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『けんさん』って何だろう?


こころのメモから<2>

“けんさん”って何だろう?
 ――こころのメモから(2)
 
 もう少し“けんさん”についての独り言をつづけてみたい。

 研鑽というものに初めて触れたのは、39年前の特講で怒り研を体験したときのことであった。一人ひとりが腹立ちの実例を出して、「それでなんで腹が立つのか」と聞かれる。いくら状況や理由を説明しても、「そういう理由があったらなんで腹が立つのか」とまた聞かれる。

 えんえんと一晩中この問答が続く。輪の中央に置かれただるまストーブだけが、発言の途切れがちな参加者の間でゴーゴーと音を立てていた情景を、今でも時々思い出すことがある。

 このときの特講は、翌日もまた怒り研の続きであった。同じ問答が続く間に、朦朧とした頭の片隅で「しかし、そうした事情があったらなんで自分は腹が立つのだろう」と、ふと自分に問いかける瞬間があった。同じような事例で腹が立たなかったこともあったではないか。また他の参加者の事例で、自分だったら腹は立たないな、と思えるものも幾つかあった。そうこうしているうちに、突然目から鱗が落ちたように、心も身体も急に軽く明るくなった。「なーんだ、腹は立たないんだ!」と。

 このときの体験を後になって振り返ると、無意識のうちに自分を捉えていた「腹が立って当然」という常識観や正義感から一瞬のうちに開放されたのではないかと思う。もちろん、これで怒りからいっさい開放されたわけではないが、この体験は大きかった。しかし、そのうちに今度は「腹が立たないのが本当」という観念に縛られることになった。そして「腹が立つのはいけないこと」という抑制心理が働きだした。すると、自分の内心に生じたもやもやを「なんで?」と調べる代わりに、それを「あってはならないこと」として心の奥底に押し込めるようになる。開放されたはずの常識観や正義感が、別な形で付いてしまった。

 そんな自分の経験から考えると、研鑽というのはいつの間にか付着してしまった観念、つまり「正しい」とか「当然」とか「これでいける」とかの無意識の観念を、「本当はどうか」「なんでそう思うのか」と振り返り調べることではないかと思う。事柄を進めるための話し合いは日常生活では欠かせないことであるが、この話し合いそのものが研鑽なのではなく、研鑽とはこれをとおしてまず自分の中の、そしてお互いの中の観念の所有物を「なんで?」「本当は?」と調べることにあるのではないだろうか。

 しかし、「わかってしまっている」人、イズムの本質あるいは真理を「捉えている」と考えている人は、「なんで?」とは考えない。考える必要を認めない。なぜなら自分が“正しい認識”に立っていると思っているから。

 参画した当初、古い参画者から「わからなければわからないほど良いのです」と言われたことがある。よくわからなかったけれども、なにか心に残った。この十数年、さまざまな心の揺れをとおして、わからないことはいけないことではなく、それが事実・実態なのだと素直に認められるようになった。だいたい時間的にも空間的にも相対的な存在にすぎない人間が、宇宙無限の真理に到達できるはずがない、と思えるのだ(これも断定かもしれないが)。とすれば、わからない自分になって、わからない自分たちであることを認め合って、わからないからこそ謙虚に真剣に、本当はどうかと調べてゆくことだと思う。それを自分が正しい、相手が間違っていると決めつけてしまえば、もうそこには研鑽の入り込む余地がない。対立の芽はそこから広がっていく。ただ、自分を省みればわかることだが、多くの場合、研鑽にならないのは相手に問題があるからだと考えやすい。正しさ・正当性を自分が所有していることには気づきにくい(そして今も自分がそうした思考の落とし穴に落ち込んでいるのかもしれないのだが)。

 おそらく正しいか正しくないかには、たいした意味はないのではなかろうか。研鑽学校でもやるように「人間の判断能力」なんて当てにならないもので、どんなに正しいと思われたことでも、あとで間違っていたことがずいぶんある。ずいぶんどころかほとんどだと言ってもいいぐらいだ。とすれば、研鑽にとって大事なことは、正しいことを決めるというより「正しいかどうかわからないから、一応これでやってみよう」という一致点を見出すことではないかと思う。絶対の基準というか、動かせないものを持ちさえしなければ、決めたこともいつでも動かせる。そのさい大事なことが「なんで?」「本当は?」と調べ合う態度であり、その姿勢を共有することを仲良しと言うのではないかと思う。だから、相手に迎合したり妥協したりする表面的な仲良しは、「うそ、偽りや、瞞着の無い」「真実の世界」からは遠ざかるばかりと思えるのだ。

