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本当の面白さはそこに【基本研】


檜風呂の修理の話が出た。業者さんを修理に呼んだそうだ。
建設では削る位ならできるとか、修理を依頼する前に研鑽したかったと出たそうだ。でもどうせ呼ぶならもっといろいろな人で話を聞こうとなり、衣生活のメンバーも交って、その専門家に話を聞いたのがよかった。古代ヒノキが採れなくなり、古代ヒノキを使った風呂は今、作れなくなっている。個人の家ならともかく25年もみんなで大事に使ってもらっている。なぜ、檜表面が削られたようになるかなど、いろいろ話して貰い、見直しもできて大事に使って行きたいと思ったなどの話だった思った。

建設では研鑽してほしかったと出たと出したのは同じ建設部のメンバーからで、呼んだ担当者は最後に檜の専門家を呼んだけど、もとがとれて、高くはなかったよねと述べていた。

その時には気づかなかったけど「それならどうしよう・・」となり、よい結果になってよかったと思ったけど、基本研ならもっと考えてもいいのではと後で思った。
勝手に呼んでしまったとまで行かなくても、呼ぶ前に研鑽してもよかったのではと出してくれているのに自分のテーマにならずに、過ぎてしまっている。どうだったのかなと自分を観、考える場になっていなかった。
研鑽しなければとか、つなげなければならないとなったら終わりだけど、自分のテーマ、自分に向きあう場になれなかった。その場に一緒にいながら、流してしまった私だった。

最近自分の殻を破った、殻に気づいた話は出てこないけど、本当の面白さはそこにあるのではと思う。

【豊里実顕地 喜田栄子】
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コメント

  • 麻野幸子(豊里実顕地)

    コメントし、一夜明けて。「もっと研鑽したかった」というのを私は聴けないんだ。あ~だこ~だと状況を書こうとするモトは「自分の正当さ」だったな。

    さっきまでこんな状態。当然!実際に聞いた時はまったく聴いていない。
    形だけ整えて「では、研鑽しましょう」とやっても議論になるだけなんだなあ。

    • 麻野幸子(豊里実顕地)

      ならば、本当はどうかと探っていくにはどんな要素が必要か?まず「聴く」

       今回の場面、「もっと研鑽したかった」と聞いた、途端、エー、私、何か間違った~、で、あれこれと振り返って、ハア、費用を妥当と独りで判断して即専門業者に依頼したことだな。それくらい担当に任されるんじゃないの~と忙しく頭を動かし、言ったのが「ずーと経過を伝えながら研鑽でやってきたでしょ!」

      何か言いたいことがある人はまったく完全無視の私。ひとり芝居を得々と。
      これが実際にやっている、私の「聴く」だった。
      「聴く」場面に私は登場しなくていいなあ、要らないなあ。

      さっき、言った本人に確かめたら、すぐに業者に、の前に自分たちの手でやれないかなを「もっと研鑽したかった」 やったことなんて責めたりしてないよ。

      聴く態度を身につけたいけど、もっと心の豊かさを私の中に育てなくてはなあ。

  • 麻野幸子(豊里実顕地)

    よくぞ拾ってくれました。私が修理依頼をした人で、スッキリせずにいました。
    建設部で「もっと研鑽したかった」と言う人に、え~っと抗するものがあった。

    衣生活から安全優先ですぐ修理との提案。費用は必要な分で。建設で検討して、担当は私。価格は妥当と私が判断し、業者の都合が明後日というので、即、依頼したら、次の朝、「もっと研鑽したかった、削る位自分でもやれるし、何で幸ちゃんが判断するのか」と。(え~、ずっと経過も出しながらやってるのに~)

    出発研では、費用も妥当だし専門家がいいのでは、更に有効に活かすを検討し、実行。結果、檜風呂の価値も見直され、モトが取れたかなと言ったのはその事。
    テーマはそこではないですね。