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いまあるままで容易にできること


 

 春日山では4年程前から、その時々の村の空気を、「実践の書」などの研鑽資料の表現で顕してみたテーマを出すようになりました。
 その時々の春日山の空気を顕したものですから、全員に理解を徹底させようというものとは対極にあるものです。だから、テーマに全然関心を寄せない人もたくさんいます。むしろ、そういう人がいてあたりまえの村づくりを目指しての毎月のテーマです。
 テーマを通して、自分を振り返ったり、つながり合っている日々を確認しています。
 今月は次のようなテーマです。

          

    いまあるままで容易にできること

  • 第二案 他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと。
  • これこそ無理のない自然の真理であり、ヤマギシズム社会の基本となるもの。
  • これがない社会は、無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会です。
    (知的革命私案 14.人情社会組織に改造 より)
  • 第二案 愚かさを気付く の「を」と「に」の異い。

実践の書に、
「一番重点を置き、他の二案は欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案は第二案で、即ち幅る辱しさに気付いて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています。」
と、あります。

 私は子どものころ、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が好きで、「そういう者に私はなりたい」と思って、書き写して部屋に貼っていました。
 ところが、大人になった私は、食べることが大好きだし、つい自分を勘定にいれてしまうし、新しく春日山に家を建てるとしたら、広々とした二間続きの部屋で、窓外には緑豊かな景色が広がっていてほしいと研鑽会で言っています。

春まつり用の生パスタの試作をすると聞きつけ、オイシク頂きました。

 日照りの時は「こんなに暑いときに外作業は大変だ!」と言い、でも牛に水をかけてやりたいと思います。寒さの夏は、作物や農家の人たちに思いを馳せはするけれど、「牛が過ごしやすくていいわあ。水かけもしなくですむし・・」と思います。
 
 ようするに、自分の心地よさからの発想が中心ですが、心底には宮沢賢治と同じ心情が流れていると思っているし、この二つは矛盾はしないのではないかと思っているのですが・・・どうかな?違うかな?

 そして今度のテーマ、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付いたら・・・なんだか自分が小さくなっていく・・・宇宙自然界のなかのほんの小さな自分をあらためて思う・・・と、まわりのすべてに親愛の情がわき出てくるような思いがします。

 でも、まだまだわからない。こんな程度のことではないかもしれません。
 これからみんなで研鑽して、どのような世界がひろがっていくのか楽しみです。

【春日山実顕地 柳 順】
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コメント

  • 麻野幸子(豊里)

    他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと。ハッキリ捉えられないが、気付かないうちは潤いのない造花の社会に住んでいるんだろうな、と言う人がいた。

    自分は専門の建築に「プライド」を持っている。大した知識でも技術でもないと思うのも嘘ではないのだが、実はしっかり自分の拠所にしている。これで、他との壁を作り、こんなものを楯に突っ張って周りと溶け合えない私がいる。他を侵し、何より自分が窮屈。

    夕食のテーブルで長年、専門職に就いてきた女性と隣り合わせた。私の心情を言ったら「ブルータス、お前もかって感じヨ。私も今、そこを考えているよ。
    その人は少し見え始めてきたと言っていた。  向かい側には学園育ちの人たちが3人。「あんな子たちが育つために私たちいるのかも」と一言。

    「柔あるのみ、剛は一切なし。」潤いのある空気を醸し出すような、おんなのひとに成り合っていきたいと強く思った。

    「人の心も皆、明るい昼の姿になります。手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します。」

    • 麻野幸子(豊里)

      コメントを読んで、全集第三巻p119 少数の異見こそ大切に オーケストラのところを読んでみて、とメールをもらった。新めて読んでみた。

      「来年こそ、来年こそで、一生死ぬまで希望が持てるところに・・・」
      「向上するためには失敗も参考になり、逆説、反論、脱線だと見える意見も大いに役に立つでしょう。そして心ゆくまで本当の研鑽をして、やる時には心を一つにしてやって試みることで・・・」

      正解をやりたがる自分だなあ。それと、「心ゆくまで本当の研鑽をして」が抜けていることに気が付いた。

      人情社会組織に改造「その限界を定めて」 その限界を憶測というか、あやふやな根拠で自分で決めて、自分はその線を越えないようにと四苦八苦。愚か!

      基が無くて・・・砂上の楼閣が造れると思い込んでる浅ましさ。成るように成していく真面目さが欠けている。

  • 沖永雅子(豊里実顕地)

    14日の基本研で研鑽しました。

    “他を侵す”と聞いて私は、日ごろやっていて「この人、もっとこうなってほしい」「こうしてくれたらいいのに」みたいな、

    相手を変えたい強い思いが出る自分、それを振り返ったときに、変だなと思うし、恥ずかしいとか、してはいけないことをしたような気持ちになる

    というのを出してみました。

    私のは具体例ではなかったのですが、稲越みち子さんが、実顕地でのちょっとしたやりとりの具体例から同じような話を出してくれました。

    聞きながらその情景を思い浮かべたとき「あれっ?!」って思いました。

    研鑽会のあと、この「あれっ?!」を自分で整理してみると、

    『他を侵すことの浅ましさ、愚かさ』 その時までは、この元の資料に出てくるもうひとつの案の “境界を越える” と同じ意味に捉えていたのが、

    一瞬のうちに見える世界が変って、それは元々出来ないことで、そんなことを出来ると思っている “浅ましさ、愚かさ” に見えてきました。

    そして、それは、他を侵したとする自分を責めたり、戒めたりするのとは、まったくちがう、新しい世界のようです。

    上手に説明できなくて、今はこの程度ですが、同じように感じた人があったら、補足してほしいです。

    • 麻野幸子(豊里)