【内部川実顕地 吉田光男】

こころのメモから<1>

 私たちは、日常のように「研鑽」という言葉を使っている。また、何かしらの研鑽会が、毎日どこかで開かれている。そして「研鑽がヤマギシの生命線だ」と言ったりする。しかし、その研鑽なり研鑽会が、しっかり機能しているかどうか? ふとそんな疑問が湧いた。

 ヤマギシズム運動の歴史を振り返ると、今まで何回か分裂の危機を迎えたことがある。大きなものでは、1964年の福里柔和子さんを中心とする人たちが大量に脱会した大津モーテル事件、また最近では2000年の杉江さんたち旧試験場とそれに同調する人たちが鈴鹿に集結していった事件、詳しいことはわからないが、両方とも内部で繰り返し研鑽会が持たれている(「春日山50年のあゆみ」参照)。しかし、研鑽で考え方の違いは解
消されることなく、出る・出されるといった分裂の結果となった。今でも聞くところによると、六川実顕地と紀南実顕地の間で熾烈な対立が続いているという。北条実顕地とならんで実顕地第一号とも言うべき六川の内部から、まさに骨肉の争いが起こっているというのである。

 なぜこういうことが起こり、また起こったのか。ヤマギシには研鑽がある、研鑽ですべてが解決される、研鑽こそヤマギシズムの生命線、等々と私たちは言ってきた。その研鑽が、いざというときになぜ無力だったのか。2000年当時、私は何人かの人に「なぜ研鑽で解決できないのか」と聞いてみた。しかし、その衝に当たっている人からは明確な答えは何も得られなかった。また「こういうことは根掘り葉掘り聞くものではない」という
おかしな抑制作用が自分の中で働いた。その後十数年、私の知る範囲ではこのことが実顕地内で研鑽されたことも話し合われたこともない。ということは、これからも同じ大事が起こる可能性は、解消されていないということである。

 しかし、もっとも大事な場面で機能しなかった研鑽が、日常の小事においては効果を上げているのだろうか。むしろ日常の小事のうちにこそ、大事が含まれているのではないだろうか。毎日の生活が真に研鑽生活として送られているなら、大事が発生するはずはないと思われるのだ。

 そもそも研鑽とは何なのだろうか。話し合いではなく、打ち合わせでもなく、討論でも研究でもないとすれば、いったい何なのか。山岸さんは「正解ヤマギシズム全輯」の出版計画打ち合わせの中で「世界中『けんさん』という言葉で使うようになるようにしたい」と言っている(全集7巻308頁)。要するに“けんさん”は翻訳するに適した訳語がないし、下手に訳せば誤解の元になると考えたのではないかと思われる。

 山岸さんが世界語にしたいとする“けんさん”を、私たちは世界語として用いているだろうか。単なる話し合い・打ち合わせの代名詞として使っているのではないだろうか。このことをぜひみんなで考えてみたい。話し合いのときも、作業するときも、一人でいるときも、その暮らしの日常をとおして私たちは何を研鑽しているのだろうか。どんな研鑽生活を送っているのだろうか。

【内部川実顕地 吉田光男】
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コメント

  • 竹本佳子(春日山)

    節分に法隆寺へ「鬼追い」の儀式を見に行ったのですが、2年前に初めて行った時の事を思い出しました。
    日本最古の鬼追いだそうで、真っ暗な中石畳を歩いていくと、見物人目当ての店やら照明など一切ない 小さなお堂で昔ながらの儀式が粛々と執り行われると言う感じで 神妙な気持ちになりました。始まる前に「写真撮影はしないでください」との注意があったときに、用意していたカメラをささっと仕舞いました。その時に沸いてきた恐れ敬うような気持ちを思い出して、「公意行」というのはあんな感じのものかもしれないと ふと思いました。聴いて、そしてその通りをやる以外なにもない というような心境。
    そして、その公意というのは自分の中にあるようにも思います。
    頭で考えるのでなく自分の中から何かが出てくるのを待つような、
    自分の中の声を聴くために肥やしが要る。
    まわりの人が言うことやみえることや、全てがそのための肥やし、肥料になる。
    それならば、ただただ聴いていける。
    結論は沸き出てくるもの、自分の中心から自然と出てくるもので
    それを待つことかな?と その過程での私かな?と
    思ったりしています。
     

