないから言うのは我執といえないか!等々。
       村ネットに出す前に、一志のロビーボードに掲示し、みんなの反応を覗っていますが、お前にそれを言う資格はない!云々。 指摘の通り、自分がみんなと一緒に考えたい焦点に合わせてくれる人は・・・・です。
       その人が真剣に取り組んだり、大事にしている領域に土足で踏み込むことは勿論自分の本意ではありません。愛和館や安全研など村の暮らし、運営の根幹に触れるところは控えて、もっと日常的に発生している材料テーマに切り替え絞って、読んでくれる相手に無駄なエネルギィーを使わせない様に・・・心がけしようと・・・。
       佐川さんの「心に鬱積したものがある状態」に反応します。
      自分は前立腺肥大(手術するかどうかの段階)、肝臓欠陥腫の病名をもらっていて、薬の影響からですが、終日(特に夕方)体調不良、コントロールしにくい鬱積したものが溜まっており、弁明に過ぎませんが、「学園について、実顕地生活について」現象面で言っているつもりはありません。この2つについては、このまま素通りはできない湧き上がって抑えきらないものがあり、今までのことを云々するつもりはありませんが、2つのこれからについて考えていける資質が我々大人の世代にあるかどうかは探り続けていきたいと思います。

  • 御所野茂雄(豊里実顕地)

     鈴木さんの出されたテーマは、イズム生活をしていく上で本質に迫る根本的なテーマだと思います。
    なぜなら、イズム生活とは事実に基づいて真実に生きようとする生き方だと思うからです。
    それ故に、私の感じたこと思ったことは事実に副っているか本当はどうかと検べる研鑽を必要とするのだと考えます。
    今の私たちは著しく事実からかけ離れた世界を造ってその中に住んでいると思います。
    例えば、部屋の中にあるものは私のもの、物の豊かな社会にありながらゴミ箱から食べ物を漁って生きる他ないと思うことなどです。
    宇宙から?見たら不思議な、コッケイな人間の世界。
    今の私達は著しく偏った観念の世界に生きている。
    特講の絵図の右側の世界。
    真実の世界は左側のような澄み渡った穏やかな世界。
    宇宙から見た地球は美しい。この美しい地球を蝕むガン細胞、それは事実を見る目を失った人間の行為。
    事実を事実として捉え、真実に生きようとしない限り目指す幸福社会へ近づくことは出来ない。旧来通り、あざなえる縄の如く一喜一憂を繰り返す生き方から逃れることは出来ないと思うのですがどうでしょうか。

    本質に迫るテーマが出たのでつい嬉しくなって日頃の想いをぶちまけてしまった感じです。鈴木さんの出された内容というより、テーマに反応しました。

    • 鈴木英二(一志)

      御所野さんのコメントを読んで「こう書いてあるから、こう思っているのだろう」式に自分の受け取り方(読み方)でしかないのですが、
       まず、事実は事実でしかなく、如何に肉薄しようが、捉えているものは別のもの、しかし、このどこまでも事実に沿っていこうとする姿勢は外せない。この原理(?)で人間の価値・生きる意味・人ならではの一生の真実性が浮かび上がってくるように自覚します。 
       ヤマギシズム生活を実践する意味は、自然界を含めた、日常の些細な事、人とのやり取り(会話)に反応し、何故自分はこんな心からの喜びを感じられるのだろうか!に出会える・・・にあるように考えています。敢て言い方を代えると、一番おいしいところを味わえないのはもったいない。
       数年前、豊里で「ハイハイ研鑽について、未熟々々の鈍愚生」の資料を使って一緒に出し合った記憶があります。その中で「少数の異見こそ大切に・・・これ程言い続けるには何かがあるのじゃなかろうか。」の文言理解について、内容は覚えていないのですが、やり取りしたことを、良く分からないまま、大事にしてきました。
       声の大きい人、研鑽できるとされる人の発言が重要視され、多数意見のまま・・・別に不満を言っているのではありません。こんな空気では一人一人が自分の心の中に潜在的に秘められた一番おいしいところを・・・です。
       この流されずに、本当はどうかな?自分はどうなっているかな?の回路に電流が流れないままだと、私は私はイズム生活の実践者ですと頭で理解しても、心の琴線は響かないのではと考えます。「何かがあるのじゃ・・・」ある場所は自分の外ではなく、自分の心の中にではないでしょうか。
       行ってもいないのに、あんたに「それを言う資格はない!」と言われることも覚悟し、推測するのですが、研鑽学校Ⅲの狙いも・・・。

      • 鈴木英二(一志)

