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大海に浮かぶ孤島としての実顕地


仲良し研や資料研で、先日初めての試みで開かれた全国の法人経理と生活経理の人の研鑽会の様子を聞かせてもらった。
80人近くの人が集まったとか。

経理事務研って地道にズーッと開かれてるなーというのは、なんとなく知ってはいたけれど一緒にやるのは初めてなんですね。
春日山では、村人用の法人と生活の窓口を一緒にして行こうという動きがあるようです。
便宜上決めていた、お金の動きや清算方法の決め事がいつのまにかひとりひとりの考え方にまで影をおとしてないだろうか?という話になりました。

夏場に生産職場(外職場)で飲むポカリスエットや、のど飴を職場の備品の買い物のついでにしたら「別にして」と声かけられて、提案しにくくなったとか。
荷物の送料は送り手が払う?それとも受け手が払う?とか。
出張や交流の日当は日にちの長短で違って来るからそれによって日程を組むとか。
人によって日当が違うから来てもらう人をどうするかとか。

この社会(資本主義制度)の中で給料がない社会を顕現しようとしているのですが、今出来る現行法に合わせて処理していってる事柄もあたかも現実に給料や日当があったり、技術料があるかのようにが見えてきてしまう恐ろしさ。
いつの間にかどっちが得か損か?に目がいくようになってそれが私の出来る経営みたいに思ってきた。
ひいては人の価値やモノの価値まで金銭の額とダブって、本来は処理上のことで大事にしたかったこととは別だったはずなのに。
それって旧来の金銭感覚が引き出されて、なんだか危うい・・・。

私は娘達が東京にいるので、子供の所への出張は電車で動くことが多い。交通費の精算がいつも憂欝です。
真面目に細かく書き出して、それでも合わないことが多い。その帳尻を合わせる事が憂欝。
それって、誰かにそのように書いて精算してと言われた訳じゃないけど、そうしてた。
生活のことはそんなに細かくしなくてもいいって聞いて「へぇ~そうだったのー!」とビックリでした。

若い人達の金銭感覚も多用で面白かったです。
お出かけしたら、いいな~と思うものに出会う。そりゃ~欲しかろう。雑誌をみたら、こんな服来て見たーいと思うけど、とっても提案できないよねー。
そうかと思うと、子供服は300円以上は買わない。自分の服も2000円でたら買えない(買わない)なんて話も出た。主婦の鏡だねーなんて、突っ込みも入ったり。
自分の中でもせめぎ合いしてる感じがありますね。だから悩む訳です。
さらに旧来の金銭感覚も浮いたり沈んだり・・・。

「お金のいらない社会」を「お金のいる社会」の一角につくってるわけだから、同一線上で考えたら、矛盾するのは当たり前。
なんかもっと、すっきり、道具として使いこなせるはずだったのにな~。
現実の気持ちは案外すっきりいかないものだ、とこんな気持ちを出し合って笑い合いたいもんだなと最近考えています。

大海に浮かぶ孤島での出来事

大海に浮かぶ孤島での出来事

【春日山実顕地 平島春美】
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コメント

  • 杉 豊(春日山)

     お小遣い=小口現金とも称されますが、経理的なことはさておき、わたしにとつて、使い勝手のいい一万円です。
     欲しい本をよく買っていますが、次から次へと読みたい本が出できて、留まることが、ありません。村岡さんの「ユートピアの模索」でも言っていた、「欲望の管理」のあたりも、探る必要があるように想います。

  • 中川 洵 (豊里実顕地)

    春美さん、そうなんだけど私の気持ちとちょっと違う
    石角さん、例によって「そのまんま」でいいな!
    などと思って、私も何か軽くコメントしたいと思っていました
    そしたら川田さんがなんやら難しいこと書き込んできて…

    でも島を盛り上げている元のところにはサンゴ礁とか魚の住む場所もあるけど、私達がいるんです
    そしてまわりを見渡せば、ひとつの地球

    私たちの目標は「お金のいらない社会」なの?