      元々出来ないことって、他を侵すことを指しているんですよね。

      「他を侵すこと」をどう捉えているか、動物が生きるためのものとは異う、人間の間違った考え方である「獣性」からのものと考えます。

      間違った考え方を振り回すことの『浅ましさ・愚かさ』を気付く。

      言わんとするところは、諦めとか無知からの間違った観念から真の人間向きの観念に、知的に革命することかな。  

      他を侵すことは、元々というか、真の人間には出来ないこと。「万象悉く流れ、移りゆく」世界に橋を架けてみるとシッポのやり場に困ります。

    • 麻野幸子(豊里)

      『その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと』
      ある日トイレの美化をしていると、いつもそこを見ている人の声がした。途端、「あ、まづい。領域に踏み込んでいるって思われる。」と、こそっと立ち去った。他の場面にもよくある私のパターン。窮屈!
      研鑽会では「限界、狭すぎ」「トイレ美化ごときに限界をもってくるの」とか「分る、わかる」とか。

      ある人が「その限界」って言っても固定したものでなく、相応しさとかで変わっていくと言った。聞いて自分は限界を定めたら動かさないという心構えでいるなあ、更に「人の仕事を取らない」とか「それ以上やったら嫌味になる」と昔聞いた常識を持っていると気がついた。
      ひと言「やっといたよ。」位で済むものを、杓子定規に決めつけた考え方で、へだてを作り親愛の情の流れをせき止めて潤いのない世界にしていた。

      日常の身近な例で研鑽してきて、今、とても楽。わたしが変わるだけで、にこやかな社会に。
       『他を侵す』とは、正しいとキメツケることかな。その浅ましさ・愚かさを知った。
       本当はどうなんだろうと、研鑽して実践しながら、私の中に潤いのある、生き生きと、馥郁と香る花園を育てていこう。

      『他を侵す』

  • 麻野幸子(豊里)

    建設の整理研で、 人と人との心の持ち方を探るのはちょっと高度でないか?まずは判り易いところから考えるのはどうだろうかと出された。

    で、知的革命 14.人情社会組織に改造を読んでみると「物の世界」から入っているようです。具体的で、子どもにも理解できるところから考えてみるのも良さそうです。

  • 奥田なな瀬(阿山)

    私も順さん好きだな~
    このテーマを見たときは、下の本文に気がいっていたけれど、改めてみると、いまあるままでが心に響いてくる感じです。順さんはいつも、いまあるままで、という感じだよね。
    日々の中で起こってくるいろいろなことと、感じることと、その時々のテーマと、ずっとつながってきているような、それでいていつもつづく・・・というような・・・
    順さん、これからもみんなと一緒にやっていけるの楽しみだね!!

    • 柳 順(春日山)

      先日研鑽会で、「一緒にやろうよ!というのが、他を侵していることになるのではないか」と出している人がいました。
      それを聞いて、「なるほど、そんな感じもするなぁ」と思いました。
      「一緒にやろうよ!」と言われて嬉しい時と、重くなる時があるようにも思うけれど、「一緒にやろうよ!」というのにも、中味がいろいろありそうだな・・・。
      実際一緒にやっていくときには、楽しいことばかりではないと思うし、心境もいろいろだけど、やっぱりそのことがやりたくてやっていて、歓びになっていく。
      ただ、それは「一緒にやろうよ!」と、こちらから言うことではないのかもしれない・・・。
      どうなんだろう・・・?   いつも「・・・・・・?」   今までのテーマからつながってきて、これからも続いていくネ。
      なな瀬ちゃん、一緒にやっていこうね!(?・・・・・・・??)(笑)

      • 平島春美 (春日山実顕地)

        昨日の基本研で「他を侵す」ってどういう事だろう、、、?とでました。
        ひとはいつでも知らず知らずのうちに「他を侵してるのではないか?」とも。
        「生きていく」ってことはそういうことなのではないか?と私も思いました。
        「いつでもか?」「そりぁーチトさびしいー」
        「隔たりがあるからやー」とか
        「他」とはなにか?「一体の中であえて他というのはなぜ?」

        又 相手を腹立たせた時、他を侵しているのではないか?という話も出ました。
        腹が立つ相手の中に問題があると考えがちだけど、腹を立たせてしまったこちら側に
        「侵している」というという自分に向けた矢印があるとしたら世界が違うのではないか?、、、等々色々出て、面白かったです。次回は出書の『実践の書』の63ページを読んからいこうかな、、、。

  • 麻野幸子(豊里)

    これから研修所になる建物の玄関の壁紙の張り替えを引き受けた。古い壁紙をめくり始めたらあや?私にやれるかなって広さになってきた。うーん・・・

    どんどん重たくなってきたが、長い期間使う建物でもないし、なるべく安くしたいし、自分でやってみたいし~(これが一番強かったかも)私、何とか自分

    で、と突っ張っているなあ。と、その時、そうだ!さっき一緒に張替範囲とかを話し合った人がいたと気付いた。研鑽ダナ。

    玄関だし、高さもあるし、業者にということになった。 何かほ~としたら、私の身に合うこと、部屋美化をモンゴルの研修生へ贈りたいなあと湧いてきた。

    「他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと」わたしの場合、頑張る、頑固に言い張る浅ましさ、愚かさがポイントかな。

    自分、自分が外れたら、ふんわり、わたしの中の人情が顕れてきたのかも。やり始めた時とはちょっと異うこころ持ちなんだよ。

  • 武藤慎哉(別海)

    順さん、好きだなぁ。

  • 鈴木敏子(内部川)

    基本研で出しあうの楽しみだね。今 私は飯田実顕地に養鶏の交流にきています。                  メールを打つ練習もはじめています。よろしくね。