        お前の文章は長すぎて、中身が分かり難い云々の誹り(指摘)を受け、前文途中で切り上げたのですが、言い残したことが気になり、再び画面に向っています。
         村ネットに最初の「愛和館に食べに来ない人・・?を掲載以後、時間の経過もあり、伝え聞こえ始めた<鈴鹿の回し者>の声、当然そうなるな!想定範囲の空気変化を感じつつ、一番やりたくない弁明作業をします。
         今まで取り上げてきた材料全て、一志実顕地敷地の中、最近の自分の周辺に起き、自分の感覚で受け止めた”内なる心模様”のことで、鈴鹿の代弁者ではないと強く言いたい。勿論どう受け取るかはその人次第ですが・・・。
         ズーツと、青本を研鑽してきたので、すでに真実の世界に居るかのごとくの勘違い、この大間違いに気付いて、シドロモドロにここまで辿り付けているing(進行形)状態です。
         ちょっとした違いだろ!と軽く認識している人が居れば、地動説をもう一度天動説に切り替えるぐらいの違いですと答えたい。
         最近村を離れたMさんから聞いた”つぶやき”ですが、やっぱ、俺、山岸教をやっていたかも・・・。山岸さんが青本で説いている”真実の世界”を研鑽してきて、事実側の方に真実はあるな(あるはず)と決めつけて、今まで妄信状態をやっていたかも!多分そうだろうけど、どこまで行っても捉えているのは事実ではない・・・この自覚があったかどうか、謙虚じゃなかったかナー・・・でした。
         真実たらんとしても、この根本的違いがキチっと整理されない限り、賞味期限切れ波続くのでは?またこの妄信を外すのに、頭で考える思考回路を使う研鑽では無理が・・・。

      • 御所野茂雄(豊里)

        最近、英二さんの話は解りにくいというのをよく耳にする。私も17日付の英二さんからの「御所野さんのコメントを読んで」を読んで、部分については解るが結局何を思い何が言いたいのか、肯定しているのか違う意見を言っているのかさえ分からないなあと思って、そのことを返信しようとして何度か読み直しているうちに、こんなことが書いてある、こんなことも書いてあるなと、少しづつ見えてきてハッとしました。
         最初「何を言いたいのか解らん!」としていた自分のものの見方は完全に自分目線、自分の色メガネで見ていたことに気付いて唖然としました。頭では分かっているつもりでもまだまだこんな日常の連続なのですね。
         自分の世界からものを見てアーだコーだと判断して、相手や周りが違うかのように思ってしまう。ひとの話を聴くには自分の思いは置いといてその人の心に寄っていくことでしたね。
         そういえば先日の基本研でKさんが「英二さんの話は分かりにくいと思っていたが、ある日プールで無心で泳いでいたら、フッと自分の何かが外れたような瞬間があって、その時スーッと英二さんの話していたことが入ってきた感じがあった」みたいなことを出していたが、彼女も自分の思いが外れたときに相手の話していることが入ってくるというのを感じたのかな思いました。

         因みに、改めてこのことに気付いた時に、ふと、自分の出したコメントは他の人にどう映っただろうかと思って8日付のコメントを他人目線のつもりで読んでみてびっくりしました。
         自分としては簡単明瞭にと考えて、色鮮やかな熱帯魚を描いたつもりだったが、これが熱帯魚に見える人は余程まれな同じ世界に住む人でしかないだろうし、かろうじて魚の骨らしいと理解してくれれば上等で、大抵の人はタコかコンブか何か描いてあるがよう分からん、といった感じではないだろうか。
         自分の世界に浸り切って表現したのでは通じ難い、芸術ならともかく、日常の会話は通じ合うためのもの、自分の世界を表すにしてもどう表現したら思いを受け取ってもらえるかを心してかかることだった。
         言う態度、聴く態度、これも「やさしい社会」を造るうえで大きなテーマのようですね。

      • 中村 哲(さとる)【京都】

        そんな感じっすね。ヽ(^o^)丿

  • 小西弘光 (北条実験地)

    自分も英二さんと殆んど考えは同じように思います。 1975年に参画(当時は中央調正機関)して現在に至りますが、なにか山岸先生!と大合唱するようになったあたりから少しずつ違和感を覚える様になりました。山岸さんの提唱したこの生き方を絶対とした瞬間から、イズムとは対極のものになってしまうと思います。まさに紙一重ですね。今の実顕地の仕組み自体もこうなっているから、ではなくこうしたらどうか?と軽く想いを出し合ってもいいなあと思います。