  • 佐藤元泰(春日山)

    吉田さんの『けんさん』って何だろう? を読んでみて。

    自分は研鑽をお箸のように使えるようになりたいと思う。
    便利なものを手に入れたものの、日々の生活の場で使いこなすことができなければ「宝の持ち腐れ」。
    目をつぶっていてもちゃんと、ご飯を口まで持ってこれるだろうか。

    日常的に、思っていること、気がついたことをそのまま話す。
    そして、そのまま聞く。
    そのように話し合い、練り上げたものを共にやってみて、その結果をそのまま受け止める。その積み重ねの日々。

    いつもそのような科学者や芸術家のように、実験的に冷静に、情熱的にできないものかな、と思う。そういかない時にでも、思いがけない自分のこころの状態をもさらに受け止めて、すべて肥やしにしてしまう毎日にできないかな。

    「腹が立たないのが本当」という観念に縛られること、というのも自分も思い当たる状態。
    中には腹が立たない、ということがストンと落ちて、いかようにしても腹が立たなくなってしまった、という話は聞いたことがあるが、果たして「腹が立たないのが本当」と自分は言いきっていいのか、どうか。

    本当に腹が立たなくなる前に、「腹が立たないのが本当」ということが観念に入ってしまったら、本当の自分と、自分のこころ、との間に断絶ができる。
    この落とし穴にはいってしまう危険性を感じる。

    何しろ、特講のような経験は初めてのことで、終えてからも「なんで腹が立つんや!」「残れますか!」「誰のものですか!」の言葉が頭の中でしばらくの間鳴っていた。
    特講の時に見た印象的なものは、世話係りのその言葉だったから。

    知らずしらずのうちに、世話係りになってしまうシンドローム

    そういえば、日々の研鑽会においても、自身のことを調べるよりも、何かというと誰かがまな板に上がってくれるのを待ち構えていることに気づく。

    このことが、「日常的に、思っていること、気がついたことをそのまま話す」ことの第一番目のハードルになっている。

    『しかし、もっとも大事な場面で機能しなかった研鑽が、日常の小事においては効果を上げているのだろうか。むしろ日常の小事のうちにこそ、大事が含まれているのではないだろうか。毎日の生活が真に研鑽生活として送られているなら、大事が発生するはずはないと思われるのだ。』

    日常の自身を振り返ることができて、はじめて大きな事柄も研鑽できるようになるのではないだろうか。日頃の職場や生活の中で現れる自分自身を知ることの積み重ねを通して大きなことを研鑽できるようになる、というのが順番のように思う。
    例えば、ケガをすること、忘れること、落とすこと、遅れること、ちょっとした失敗。

    人とひとの心とこころがもっと近くなることで、ほとんどの問題はもんだいにならなくなるのではないだろうか。
    そういった、心が近くなるという状態を作り出す役割も研鑽にはあると思う。
    何か検討しなければならないことがあって研鑽会が招集されるのではなく、研鑽会が日常的にあるから、いろいろなことが円滑に回っているし、問題事もそのまま丸ごと受け止められ次の糧になっていく基盤ができるのではないのかな。

  • 森川 慶(豊里)

    「会議は踊る」をもじって「研鑽は空回り」と表現したなら大方の良識派?は眉をひそめるだろう。

    吉田さんのご指摘は会員全員にとっても耳が痛いことであるが、憂いてばかりはいられない。

    ならば何んとするか、「研鑽」になっていかない最大要因はずばり{言う態度・聴く態度}の相互欠如だろう。

    研鑽力なるあやふやなものに惑わされず、まして話の巧拙など二の次三の次ではないか。

    そのままを出す、そのままを聴くで、先ずはやって見ようではないか。

    青本や全集からの引用・羅列からはそれこそ「よそいきの研鑽」で「普段着の研鑽」からはほど遠い。

    日常の些細な、見過ごしがちな事の中にこそ「宝物」があると私は確信し実感している。

  • 平島春美(春日山)

    大堀さん お元気ですか?
    『大堀節』を聞かせてもらったような気がしました。
    大堀さんと私、特講同期なのよねー。(940回)
    あの特講に係りで塩田さんがいたなんて、、、覚えてない!
    同じ場面にいたはずなのに33年前とは言え受け取る側によってこうも違うのだと
    改めて、おもいました。昨日愛和館で塩田さんと同席になってその話になりました。
    それでも微かな記憶を手繰り寄せながらあらためて、自分の特講経験がさらに豊かになった、
    ひと時でした。その食卓に佐々木さんもいて、「うちの母ちゃんも其の特講の同期やでー」
    愛和館ならではの愉しい時間でした。