    • 平島春美(春日山実顕地)

      中川さんの言われている中味をもうすこし詳しく教えてください。

      私たちの目標は「お金のいらない社会」なの?に続く言葉はなにかしら?
      私は貨幣に換算しないで物や労働がそのものの価値とか必要性や歓びで流通する社会を目指していると
      思ってた、、、けど。

  • 津嘉山誠 東京

    お金ってなんだああああ と考えてしまった。そういえばあのときただの紙と石みたいもんじゃん と めっちゃすっきり心はればれになったのが思い出されます。お金がいらないんじゃなくて お金のいらない間柄よって豊里の里芋畑でじいちゃんがいったのが いまでも底に残ってます。あれって何のことかお金出すたび思い出しちゃう。最近 ネットでニュースをみるとますます一つなんだなあ〜と感じます。企業が倒産したり合併したり軍事戦略に戦闘配備されたり犯罪がおきたり、、やっぱり一つなのにそれを分けようとするところの無理でこうなってるんだな〜とつくづく思います。その無理をジブンに見つけ出して放していかないとすすまない。孤島にみえてもやっぱりつながっていて。金銭感覚なんて一番あてにならない 誰もが1万円のシャツを着るのが当たり前になったら とたんに2000円のシャツは安いシャツだと思っちゃう。先月子供の誕生日祝いに服を探しにいって 2人で選んで2900円〜9800円までの4着の候補の中から 一番高い9800円のベストがいいと言って それを買ってあげて 高いな〜と思いつつ、、、ベストを着た息子はちょっと照れた感じで現場にやってきて なんだかワクワク新芽のようで そんな子がワクワク光をつくっている姿を見たら 現場も光も輝いてみえて。それはあの 無理 がなかった気がしてます。たぶん2900円でも9800円でも そこじゃなくて。 着たい気持ちとつながっていく湧いてくるものをとめないで観ていけるジブンになっていきたいなと思っちゃいました。

    • 平島春美(春日山実顕地)

      物の価値ってなんだろう?
      津嘉山さんのコメントを読み直し、思い出した(浮かんで来た)ことがあります。

      私はチビなので、足のサイズが21.5cmです。若い時から靴に拘りがあります。まずはサイズ、ピッタリ感、長く履いて歩いても疲れない。案外ないのですよ。

      一志にいた頃、あそこは小遣いが1万円と精算がいる小口現金が1万円なので、精算の条件を満たした、よしのやの靴を2万円で買いました。(提案しなくっても買える便利さ?)私にとったら、高い買い物でしたけど、充分価値がありました。
      今でも大事に履いています。ウォーキングシューズではありますがさすがにちょいお出かけに履いています。
      東京さー行く時もこれで。

      この靴履いてるとどこに行ってもなんか、シャンとしてられるの。「たかが靴されど靴」特に靴屋さんや洋服買いに行った時は店員さんが丁寧に扱ってくれるの。

      津嘉山さんの息子さんが輝いて見えるのとは違う世界?かも。でも共通する所もある感じもする、、、の。私の心持ちを微妙に左右するこの感覚はお金は「観念」だと割り切れない現実、とそのものの価値をストレートに感じる歓びと、なんか層になってる。なんかうまく言えないけど、、。

      • 津嘉山誠 東京 

        シャンとしてる晴美さんきっと輝いてる かも。 街にでても 雑誌をみても 着てみたいな〜 っていうなんか ワクワクするぽっと湧き出るものはすごく大事じゃないかとおもうのです 今それを買う 着る のは別として。そんなの一般家庭でもあたりまえですけど。ジブンにはあんまりなくなっちゃたのですが。((ひとつの実顕地が現在の社会で許容されている(自由)のレベルより下回ってはいけないと思います。))とおもいます。地域と変わらない環境のなかでの本当の暮らし えっ なんで同じ社会のなかで暮らしてるのに何がちがうの?? っていうのがいいな〜と思っちゃいます。自らの気持ちを自ら止めてしまってないか。何度かあるとそう思い込んでしまうジブンの回路ってなんだろうとおもいます。物にしてもあらゆる本当の価値って ジブンのおもいや考えとはまったく別のところにある気がします きっとそれがみえて 暮らしていけたら ホントに豊かで、、、遊んで暮らせるんじゃないか、、、ジブンカップラーメン夕食かお弁当の暮らしです 能天気すぎて言っちゃいました