  • 中村 哲(さとる)【京都】

    常に自分から始まっている新しい世界を強く意識して
    一挙手一投足に注意怠らず熱意もって往きましょう。
     
    もし、”自分から始まる世界”が無ければ
    自分は世界を変えられませんし
    世界に自分は必要でありません。
    良くも悪くも自分の立ち居振る舞いが新しい世界の端緒になりますので
    大事に大事に 失敗の連続にもめげず
    明るく朗らかに生きて 素晴らしい世界を創って参りましょう。
    こう云うのを生甲斐と言いましょうよ。

  • 鎌田 茂樹

    帰宅時の奥様とのやりとり、身につまされます。そのとき、奥様はそう言ってるだけ、と「解釈」しようとするよりも「どうしてそういう言い方しかできないんやっ!?」のほうが関係が(自分の中身はどうかわかりませんが)前に進むのでは・・・・?
     かく言うワタクシもなかなかそういう言い方はできませんが・・・・・。

  • yagi rikako(大阪)

    事実はどこかで食べている。今生きているなら。どこまで行っても「私の捉えた感覚判断領域」でしかないのでは。というより、それしかできないのではないのでしょうか。そのことをベースに考えていくのが「本当はどうか」ですかね。

  • 柳順(春日 山)

    鈴木さん、こんにちは。
    5年ほど前の養鶏法で一緒でしたね。その時も、鈴木さんが言っていることは、私には難しすぎてよく理解できなかったのですが、今回のも、具体的に何を言いたいのかがよく分からないので質問させてください。
    最後の方に「さあ、皆で愛和館で食べましょうと音頭とっても」とありますが、今一志でそういうふうに話題になっているのですか?それとも、どこか他の実顕地のことですか?(私は豊里での基本研に参加していますが、そういう話題は聞きません)
    それと、鈴木さんは、愛和館で食べているのですか?それとも、自室で食べているのですか?
    ちょっと、抽象的な感じに受け取れるので、具体的にあった場面などで書いてもらえたらなあと、思いました。

    • 鈴木英二(一志)

      多分、期待には応じられていない返事ですが、
      まず、愛和館の食事について云々する意思はありません。たまたま「一志の寿司食事会の整理研の席で、もっと沢山の人が寄ってやれたら・・・と発言する人がいたので、材料として拾わせてもらっただけです。一志のボードに掲示したときも愛和館に来ない人を攻めているのでは・・のニュアンスとして反応する人がいましたが、勿論、真意はそこにはありません。
       材料は何でもいいので共通認識できる、「芥川龍之介のみかん」の場面に置き換えて、敢えて説明(言い訳がましく、弁明行為になるので、避けたかった)をすれば、こんな具合です。
       みかんを窓から撒く前の娘に対する作者の見方が、奉公先へ赴く娘が、懐に蔵していたみかんを弟たちに撒く場面の後、大きく変わる。
       一方的にその人(娘)を蔑んで見ていた見方から、ある得体の知れない朗らかな心持が湧き上がってくるのを意識する・・・・へ(文章の抜粋)。
       最後に、作者龍之介の心境が語られている。「私はこの時始めて、言い様のない疲労と倦怠とを、そうして不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れることができたのである。」・・・自分の一方的な見方(食べに来ない人)にしないで、本当のその人、実際のその人を、日常的にも見ていける様になった方が人生は豊かに、その人と、自分はどうしていきたいかが自明の理として浮かび上がってくるのではないだろうかが真意です。ドウでしょうか? 

      • 紺野幸恵(春日山)

         英二さんの文の中に、形ではなく一緒にやりたいという心を感じました。

         私も日常の中で、自分がどの部分をみてるのかなっと振り返りながら暮らしてみています。

         みんなの中で出し合うことで、自分には見えなかった世界が足しあえるのはすごく豊かだな・・・と思っています。

  • 美里実顕地 沖永健介

    このばあい「食べに来ない人」が事実であってもいいんじゃないかなという気がしますね。
    というのも、事実を見ていこうとするのはあくまでもこころを見るためのヤマギシズムの方法論であって、目的ではないからです。
    ですので、いみじくも書いてあるように、「できるだけ皆と一緒に食べるべきで、食べに来て欲しいと思っている」人がいるのかなあというのがなんとなくわかれば、いいんじゃないでしょうか。
    相手が事実を見れてないから研鑽にならないんだ、と言ってしまえばそれこそ墓穴かなあと思いますが。

  • 山本孝志

    言われているテーマはわかりますが、思いは食べること自体にさかのぼる。
    幼時、近所の畑でおばさん達がサツマイモを収穫していて「以前はこのツルを食べたよね」という様な話をしていて、私は小さなイモをもらって生でかじっていた。
    よく晴れた日で、しげしげと見つめたイモの白い肌と味を今でも思い返す。
    物ごころつくというのはそういうことか、そこからここまで来て、まだ先があるという気はします。