  • 米山千枝子(豊里)

    私は全集に触れていない人間なので、アサハカな捉え方かもしれませんが、

    一幸福研鑽会
    4.感情を害しないこと

    如何なる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになっていますから、何を言われても悪感情を残さない事、それから誰もが思ったことを、思うがままに、修飾の無い本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。政治批判も、同席者の人格非難も差し支えなく、そんなことで弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。
    ———————–

    研鑽ができない人、又、研鑽にならない、という言葉をよく聞きますが、レベルの高い「研鑽」とまでいかなくとも、話し合いにならない原因の一番がこの「感情を害す、悪感情を持つ」ところだと思います。この「感情」の解決が出来ていたら、分離の方向に行かないと思います。
    感情の抑圧、垂れ流しを止めて、まず自分の感情をキャッチしていく練習をしています。

    また現状把握・認識は村づくりには欠かせないとしてますが、それを自分の腹の底に納めておく質のものにしたり、間接話法で互いの心を通わせるということが、「修飾の無い本心のままを、遠慮なく発言し」とか 「うそ、偽りや瞞着の無い事」「真実の世界」というところと重ならないので混乱しています。
     
    集団生活の功罪なのか、私自身の問題なのか、「思っていることを正直にいってごらん」と言うような、小学生にも言い聞かせるようなことが出来なくなったことで、大事なことからどんどん遠のき、大切なものが見えなくなってしまったような気がします。

    吉田さんが書いている事、佐川さんが書いている事、青本に書いてある事、そしていさどんの「目覚めよ」に書いてあること、すべて私の中にあるもので見ています。佐川さんも「人は自分の心の中にあるものを通してしか見えない、心の中にあるものが現実に映るものだとするならば、何を心の中にもっているかが問われているのだと思います。」と書いてました。そうだな、だから、正直を出すがスタートなんだなと再確認しました。

  • 石角 真由(鳴子)

    自分の思っている事がうまくかけずに、書いては消して、を繰り返しています…。
    ので、うまく文章を作ろうと思わずに、書いてみます。

    *****
    「腹が立たないのが本当」という観念に縛られることになった。そして「腹が立つのはいけないこと」という抑制心理が働きだした。
    *****

    という部分には深く頷いてしまいました。
    すっごくそこにとらわれていた時期もありました。
    自分が感じたことを押し殺して、正解(だと思われること)に無理に当てはめていたり。

    ここ最近私が思っているのは、とにかく自分の思っていること、考えていることをそのまま出す。
    ということです。
    子供にイラっとするんですよねー、しょっちゅう…
    そんなのも話しています。

    別の記事に直接話法、間接話法、という話も載っていましたが、
    本心を出すつもりがあるかないかで、全然違うかな、と思いました。

    沖永くんの「数量化できない」という話と、大堀さんの「こどもけんさんかいしりょう」が興味深かったです。

  • 大堀展義(明石)

    (けんさん)は、単純で明快で幸せに直結したもの。僕の特講がそうだった。33年前の春日山。カクマル派、チュウカク派、毛沢東派、反毛派、刑事、元泥棒、青森のリンゴ農園主、オーケストラ指揮者、大学教授、学育の子、主婦、学生、・・・様々な冠や思想をもった70数名の人格が出されたテーマに食らいつく!

    この場では、(正解)も(答え)もない。ただ、出されたテーマに対して(自身)の価値観を、出し合っていくのみ。
    当然、意見は度々(対立)する。係はいるが、意見をまとめようともせず ニヤニヤしとるだけ。

    怒り研の時、中にいた係のモーちゃんに 青森リンゴが切れる!「世間ではなあ、お前のそういう態度を(腹がたっとる)つうんじゃ!」

    そういって、モーちゃんを突き飛ばす青森。

    転がるモーちゃん。しかし、すぐに元に戻り涼しい顔で「今、何で腹たったの?」と青森に問うモーちゃん。
    絶句して、内省を始める青森。結局、彼が一番早かった。

    大学教授は休憩時間に、態度のでかい学育の子を(世話係)と思い込み、「教えてください、遠藤さん!」と頭を下げる。
    若者は立てヒザの横柄な態度で「おっさん、アホか?」と一言。遠くでケラケラ笑う、奥村のバアちゃん。

