ヤマギシのむらnet

川渕通生さんを囲む会


囲む会 5

川渕さんの通夜の時、私は一つの事例を紹介して彼の素晴らしい行き方を紹介しました。
それは、いつか来るかもしれない災害に備えるよう年配の活用者全員にLEDライトをプレゼントしているということでした。
その時、実はもう一つ是非発表したい事があったのですが、内容がヤマギシズムに関わることでしたので、親戚の方もいらっしゃるなか、ためらってしまいました。
そして今日、川渕さんを囲む会では発表したいと思っていました。でも、活用者の方も多い中ではどうなんだろう、との思いでやはり発表を躊躇する自分がいました。

このままでは発表する機会を逃してしまうので、今日の写真と共に ここで紹介したいと思います。

それは、去年1月の研鑽学校最終日前日に数人づつに別れて明日の研鑽作業のテーマを考えるという研鑽会で、4人で何時間もかけて「私意尊重公意行」の研鑽をしたことです。
研鑽が進むにつれて、全員が今までこのテーマをとても違った内容で捉えていたこと、はっきりと理解しないで使っていたことなどが見えてきました。

そして、これが真理の世界の成り立ちそのものを顕わす言葉であり、真理の世界から齋されたことを心を込めて次に繋げるという様な内容の理解で一応の一致を見いだしたのです。

そして、そのことが、川渕さんのその後の供給活動にも大きな力になったのだと思います。

また、その研鑽学校でも、 日常の供給活動でも真理にそって真摯に生きようとする彼の素晴らしさも共に供給活動をやってきた者として是非伝えたいです。

西宮供給所 鎌田茂樹


みんなで「笑顔ひとつで」を歌いました。
(動画)↓
https://docs.google.com/file/d/0B8fMOwPFykgkZ0U0LU56V0Jwd2s/edit?pli=1

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コメント

  • 東度千鶴代 (船南) 

    通生さんを囲む会は たくさんの会員・活用者の方達に
    囲まれて ひとえに通生さんの人柄の繫がりに 
    とても心あたたかく 心通いあう会でした

    通生さんは60歳で亡くなったけど
    全力疾走で92歳までの人生を走り切り
    潔く逝ってしまわれましたが
    まだどこからか現れて来そうな気がしてます
    たくさんの繫がり有難うございました。

    あさこさん・大阪供給所の皆さん・黒柳夫妻
    何からなにまでお世話様でした。

  • 坂神廣親(いわき)

    川渕さん  ありがとう!。
    京都の・大阪の・神戸の 等々の友を 私に遺してくれました。

    あの大震災の時に いわき に来てくれて、大阪へ呼んでくれて、新しい人生の友との新しい絆が産まれました。

    振り返れば 貴男をいわきに連れて来てくれたのは朝子さんであり、朝子さんを知ったのは那須Gで那須Gを知ったのは特講で、特講と出逢ったのはお母さん(妻)であり・・・・と  辿っていけば数え切れない程の人達の繋がりで、神様は貴男と引き合わせてくれて、そして貴男は、今のボクに多くの関西の友人を遺してくれたのです。

    若いかもしれません。でも貴男は全力で生きて、全力で愉しんだではありませんか?。
    そして 今 こんなに多くの人達に囲まれて次の世界へ出発していく姿は、いわきのボクの心の中に鮮やかに生きていくでしょう。

    誰でもが 必ず そちらの世界に参ります。
    その時 笑って握手が出来るように、これかのボクを創っていきます。

    囲む会にはお彼岸の中日でお伺いできませんでしたが、心は皆さんと共にあります。
    安らかに ゆっくりとおやすみくださいネ。    合掌

  • 黒柳史朗(京都)

     篤い男通生さんを囲む会らしく、中央に祭壇を置いて皆で周りを囲みました。何もかも全くの手作りの会でした。
    黙祷の後、出席者全員で般若心経を唱えました。先導は僧籍を持っている女性が勤めてくれました。フリートーキングでは活用者や会員からも熱いメッセージが寄せられました。O-35のときに歌った楽園村ソング『笑顔ひとつで』も全員で合唱。

     大阪Kがなくなるという事との二重のショックではありましたが皆が新たな絆を結ぶ機会にもなったように思います。全国からメッセージやお供えも届いていました。通生さんがとても大きな存在であったことを改めて感じた素晴らしい会でした。

  • 大角宏一(豊里)

     通常ではお別れ会とか偲ぶ会というのだろうが「囲む会」として開かれた。事実遺影の写真の後ろ、息子の浩平さんの作った竹灯篭に囲まれて遺骨が安置されている。
    80人余りの会員・活用者の方たちが周りを囲み、余りにも早すぎた川渕さんの思い出やエピソードが次から次へと時間切れ。
     如何に彼が大阪の人たちのこと、生産物、会活動のことを気にかけ行動していたか再認識させられたことだ。もちろん周りの支えがあったからだが、よくもあれだけ多彩な活動をしたもんだ—-彼の情熱と体力には脱帽!!
     二次会で参集者の率直な話
     食生活友の会、大阪(供)の閉鎖、春祭りの中止(縮小?)、次は?
    私たちの実顕地への足が遠のく、交流の機会が無くなってしまうのは寂しい限り—–