      • 佐々木順子 たまG

        精算が・・とか、1万円が・・と文字を見たら
        読むのに、私はなんだか心が痛いです。
        春美さんが、元気に暮らせるなら、お金の額じゃないとちゃうかな。と思ったりします。

        5年前になりますが、息子が中等部の親子デ-中に、学園での日常サンダルを親子3人で探しました。まだ多摩実顕地に私達が移って間もない時期で、周りのス-パ-や店のある場所さえ知らなかった。
        最後に見つけた店は駅前ビルの中の素敵な店。そこで、やっと見つけた。
        息子にしたら初めて「自分で選んでいいよ」と親に言われて、買ってもらったサンダル。
        うれしそうでした。
        でも、学園の係さんに、私は叱られましたね~。
        ま~係さんが言う内容は分かりますが。
        私は弁解なく、黙ってました。
        息子は学園を出発して今高校3年になります。
        そのサンダルは、今も靴箱にあります。
        汚れたら洗って、彼は大事に履いてます。

    • 佐川清和 春日山実顕地

      津嘉山さんが投げかけてくれた「自由」のテーマに刺激されて思いつくまま記してみます。私は日々の実顕地生活の中で一つの誓いを立てています。それは津嘉山さんのコメントにあるように、「もし実顕地の中の自由が、資本制社会の自由のレベルよりも下回るならば、自分はヤマギシを見限る」といった誓願です。これだけは40年前の『前涉行程論(2)』以来ブレることなく今に至っています。
       もちろんここでの自由とは、世界共通の「個人の意志、考えを曲げないで、意志通りに行動できる状態」と定義します。
       同じ実顕地に日々暮らしながら、「お金(所有)の自由は制約や競争・優劣・勝ち負けがあって限界があるが、ヤマギシズムの自由は妥協なしでどんな状態にも合適(コントロール)していけるから無限の自由があるなぁ」と感じている人もいますし、「調正される自由なんて窮屈で不自由だなぁ」と感じている人もいます。また、あきらめや慣れ要素でそんなに不自由を感じていない人もいます。様々です。
       問題はこの先にあります。
       こうした各人の自由感を超えたところに、「本当の自由」を満喫できる実在の世界が見いだされないだろうか、と。この問いかけは、きっと人間にとって理想をもつとか、可能性に賭けるとかいう人間ならではの人間性の発露に通底する質のものだと考えます。
       つまるところ「資本制社会の中に理想的な社会を創る」こと自体、馬鹿げた無茶な話かどうかの実証に行きつきます。なにせ失敗累々を踏みこえて来たのですから。
       センジつめると、「観念を変えずに努力しているうちはエライ」ので、誰の心にもある真実から新しく出発しない限り、「本当の自由」は立ちあらわれないのだという至極当たり前の道理に辿りつきます。  
       要はあの「特講」体験に習って、人間の知能(研鑽)でホンモノとニセモノをはっきり分けて識別し、かつその関連を結びつけていく実動行為の繰りかえしが問われているのではないでしょうか。