    そんな、本当に何の立場も、年齢も、上下観も何もない、横一列の関係がとても心地よく、僕は思いっきり自分を皆の中に
    さらけ出していた。そうすると、他の意見がどんどんと自分の中に入ってきて、まるで大きなフライパンで混ぜご飯を炒めているような自分のアタマだけで(正解)を探すようなチマチマとした作業ではなく、もっともっとダイナミックで意外性や発見の連続つうか・・・
    何か、ストンと納得できる瞬間が一杯あったように思う。

    (こどもけんさんかい しりょう)というのがあったね。
    けんさんかいでは、せんせいがいうから とか、おとうさんやおかあさんが いうからただしいとしないで ともだちのいけんが じぶんのいけんとちがうからだめ ともしないで ほんとうはどうかなと みんながよくなるように よくかんがえて おもったことをそのまま はつげんします・・・

    確か、以上のような内容だったと思います。これが、(けんさん)の神髄だと思います。大きな組織の変わり目の、大切なテーマが話し合えず事実が隠蔽されたり、(回りの目)が気になり、(自分の立場)が気になり、<思った事を修飾せず、そのまま>発言できなくなり・・・

    また、このような話も聞いた事がある。「研鑽会では、同席者の人格批判も当然してよい。それぐらいの事で腹を立てる人は出ない事だ。」

    皆が良くなる、本当の事を探る場だから、間違いだらけの個人同士が(サルの蚤取り)さながらに、間違いに気づき合える唯一の場なのだ。
    だから、(けんさんかい)で、無我執だとか、一体だとか、理念に照らして(正解ヤマギシズム)的な思考で、いくら考えても無駄。
    その時、その場、その一瞬、その怒りも哀しみも我執も何でも、それをそのまま(正解)に修飾せずに マンマで出せたら、それが宝!

    そのように、一人ひとりが(間違いだらけの自身)を愛して、貴重な一素材として(研さん)のフライパンに身を投げ出せたならば・・・
    (人の目気にし症候群)の仲間が、勇気を出して「ようし、私も!」と参画しだす。それが、気が付けば、幸せ・・・に繋がる。

    (偉い人)や、(研鑽力)のある人に(気おくれ)して、その場に行かない、行っても何も発言しない・・群衆が何を(けんさん)?
    こどもけんさんかいしりょう に ゴールインスタート!

    • 今井 律(内部川)

       なんだかすごく楽な、簡単な、気がしてきた。
      そうだそういう感じでなくちゃ全人に通用するはずもなく、そんな繰り返しの暮らしを出来るはずもなく・・・
      後はやっていく、それだけだ。
      わが子相手にも”けんさん生活”していくのだな。たのしいな

  • 麻野幸子(豊里)

    独り言(2)を読んで。特講での「残れますか」が五里霧中、1年後の研鑽学校で「残れるんだ!」と天にも昇る解放感を味わった。で、参画して17年もして、

    2年前の研鑽学校Ⅱ。「それは事実ですか」の問いかけに、「残れる」ことは事実だ!とすっかり決めていた私を発見。は~、思いなんだなあと今度は肩から力が抜けた。残れることは事実だと決めて、随分、自分を窮屈に縛ってきたことよ。憐れであるし、身に近い人ほどを困らせてきたなあ。ゴメン。  

    どこまでいっても「思い」の中、心地よい、ぬるま湯の温泉にどっぷりと浸ってゆるりと参ろうかな。渡る橋は我が胸中にあり。

     吉田さんの思いを聴かせてもらい、触れる琴線が響く。あたかも暁に陽光が及ぶが如くに照らし出されて・・・。これを「けんさん」と呼びたい私です。

  • 豊里  御所野茂雄

     独り言(2)を聞いて私の感じたところを2・3挙げてみたいと思います。
     「腹が立たないのが本当」という観念に縛られることになった。「あってはならないこと」として心の奥に押し込めるようになる。とありますが。新しいことに気づいても、自分の感じたことを「こうだとして決めて持つ」という考え方に立っている限り、旧来通り常識化されてしまう訳で、そこを解決しない限り同じことの繰り返しになるということではないかと思います。
     また、「研鑽」は「持たない人」研鑽学校の予科公人完成課の目指す「公人」「真の人」となるためにも有効に使われますが、何も持たない、零位に立ってからが本当の研鑽になり、持たない人達の研鑽生活によって、かつてない新しい社会が創造されていくのだと思います。

