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私の宿題です・・・【基本研】


「最後は自分がなんとかする」ってどういうことだろう、、、?

前回の基本研で豊里のお風呂美化の話がでた。
由美子さんがタイ交流に行って、お風呂美化を只今担当の千鶴代さんはいろいろなところで声をかけられるそうです。

「この時間なら入れるよ・こんなことならできるよ、、、、」それをどう聞くか? 数あるポイント(9項目あるんですって)をいろんな人で埋めて行くというか成り立たせていくには、どう動くか?それが面白い。そんな時「最後は自分がなんとかする」というのがあってのことだけど、、ネ。

だけどその時「最後は自分がなんとかする」→「自分がなんとかした」みたいな心持がかすかにあるような、しかし果たして実際にそんなことがあるのか?自分がなんとかできる部分はほんの一部よね~と言う話にもなった。(私の受け取ったニュアンスなのでちょっと違うかも、、)

生原さんもちょっと前の話だけど、、と言って、こんな事例を出してくれた。

豊里ファームで豚肉のある商品が切れて、精肉に「僕がカット・パックするから出してもらえないか?」とかけあったそうです。「それは出せない。生原さんがやったらいいという問題じゃない」という返答。
その担当者も実は自分でなんでもできる(やってきた?)人ではあるけれど、あえてそう言ってくれたのではないか?という話になった。
僕はやっぱり、事柄を優先させてきたかなーと考えさせられた、と生原さん。
私もズーとそれでやってきたけど今は「一緒に考えよー」とやってると恵子さん。

私も思い当たる節が数々ある。
もっと若い頃は時間も気にせず、思いっ切りやれるのが嬉しくって、「なんとでもなる」と思ってやってきた。どっちがいいとか、悪いとか、そういうことではないし、いつでも真逆の気持ちが同居しているけれど、今は、違う要素がいる気がする。

「なんとでもする」の中身も事柄ではないかなとも思う。「なんともならない事態」もとりあえず引き受けるって事もいるかな。体力も気力もちょっと前のようにはついて行かない昨今、だからこそ、考えられるテーマでしょうか。

又、世代のせいではないのかもしれないけど、もうちょっと若い世代(どこから、、、?)は受け止め方が違うような気もする。
その時その時なんでしょうね、本当は。永遠の宿題。

【春日山実顕地 平島春美】
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コメント

  • 下田妙子(一志実顕地)

    昨日の基本研で再び春美さんの書いた「最後は自分がやる」が話題になりました。最後に自分がやったとしても、全体からしたらほんの少しのことなのに、結局自分がやらないとダメなのねと気持ちが重くなったりする。あるある。
    だけど一志で機械が壊れて他Gより多数の人が来てくれたときは、いざという時には自分のところを置いてでも駆けつけてくれる暖かい社会に自分は住んでいると感じました。
    できるなら100%こんな感じでいきたい。いつもは不安なく暮らしているけど、もしかして誰もやってもらえなかったらどうしようと何か事が起きたときにわずかに感じる不安の種。
    それって何だろう。昨晩も愛和館の戸に張り紙がしてありました。「今日の片付け入れませんか?」これを心配の種と受け取るのか、誰もほっておかない暖かな社会の出来事として受け取るのか?
    私の心の中の針が左右に揺れるのを感じてます。

  • 下田妙子(一志実顕地)

    私もその研鑽会に出ていました。私の捉え方ですがコメントしてみます。
    「自分が何とかする」というのはあくまで「そこに立ってやる」ことなのですね。
    自分がやれるからといって「やってしまうのがいいかどうか」という問いかけがそこにあると思いました。私は、例えば鶏舎で朝一に東のカーテンを閉める作業を、担当ではない棟もやれるからといって、やったほうがいいものかどうかと考えることがあります。鶏の方から見たらやるべき場合もあるとは思うが、担当者のやろうとしている気持ちに対して、邪魔している場合もあるのではないか・・・と思います。