      • 津嘉山誠 東京 

        佐川さんのコメントを読んでから1週間になる。その間お金のこと(お金という観念)と そのものの価値がずっと気になって 毎日いろいろなものを ジッと観ながら過ごした。コメントをずっと読み直した。いつも気にせずあった物たちがだんだん見えるようになった 4日目ぐらいにいつも使っているキャンバス地の鞄がとびこんできた 持ち手が握った分だけ変色し 淵はよれて 土がつき 日に焼け ボロボロになっていた その鞄が心にとびこんできて それを観たときに 汚すまいと ホコリだらけの現場ではビニールを被せ 雨に濡らすまいと軒下に移動し たくさんの現場をいっしょにやってきた日々が思い起こされた。ああ これはジブンなんだと。ワタクシのなかの鞄だと。 気づいたときに 愛おしくて涙があふれた。物に現れる心の世界ってこれなのかなと ふと思った。そうしてさまざまな物たちを見回すと 全部がジブンでありました。 在ることの豊かさでいっぱいになっていた ありすぎてその少しの重さを感じながら。ものの価値は経済学の交換価値や 量の希少性による限界価値や また別の物神性などとはさらに別の ジブンの内にみつけだしていくことで ひとつから という世界のひとつの事実がみえてくるのかなと思った お金なんてないじゃん心の世界に 10年以上前の そのものの価値 の研鑽会での 気づきかたとはまた別のものだった 『各人の自由感を超えたところに、「本当の自由」を満喫できる実在の世界が見いだされないだろうか』 のひとつには ジブンと照らし合わせて深く 丁寧に 内省?内観?してみたら 『誰の心にもある真実』 がみえてくるんじゃないかと思った それが研鑽だったのかな 特講でのあの観念の簡単とも思えるヒックリ返りも同じなのかもしれないけど。 『要はあの(特講)体験に習って』はジブンのなかにある 本当のもの 見えていることも全部ジブンのなかにあることに気づくことからしかはじまらないんだってことなのかな とか考えた でも決定的なのは 個人の ジブンの中にある真実も 理想的な社会を創ることの理想にこそ その価値が生かされる気がする そうして卵油コラムを読み直していくと 今までとまったくちがう世界が起ちあらわれました 

  • 川田正己

    資本主義であろうと社会主義であろうと個人または共同体(家族や会社)で食べて行く生産活動にはそのコストと得られる利益のことを考えないとずっと生きて行くのには問題がありますね。そのコスト、利益を畑仕事でなり立たすのにお金が必要になってきたのが文明社会なんだと思うのですが、汗水たらす事が貨幣価値となってしまっていて然も疑問することの出来ませんものね。豚舎で働いていた時、この旨そうな子豚一ぴきで何人分のディナーが作れるかなとプリプリとした子豚の臀部を見て興奮したのを思い出しますが、自分の力で自分も人も食べていけるのだな、と自覚した経験です。いま学校に行ってる子どもたちが生きてゆく手段にお金がいる、なんてことに疑問の持ち様がないような自分たちの社会ですね。僕が大阪でレストランをやっていて、やはりコストと利益の管理について何だかおかしい、人が喜べば、僕と妻の顔が蒼くなって行く日々でした。それは全てのコストと利益をマネーに換算するとコストだけが手元に解決しなければいけない問題として残るのです、処理しなければならない数字が僕らの昼と夜の労働の軛となります。あれだけ旨そうな子豚に、青々としたほうれん草に、夢のような形の玉子に、興奮して夢中になったあのキッチンでの情熱と冷静に没頭した僕らを毎日訪れたお客さんたちを解決しなければならない数字みたいになっていくのです。しかし、あのコストと利益の決算を人の幸福に換算すると逆転します。行為であるコストが幸せを運ぶ自分たちの労働と実感できるからです。もちろんその場合でもより良い生産活動でなければじぞくできませんが、何をもって損とするか、得とするか、考えるようになりますね。悪い頭で考えるとこんなことになりますね。
    ただ、ぼくは言いたかったのです。大海に浮かぶ孤島、ちっぽけな島、そこは大海原を渡る鳥や蝶にとって旅を続けるための場所だし、けちな目には見えない島へと盛り上がっていく海底にはサンゴ礁とか魚の住む場所があって豊かなのだと、見えないんだ、テレビとか新聞とか決算書とか計画案とかそんなものばっかり気にするぼくらには、と。

  • 石角 聡 (内部川実顕地)

    現実の気持ちは案外すっきりいかないものだ、っていいですね。
    すっきり割り切れる方がなんか危ない感じもするし。

    関係ないけど、この写真の孤島ステキですね。