     それと、 研鑽にとって大事なことは、正しいことを決めるというより「正しいかどうかわからないから、一応これでやってみよう」という一致点を見出すことではないかと思う。 というところでは、正しいかどうかとかどう在ったらよいかということと、見出したことを実行するかどうかというのは研鑽の目的が違うことで、それぞれ別のテーマとして考えることではないでしょうか。

    • 麻野幸子(豊里)

      崇ちゃんが建設に来た。今、お母さんは産後で実家にいて彼はお父さんと二人。ぐるぐる丸を書いて「お手紙書きたい。お父ちゃんと暮らしています、と書いて。」とやってきた。私は、こんなちっちゃな子でも、前向きにやっていこうとしているんだなあ!と感動しながら平仮名をならべた。

      で、次の日、お父ちゃんに話したら「幸子さんが勝手に感動してもいいけど、彼が思っていることとは別だよね。」あぁ、又、だあ。自分が思ったことと事実はちがうと頭では分かっているのになあ。すぐ、くっつくんだよなあ。

      それを出したら、御所野さんが、何度も繰り返すというのは、「事実と思いのちがい」を理解してないんだろうね、と言った。「え、わかってるよ。」と即座に答えるわたし。次の瞬間、あ、自分は「事実と思いのちがい」をわかったと思っている。 そこが大きな「思いと事実のちがい」。
      前からずっと言い続けてもらっていた。初めてこころに響いてきた。聴けた。どうして気がつかなかったのかなあ。私、事実と思いが分離出来ないんだ!

      長いトンネルを抜けた感じで、出来ないからダメだとも出てこない。事実と思いのちがいを検べて理解したい、とスッキリしている。
      が、ここで、自分の感じたことを「これだと決めて持つ」では元の木阿弥。

       山の頂上はこれだとしてキメつけないで、どれが頂上か分からないとし・・・。分からない頂上を求めて、その身その心はまだまだこれからだとして、山のふもと・中腹に身も心も考えも置いて、前進して止まず、一人一人の心即ち全人の心とし、みんなの知恵・力を出し合って、よりよくより高く昇っていきつつある・・・。

  • 坂神廣親(いわき)

    もう30年も経ちますが、私が特講を受けた時
    「みんなの考えを取り入れて私の考えでやろうとする人」
    「みんなの考えで私の持ち味を活かしていこうとする人」
    私は参画できませんでした。私に持ち味がある事は解りますが、私の考えでやってしまう年齢であったのかもしれません。
    が、しかし人が寄ることは大好きで、そこには様々な職種・様々な年齢があり私の持ち味を確認できたからです。そして気づいた時の感動がたまらなかったからです。この大男が何度涙した事でしょう。
    私はこの持ち味で ただ出すだけ。そして寄った人も出すだけ。だからその中で心に響いたこと、自分の消化したものを自分の持ち味に加えていく。そんな感じで研鑽としておりました。だから時には鶏や牛 畑からも研鑽材料としてきました。そして実顕地は私のふるさとになりました。
    今 実顕地にどんな問題が発生しているか?吉田光男さんが何を言いたいのか?1会員としてはとても理解出来かねますが、研鑽に答えを期待しますが、それは問題内容によっては一致したものになるのでしょうか?一致を求めているのでしょうか?
    だれでもが居心地のいい世界を求めている筈。老若男女・様々な職種。でもそれは他の人に求めるのでなく、自分がどうか?だから自分が感じ動く。そんなのが研鑽の醍醐味ではないかと思っています。
    テーマから外れているかもしれませんが、吉田さん またお会いしたときゆっくりお話を聞かせてくださいネ。楽しみにしています。

  • 小泉僚平(春日山)

    大学部がなくなったのも一つの大きな事件だと思います。

  • 安井利夫(一志)

