
春日山の隣、山畑地区の「火の見櫓」
ヤマギシの村づくり(1)
- 一日一回考える時をもつ。
- 火の見櫓に登って、村中を見渡してみる。
- 芝居の登場人物を、客席から観る態度で眺め楽しむ。
火の見櫓(ひのみやぐら)とは火災の早期発見、消防団の招集、町内への警鐘の発信などに使われていた見張台である。
昨年は、8月から私意尊重公意行のテーマでやってきました。研鑽していくうちに、「公意」の捉え方が随分と私の中で変わってきたように思います。
さて年が明けて、今年は「村づくり」をテーマにやっていきたいです。
今年も共に研鑽していきましょう!
【春日山実顕地研鑽部 柳 順】
研鑽資料
賀正 ヤマギシの村づくり
○○実顕地は、ヤマギシズム社会化の単位の村を形成する。この段階での理想社会づくりはヤマギシの村づくりと呼ぶのが適切か。
全生活ヤマギシズム指向のもとで参画された人達がその地に居るというよりも、そこの住人になりきっての立ち振る舞いが地について夫々治まるとき「金の要らない仲良い楽しい村」の村人像が浮びあがってくる。
実顕地全体の生活環境も全て村としての構造と機能を備え、地理地勢自然環境とも密接な一体の調和観の中で、一村が形成され、地域社会に対しても無辺境で囲いなく、やがて村と村とが融合され、ヤマギシズム社会化へ進展合適する。
その村づくりに、テキスト陽的社会の一節を一字一句指標としてみよう。
そこには陽光燦やき、
清澄・明朗の大気の裡に、
花園が展開して馥郁と香り、
美果が甘露を湛えて人を待ち、
見るもの聞く声皆楽しく、美しく
飽くるを知らず、
和楽協調のうちに、
各々が持てる特技を練り、
知性は知性を培い育て、
高きが上に高きを、良きが上に尚良きを希う、
崇高本能の伸びるが儘にまかせ、
深奥を深ねて真理を究め、
全人類一人残らず、真の人生を満喫謳歌
することができるのです。
この文章を絵にした村、詩にした村人でどうだろうか。
コメント
昨年末に、恒例の企画(?)年越し蕎麦のことで一悶着ありました。
若い人たちがメインで進めている年末年始企画の場で、「昨年のように、全体をみるところに食生活の人にも立ってもらいたい(立ってもらわないと不安)。」という私の思いを出しました。
ところが、食生活としては今年はそれは出来ないというので、「え、なんで?夕食でしょ?」と、常識的な思いをぶつけました。でも、できないというのだからしかたがない。いやいや、しかたがないのではなく、数年前に大みそかに手打ちの年越し蕎麦を始めた時の、やりたいと思った私がそこに立つという初心に返ってやろうと思い直しました。
当日のその時間になってみたら、何から何まで準備万端。私は、ゆがかれた蕎麦を出していくだけ。「すごいなぁ。私はいったい何を心配していたのだろう・・・。」
仲良し班1班による、かき揚げも加わってみんなが大満足しました。
年が明けて元旦の夜に、新春の集いをしました。昨日年越し蕎麦を食べた会場が、すっかり集いの場に早変わり!
ケーキなどを食べながら、子どもや里帰りの人も一緒に集います。
今年の抱負や、新年を春日山で迎えてみての感想などをメインに突撃インタビューさせてもらったのですが、「そろそろ終わっていいかな?でも、まだ時間があるけれどどうしようかな?」と、ちょっと迷っていた時に、葛原光太郎さんから「もう終わってもいいんじゃない。」と、そっと声がかかって、終わりにできました。
20代~40代の人たちが主になって進めてきた年末年始企画。若い人たちの実力をおおいにみせてもらいました。「この人たちと村づくりを進めていくのだなぁ。一緒にやらせてもらいたいなぁ。」と、益々思いました。
そして、テキスト「陽的社会」の一節は、すでにここにあると思ったのです。
・一日一回考える時をもつ。
研鑽会で「一日何度も思うけどな~、考えるのかあ。」と言う人がいた。 「思う」と「考える」は違うなあ、って思ったけれど。
ハテ、どこがどう違う?と考え始めた。 そして、それが「ヤマギシの村づくり」にどう繋がっていくのかな(?_?)
火の見やぐらに登ったわけではないけど、豊里の連絡研でいろいろな職場の話が聞けるのは
ちょっと村中を見渡してみるという感覚だな~。
いろんな人が寄って来て、その時その時のメンバーでいろんな話題があがる。
身近に気楽に顔見ながら、みんなの意見も聞こえて、どうしようかな・・・となったり、
わたしに何ができるかな?と思いをはせたり・・・
連絡研に足を運ぶのは火の見やぐらに登るに繋がらないかなーー。
もっと高い所から全体を見回すことなんだろうかなー。