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みんなが気になる実顕地運営


みんなが気になる実顕地運営
 

      研鑽会によって新しい自分を発見
      新しい朝が来た

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先月の60.70代の研鑽会は春日山に寄って開かれました。昨年9月に始まったこの研鑽会も5回目となり、回を重ねるたびにひろがっていく味わいがきこえてきます。
「自分は今から変わっていくことは難しい、今のままでいい。とあきらめていたが、この研鑽会に参加して心動かされるものがあった。自分がやれることとして、研鑽会に出ていくことはできる。人の話を聴くこともできる。チクチク感じていたものが少しキラキラと観えてきた」
「60歳になり初めて参加したが、余生をどう楽しく過ごすか、というような話題になるなら自分は研鑽会に出たいとは思わなかったが、全然ちがった。特に2日目は、今からこの新しい自分が何をやっていこうかとういう話が次々と出てきてこれからが楽しみになった」
「タイへの視察団から帰ってきてそのまま今回の研鑽会に参加した。60.70代がこれから変わっていくには、何もわからない新しい場へということでのタイだったが、ここでそれがやっていける、みんなで変わっていける。この研鑽会があったらタイはいらないかな?」
研鑽会によって新しい自分を発見していく、新しい朝が来たような、喜びと希望が胸にあふれてくるような、そんな醍醐味を満喫した研鑽会となったそうです。

また、この研鑽会で話題になったこととしてこのような意見がありました「最近の洗濯物の出し方ひとつをとっても、まだ着れそうな厚手の衣類もどんどん出てくるが、私がヤマギシに出会った頃の、一枚一枚をよく見て洗濯に出すという地球環境へ繋がっていく出し方はどこへ行ったんだろう?愛和館の味噌汁は、丁寧にだしをとって小分けで味噌をといて作ってきたが本当に美味しかった。それが今はお湯を注ぐだけのインスタント味噌汁が出てくる日もある。若い人達が何を考えているのかわからない・・・」
「その時その時で本当に一生懸命やってはきたが、そのことはもう終わりなのでは?私達はもう終わった人?そうだとすれば、今から新しい自分は何をしていくのか・・・」

その時々に私たちがやってきたことを、何一つとして否定できるものはないでしょうし、ましてや今までやってきたことが間違っていたから新しいことをやっていこうということでもないでしょう。そういう意味では決して今までのことは終わったこと、これからは新しいことと切り離せるものではないようにも思えてきます。
とはいえ、自分自身の考え方や行動を思い返してみると、これまでの実顕地生活の中で知らず知らずのうちに、私の中で良いとしているもの、実顕地ではこうするもの、愛和館とはこうあるべき、などと身につけてしまっていることもたくさんあるでしょう。お風呂の共用のバスタオルの使い方や、夜の愛和館でゆったり食べたい人と片づけの人とのかかわりなども、よく話題になるのではないでしょうか。研鑽しようと始めたことが、現象面をさしてどちらが良いのか・正しいのかを論じることへとすり替わっていることも日常茶飯事でしょう。私たちが本当にやりたいことはどこにあるのでしょうか。
私の中で決めているものや、こだわりやとらわれに気づいて放していくことで、時には自分からみて反対にみえることにも乗ってやってみることで、はじめて私とあなたとの間にあるものが溶け合っていけるのではないでしょうか。そんな新しい自分に出会い、新しい朝を迎えるとどんな世界がひろがっているのか、一つ先へと一緒に進んでいきたいものです。

今日から岡部実顕地では養鶏法研鑽会、豊里実顕地では4日から特講、16日から研鑽学校Ⅲが開催され、今月も大いににぎわうことでしょう。日々の暮らしの中で、そして研鑽会の中で共に探り味わっていきたいです。

実顕地研鑽部
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コメント

  • 喜田栄子(豊里)

    次の世界に生きている果林へ
    (私からみたら、一歩先の世界でいきているなぁと思いました。)
    コメントありがとう。
    そうかと妙に納得し、ちょっと恥ずかしく情けない自分だなと思いました。
    私たちが何を願ってここで生きようとしているのか、あらためて問われた気がしました。
    話で聞いた養護の子らの様子からも、やりたいとか、やりたくないとかは一切なく、ただ自分のできることだけで、一緒に生きている姿を感じさせて貰いました。切り替え切り替えでなく、そこに生きる私でいきたいと思いました。
    まだまだ色々出てくると思うけど、決めつけや固定観念の固まりから、ちょっと違う世界をキャッチで来た時は嬉しいし、楽しみでもあるので、もっともっと色んな人や若い子らからの考えも聴きたいとおもいます。これからもよろしく。