    ヤマギシズムと心

    研鑽ですべてが解決されるというのは本当にそうなのかこのことについて私が考えていることを、述べてみたい。
    研鑽には、理論、方法、実行の3種類があるとされている。このうち理論と、方法は、言葉を使って概念をまとめる作業だと思う。
    実行は、研鑽した理論、方法に基づいて、体を動かしてその結果生ずるものを言葉で理解し理論、方法へフィードバックしていく。この繰り返しがどこまでも継続して行く。目標は定められても、到達点は永久に来ないと思う。なぜなら、進行途中にフィードバックや内外からの変化が加わり、そのことで目標が変化するからである。目標を永久に固定することは研鑽に反する。しかし現実としては、絶対に到達点に達しなければならいことはないから、ある点まで近づければそれでよしともできる。
    ところで、問題は、この研鑽をしているのは、コンピュータや、機械ではなくどこにでもいる、普通の人間であると言う点だ。
    普通の人間にはいまだ解明されていない心があり、その心は情動を生み続ける。研鑽していくということを考えると、研鑽態度が十全にあり、どれだけ多視点からテーマを考えられる能力があるかということであるが、仮にあるとしても、ひとつのテーマそのものの視点は無数にあるということをどう位置づければよいのであろう。特に強く思うのは、人間の心とのかかわりがあるときである。殆どのテーマはこのかかわりから逃れることはできないとは思うが。人間の心に生ずる情動をどうやって研鑽していったらよいのだろう。途方にくれる。何故なら情動は固定したものでなく瞬時に反応する(脳科学では千分の数秒といわれている)生き物であり理性は往々にしてその情動にハイジャックされる。それでは研鑽にならないからである。情動にハイジャックされないようにうまく情動をコントロールしつつ、すなわち、常に研鑽態度を正常に維持しながら、研鑽を続けられる保障はどこにあるのか。
    「2000年当時、私は何人かの人に「なぜ研鑽で解決できないのか」と聞いてみた。しかし、その衝に当たっている人からは明確な答えは何も得られなかった。私の知る範囲ではこのことが実顕地内で研鑽されたことも話し合われたこともない。ということは、これからも同じ大事が起こる可能性は、解消されていないということである。
     しかし、もっとも大事な場面で機能しなかった研鑽が、日常の小事においては効果を上げているのだろうか。」
    と「けんさんってなんだろう」で吉田光男さんが述べているように、現実は何の保証もなく、研鑽できなかったのである。情動がうまく制御出来ると思っている人がこのヤマギシに何人いるであろうか。私の知る限り、参画以来26年間、情動が研鑽態度の妨げになるとか、それを一時的に回避するとかの方法は知ることは有っても、情動の制御について研鑽した覚えはない。
    全てのことが研鑽できるということは現実にはないのではないか。
    常に研鑽態度を正常に維持しながら、研鑽を続けられる保障がない以上研鑽を有効にしていく唯一の方法は現実を見ることであると思う。それは難しいことではない。今のままでよいと腹に収められるかである。普通の人間が理想を抱いて、現実の中でたとえ研鑽態度が十全でなくとも研鑽でやろうとしている私たち、伸展合適を願っての日々。研鑽で進めることで高まる純度。それでいいのではないかと思う。その速度が遅いと不満があるなれば、その原因を研鑽究明したいものです。

    •   杉 豊(春日山)

        情動の制御を含む「人間とはー2012年段階での人間の精神性を探る」といった
      テーマで研鑽会をもちたいと私は想います。
        
      「2012年段階での人間の精神論ー私案ー」

       ○人間の客観性とは各自の情動をどこまで制御できるのか?

       ○研鑽と客観性はどう関係するのか

       ○日常 直感や感性からの情報で判定しつつ、作業や人間関係をつくているが

        本質的にはどう云う事なのだろう?
       
       ○コミュニティーの必要性が社会的に論じられるが、

        実顕地はどう応えられるか?

       ○瞑想などの精神の冷静さ方法の有効性はあるか?

      など、ポイントあげてみました。

      • 安井利夫(一志)

        「2012年段階での人間の精神論ー私案ー」
        始めの3項目は、私もかねがね探って生きたいと思っていたテーマです。
        同じように考えている人はもっといると思います。

  • 河合さをり(奈良)

    今日NHKの「朝イチ」で不安脳の話をしていました。
    不安に思うことは当たり前、無理に不安を消し去ろうとしたり、押し込めたりすると爆発したときに
    パニック障害のような病気になるそうです。
    これを防ぐには、客観視を鍛えることだそうです。
    客観視は瞑想で身につけることができるそうです。
    思ったことを瞬時に手放すことが大事だそうです。
    人間の脳波は普段いろいろ考えるハイな状態か考えることをやめて眠くなる状態かを行き来しているようです。
    ところが瞑想時には、脳の血流は安定した状態を保ち脳波は一定を保ち続けます。
    誰でもできる客観視の訓練では、目をつむり小川を思い浮かべ、そこに一枚の葉っぱを浮かべてみるそうです。
    その状態で、思い浮かんだことがあるとその葉っぱに浮かんだことをそっと乗せて流してやることをイメージするそうです。
    一日15分一週間続けると不安脳の人はかなり改善されるそうです。
    不安脳が改善されることで、現実に目をむけ解決していく方向にすすめるとのこと。
    客観視って、零位に立つことなのかなと思いました。
    研鑽って、みんなで愉快に瞑想しているのかしらとも思いました。
    不安な気持ちがない人たちの社会は幸福社会じゃないかしら…

