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みんなが気になる実顕地運営


みんなが気になる実顕地運営
 

      みんなで一緒に生活していることを、一体生活と勘違いしていないか?
      出しっぱなしの良さ、聞きっぱなしの良さ

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先月のテーマ「行ったり来たりの一体生活」というあたりから、各研鑽会では暮らしの中から、まさに行ったり来たりの具体例がたくさん出てきました。
愛和館のメニュー板に書かれているメニューをまず食べてから、次にカウンターに出ている物を食べる、または、順番はどうであれ、メニュー板に書かれているものは必ず食べるものとしていないか。
食生活はなぜメニュー板を書くのだろうか?みんなに今日のメニューを伝えたいから?一人一人に今日のメニューは何かと聞かれるのが大変だから?今までもこうしてきたから、という習慣で書いているのか・・。それとも、今日はこんな料理を作りました!と心意気で書いているのか。毎日毎日、メニューを半紙に毛筆で書くというひとつをとっても、何かしらの意味があるかのように変えることなく、けれども考えることなくやってきたこともどうなんだろう?
以前は、実顕地での暮らしを営んでいくために、一体生活をしていく手がかりにと、特に愛和館での暮らし方などは、形の面から入ってきたこともたくさんあったでしょう。そのことの先に広がっていたであろう世界に触れることなく、形止まりのことが多かったでしょうし、逆に、実顕地生活とはこういうものと自分の中で固定されていき、今なおこだわりとして残っていることもたくさんあるのではないでしょうか?
また、養鶏にしても、ヤマギシの養鶏とは、社会式養鶏とはこうするもの、こうあるべきとしてしまってきたことから、現状をひとつ変えることに対しても、それではヤマギシ養鶏にならない、という強いものが出てきて、そこが解けるまでに長い時間がかかったという話もあるそうです。

以前村ネットに投稿されていた話ですが、研鑽会場に行くと座布団が散乱していてゴミまで落ちていた。どうなってんの?と、とても驚いたし、そこを使った人たちに誰も片づけようという人がいなかったのか?こんな人達が育っていたのか、という収まらない気持ちが出ながら片づけたそうです。このような例は日常の中で特別の例ではないでしょう。
朝、ロビーに行くと、前日企画で使った人たちが片づけをしていない、使うならきちんと最後までみてほしい。とロビーを見ている人の気持ち。研鑽会場の玄関で靴箱へ入れずにぐちゃぐちゃになっている靴を見たとき。愛和館のメニューがこれで全量という時に、ごっそり持って帰る人を見たとき・・・。
価値観も違えば、育ってきた時代も違う幅広い人達と一緒に暮らしている。時にザワザワした気持ちが湧き、その違いから煩わしさを感じ、めんどくさいと思うことも多い私だけれど、私はどうしていきたいのだろう。そこそこの関わりで暮らしていくこともできるし、丸く収めながら波風立てず暮らしていくこともできる中で、もう一歩自分を一体の方向へと踏み出していくとはどんなことなんだろう。

一つ一つの場面で、相手がどうかとか、みんなはどう反応するかでなく私はそのことに対してどうか。そうなってくると、一辺倒に形でこうすることが一体生活、といえるものは何もなくなるし、まして現象面だけを見て推し量ることもできないでしょう。
先月から話題になっている、実顕地では衣生活部でみんなの洗濯をしていることや、愛和館で食事をしていること、大風呂に入るなど一緒に暮らしていることが一体生活をしていると勘違いしていないでしょうか。一緒に暮らしていることではなく、私の生き方としての一体生活とはどんなものでしょうか。
とはいえ、いくら高い志しを立てたとしても自分自身の弱い気持ちに流されそうなこともよくあることでしょう。形が何もない中で一体でやります!という自分も心もとないでしょう。そういった意味では、一緒に暮らしている中で、愛和館で食事する中で、人と人とのつながりの中で、励み合いながら、今日までやってきたことも大きな事実ではないでしょうか。
この間の60.70代研、50代研や、御浜の甘夏収穫や、北条での鶏精肉、船南での鶏移動、適期作業交流など人が寄ることで、寄ったからこそ生まれてくるもの、醸し出されていく気風も感じられます。
日頃の研鑽会でも、続けてテーマにしてきた「出しっぱなしの良さ、聞きっぱなしの良さ」という観点も入ることで、盛りあがってきているようです。
今月も大いに具体例を出し合いながら明るく楽しく、一体生活を探り味わっていきたいです。 

実顕地研鑽部