  • 中江果林 (豊里)

    みんなが幸せな社会って、『自分も含めた』みんなの幸せですよね。『自分が変われば世界が変わる』っていう言葉を子どもの頃からよく聞いてきましたが、何となくですが、捉え方によっては不幸の入り口のように思います。ちょっと大袈裟かなぁ・・・?
    私、あんまりヤマギシズムのことをちゃんと理解してないので勝手な解釈ですが、自分が我慢したらとか、自分がこう思ったら丸く収まるっていうのは、そっちの方が簡単だし普段そうやって流してることが多いけど、やっぱりどこかで歪がでてくるんじゃないかなと思います。
    栄子さんのコメントも、本当に栄子さんが心から『私が片づけたらいいな』って思ったのなら、たぶんここにコメントしていないだろうし・・・。
    思うところは色々あるのですが、うまく文章にできないので、この辺で。
    栄子さんのコメントに、何かしら反応したかったもので・・・。

  • 山本孝志 (岡部)

    バスタオルという物が日常的に使われるようになったのは、日本では戦後の、最近50年くらいのことではないか。
    状況が変われば、誰でもタオル1枚、日本手拭い1枚でも風呂を使えるという面もある。

  • 喜田栄子 (豊里)

    研鑽会の後
    先月のことですが、今月のテーマにも繋がるかな?

    金曜日の研鑽会の前に座布団でも、並べておこうと思って、第2会場に着いたら座布団が足りなくて隣の第3会場に行ってびっくりした。
    あの広い会場に座布団がアチコチに散乱。足の踏み場もない。真ん中も周りも。ひどいのは、四つに畳んだ座布団が重なっていたのだろうかそのまま崩れ落ちた状態。飴の包装紙も何個も落ちていて、どうなってんの?これが研鑽会場?かと驚いた‼️ 全国の世話係りが寄って使った後でした。余程急いだのか、また直ぐ使うつもりだったのか?それにしても、誰も寄せておこうと思う人はいなかったのか?こんな人たちが育っていたんだ。
    養鶏法の世話係りに言っておこう。誰かこの研鑽会に出る人に繋いでちょっと言ってもらおうと色んな気持ちが出ながら、気になる私がやるだけと思い片付けました。
    いつも使った後を美化してくれていて、大体は何時でもどうぞの状態になっている。次使うから、そのままでいいよ。とか、色んな場面があるけど、ここまではひどくないよと情けない気分で金曜日の研鑽会に臨んだ。その研鑽会で、養護の子ができることをやりながら楽しく食事している風景を話してくれる人がいて、自分の中に決めつけていたものがあったと思った。日頃から使ったら片付けるとか、次のことを思ったらどうするかを考えてやるのは当たり前だろうと、色んな場面で思っていた。
    私は頭を使わないから片付け位はやらせてもらって、彼らには頭を使って思い切り研鑽してもらおうと思った。タイに行った時、規則で動いていない人たちに、お互いを感じて動いている様子に、温かさを感じ感動したのを思い出した。
    美化をしてくれている住生活の人にその話しをしたら『いつもそうだよ。今回は特に酷かった。そのままにして、出てきた』とのこと。
    養護の子の話から役割が違うから、私は身体を使って片付けたらいいなぁと思ったと話したら、そう云うのもあるけど、どうかな⁉️と返ってきた。
    次の世代の人等にはどんどん、自由に思い切り進めて欲しい。とは思うけど全て自分のテーマにするだけのものでもないかな?と、思いここに書いてみました。(これって親の願い?押し付け?小言?)

    • 小川和男(おかべ)

      これはちょっとひどいかな!
      こういう事が有ると、研鑽会に集まる以前の心の辺りのテーマかと思われますね。
      何か情けない気持ちですね。

  • 稲井ゆかり(春日山)

    研鑚会でこんな話が出ていました。「最近の子供達、お風呂場から出てきたら、掛かっているバスタオルを使わないで、戸棚から新しいバスタオルを出して1回使って洗濯行きの篭に入れているの、私は見ていられない」「でも、最近の子供達に聞くと、学校の友達で親や姉妹が使ったバスタオルをそのまま自分が使う子は殆どいないらしいよ」

    日常ささいな事ですが、こんな場面ひとつとっても、心がざわつく。その元には何があるのかな?
    バスタオルは濡れてから取り替えるもの。こうするのが良いとするものが自分の中にちゃんと持っている。
    そのことを見過ごすでもなく、肯定・否定するでもなく、出し合って研鑽していくことから始まるのかなー。