    ちょっとずれていたらごめんなさい(--;

  • 鎌田茂樹(西宮k)

    そういえば、参画したてのころ(35年前ですが)も研鑚会をやっていました。

    いま思い返すと、相当薄ら寒くなるような自分の内実でしたが、それでも研鑚している気にはなっていたと思います。

    できるかどうか、できたかどうか、でなく、今の段階の自分を(自分たちを)見つめ、見つめつづける作業が研鑚なのかな?

  • 平島春美(春日山)

     日々色々な研鑽会にでる。 
    私だったら職場の毎日の出発研、昼の連絡研(時々)仲良し研 健康部研 健康介護老蘇推進研 むらネット研 イズム生活基本研 ケア推進研 、、、まだその時々であるけれど、その合間に仕事をし、本も読み人と真面目な話もし、バカもいう。そのすべてが繋がって今日の私がある。ひとつひとつの研鑽会が独立しているわけでもなく、いつもいつも研鑽したなーという実感が残るわけでもないけれど、今日の私の中に流れているものがある 、実感。

     吉田さんが言われる大事の時に研鑽会が無力だったと言われる現場にいあわせてないのでわかりませんが、「運動」は集合・離散しながら、引き継き流れ豊かなっていく、又は役目を終えていくのではないかしら。流れの一部を切りとってみてもわからない、、、と最近思ってます。

  • 杉 豊(春日山)

     研鑽は、研鑽できる土壌がいると想います。
    その土壌とは、お互いをよく知り、許し合える中とゆうものでしょうか。
    かと言って、おたがいを甘やかすことではないと想います。
     そして一方に真なるものを、探求しつつ、その真なるもの、どの人も掴みえな
    お互いとして認め合うことだと、考えます。
     人生と云う不思議さに取り組む仲間として共に、
    歩んで行きたいと想います。

  • 中村 哲(さとる)【京都】

    先日、京都の”みんなでよろうかい”に出席しました。
    お昼はそれぞれが 一品持ち寄っただけなのに 
    おせち料理並みに豊かなメニューになりました。
    食べながら「何が入ってんのん?(^_^)」とか
    「何を使ったでしょうか?( ^^)v」と 場が沸きました。
    『一品競技会』でも『一品選考会』でもありません
    何を出すかは各自まかせですが 食べるのは皆が味わいました。
    出されたモノを食べてみないと味はわからないですし
    出てくるまでの過程や経緯も 尋ねなければ知れないのです。
    それぞれの舌がどう感じたかは 永遠に共有できませんが 
    同じ時を共有し同じモノが腹に収まった楽しいひと時でした。
    研鑽会もこのようなものではないかと思います。

    食べて尋ね倒して得た一品一品についての情報を研磨・錬成し
    次の一歩に繋げていく作業を”けんさん”と言う技術とするなら
    ”けんさん”を駆使する”研鑽会”は技法です。
    技術・技法を使える能力を技能ととらえると
    取り組むべき分野は技能面となるんでしょうかね。

  • 山本孝志(那須)

    私は、最近は、研鑽というのは「発言した瞬間にそれは私の考えではなくなる」ということではないだろうかと思っています。
    例えば「こういうことをしてみたいがどうだろうか」と発言してみて誰も反応しなければ、それでおしまい。
    別の機会に同じようなこと提案して、反応があり事態が動き出す場合は、私もあの時の私ではなくなっていたということでもあるかと思います。

  • 美里実顕地 沖永健介

    こころなどと同じように、量や度合いを数値化できないものですよね。
    ですので、研鑽になったとかならないとか一定のものさしで評価できるものではないのでしょう。
    また、「無我執」も「あの人は無我執だ」「あなたには我執がある」などと評価できるものではないですよね。
    評価付けはネタやじゃれ合いとしてはおもしろいかもですが、真面目にやり合うには気が引けます。
    研鑽でやりたいと思っていても、それにあるはずもない固定化した評価が入ったとたん、逆にぶれていくようです。見えず、評価できず、定義付けできない、だからこそ価値があり、人と人を結びつけるのでは。

  • 中村 哲(さとる)【京都】