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故奥村きみゑさんへ お別れの言葉


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 奥村きみゑさん、あなたは100年生きられました。100年と言うと一世紀です。一世紀をよく生きてくれました。お位牌の裏には享年百歳と書かれてあるはずです。享年とは天から享けた年という意味があるそうです。きみゑさんは自分が生きたいから100年生きたのではなく、天から受けた100年を生きられたのだと思います。
 私達は今日、人としての奥村きみゑさんを永遠へと送り出します。そして私達春日山実顕地では一昨日川口和子さんを永遠へと送り出しました。戦後70年の節目と言われている今年、山岸巳代蔵さんが提案してくれた幸福社会づくりに全てをかけてくれたきみゑさんと和子さんという二人の女性を永遠へ送り出すことで、私は何か大きなもので背を押されるように感じるのと、このお二人と共に生きて歩んできたことを誇りに思いほんとうにありがたく思っております。

 きみゑさんを偲ぶとき、特講の中でテーマについて考えられず苛立ったり激しい言葉を発する人に「○○さん、本当はどうなんでしょうね」と穏やかにやさしく声をかけていたきみゑさん、その声そのものが、きみゑさんとして私の心の中に今も生きています。
 特講から帰ってヤマギシの村の中にいるきみゑさんは<奥村のおばちゃん>と呼ばれてみんなに愛されていました。そして大きな薫陶をもたらしてくれました。春日山で毎年餅つきをするのですが若いお母さんが合いの手をしてくれます。その人たちの多くがヤマギシズム学園高等部で育った女性なのですが合いの手をする姿の中に<奥村のおばちゃん>が生きているのが見えるのです。
 又以前、豊里実顕地のすぐ近くに公的な焼却場が建てられることになりました。鈴鹿山脈からの鈴鹿おろしがいつも吹く豊里にとってそこに焼却場ができるのは大変な事態なので、なんとしてもやめて貰いたいとする動きが起きました。それでも公共の施設として着工されることになった時、きみゑさんは他のおばちゃん達と共に、男の人が前面に出ると騒動になりかねないから、ここは女の人にやらせてと、工事の最先端での座り込みをしました。大型のパワーシャベルから、砕石を頭の上からふりそそがれそうになっても、「作られたら困るんです。どうかやめてください」と訴えつづけてくれたのです。それで今の豊里実顕地があるのです。

 きみゑさんのお位牌の中に『和室』と書かれてあります。これについて、お通夜で導師様がこれは奥村和雄さんのご内室、つまり奥様であることを顕したと説いてくださいました。きみゑさんの亡き夫奥村和雄さんは山岸巳代蔵さんが提案された、みんなが幸福に生きられる『金の要らない仲良い楽しい村』をヤマギシズム発祥の地、京都に顕現しようと志を同じくする人と船南実顕地を創ってくれました。そして幸福社会と呼べる規模の実態を造るため、豊里実顕地創設メンバーになってくれました。
 さらにすべての人が真実の自分を知り、真実の生き方の出来る社会への第一歩を踏み出す特講の会場を鈴鹿山脈の中腹に伊勢湾や四日市の夜景を臨める所に作るために、『俺がやらねば誰がやる、今やらねばいつ出来る』と夏は自分が育てたみごとなスイカを携えて地元の人を訪ね続けて実現してくれました。
 和雄さんときみゑさんはどんな時も指導者や功労者ではなくヤマギシズム実践の人生を全うされたお二人でした。
この奥村和雄さんときみゑさんというすばらしいご夫妻を全人幸福社会づくりに送り出してくださいました奥村家、親族の皆様、そして船南実顕地のみなさん、奥村夫妻のふるさと園部の皆々様方に深く敬意を表しお礼を申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。
そして最後に奥村きみゑさん、ほんとうにありがとうございました。 

          

2015年6月4日 ヤマギシの村人代表 春日山実顕地 逢澤利晃
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コメント

  • 豊里G喜田栄子

    豊里へ来てすぐの頃、愛和館でたくわんを食べていたら「えー音して食べるなぁ」と言ってくれたのが奥村のおばちゃんでした。
    特講の合間には、曲がった腰で畑に行き上がってくる姿が私には残っています。その野菜で漬物をつけてくれていました。狭い階段下りて、暗い地下のような所でした。
    こんなに美味しい漬物が食べられるだけでも村に来てよかったなぁって思いました。
    おしゃれで、服の色合いをあわせて用意していたのも覚えています。
    晩年、船南実顕地へお見舞いに行った時、ヤマギシの話になると目が活き活きとして来て色んな話を面白そうに聞いては、質問してくれました。おじいちゃんの話をしては「あの人いい人だった」としきりに言っていました。今頃は二人でどんな話をしているのでしょうね。また、聞かせてくださいね。

  • 大角宏一(豊里)

     31日の日曜日、肺がんで療養中の奥村通哉さんを見舞う前、船南実顕地に立ち寄った。婆ちゃん大丈夫?どうぞどうぞと介護の娘さん。相変わらずベッドに寝たきりの婆ちゃん、お昼ご飯を食べたばかりで顔色もよく、おだやかな状態。
     おおすみだけど、分かる? 微かに目で頷く様子。今九十九?この様子だと百まで間違いなく生きるよね。また来るからね、バイバイ。 手の先が動いて見送ってくれた感じ。
     その婆ちゃんが2日の火曜日に亡くなったと聞いてびっくり仰天、信じられなかった。
     婆ちゃんは実顕地生活での先達として何組もの仲人、夫婦間の問題、実顕地生活に行き詰ったときのアドヴァイスなど実顕地の大きなお母さん役を担って下さった。
     鳴子実顕地ができて間もない頃、まだ一体生活に不慣れなメンバーのため豊里から駆けつけてくれたことあったねえ。鳴子のメンバーは参画したとき以来一人も落ちてない!! いつも何かあったら奥村の婆ちゃん—–と頼るべき温かい巣箱があったからなんだろうなあ。
    ありがとう!婆ちゃん、行ってらっしゃい。爺ちゃんと語らっている姿目に浮かびます、合掌。

  • 平尾和子(榛名)

    奥村のおばちゃん
      おばちゃんのあの笑い声が聴こえてくるようです。いつもいつもどんな時でも、温かく包み込んでくださいました。誰にでも、----さん、あんたは素晴らしいねえ。と言ってくれました。すーっと、話がおばちゃんのなかにしみ込んでいくように聴いてくださいました。ほんとは、どうなんやろねえ。と投げかけてくださいました。おばちゃんは私たちの永遠のアイドルです。
      おばちゃん、本当の生き方をみせてくださって、こう生きたらええんやでとしめしてくださって、本当に有難うございました。

  • 加藤貴美恵(湘南供給所)

    おばあちゃん 本当にありがとうございました。
    私が今こうしてここに いるのはあなたなしでは
    ありえません。
    当時自分にとってのおおきなテーマであった、夫婦の
    愛情問題も あなたという大きな愛で いつも寄り添って 見守ってくれていました。
    これ以上私には考えられないという程に テーマを投げかけてくれ 私もその愛になんとか 食らえついていくのに必死でした。
    きみゑさん  あなたは 私たちの 永遠の母です
     今度は 天国というところで 見守ってください

  • 井口義友(別海実顕地)

    奥村のおばあちゃんほんとうにありがとう、彼岸では奥村のおじいちゃんが待って居てくれてると思います、天国で仲良く笑い声を立ててくださいね。