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フォトグラフ11月(2018年)


実顕地の暮らしやそこに現れる私たちの村づくりが醸しだされるような、そんな日常些細な中にある『ヒトコマ』フォトを大募集!
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別海  井口義友

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榛名 森路俊彦

別海  井口義友


別海実顕地に来られた時、草刈りなどの畑仕事を「のぶ」さんと共に良くやって貰いました、思い出の写真です。

 

榛名 森路俊彦

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コメント

  • 吉田茂(豊里実顕地)

    森路さん紅葉の写真ありがとう。
    やわらかい、暖かみのある写真で、心がホットしますね。
    三次実顕地にいるときに、島根の足立美術館によく行きました。
    横山大観の絵が好きでした。 その時に見た島根の紅葉や、大観の絵を思いだしました。

  • 沖永雅子 (豊里)

    弔 辞

    豊里の正面玄関前の坂道を、まるでスキーをしているみたいに両手に杖を持って上がってくる佐貝さん、村人窓口前から愛和館に向けての通路を同じように歩いておられた姿、いまもなお、昨日のように思い出されます。にこやかな顔で、だれかれ声をかけて、またかけられて、そうして歩いていること自体が佐貝さんらしい姿でした。

    全国各地に実顕地が出来はじめた頃に、それぞれ独立意識の強い実顕地が、全国ひとつになっていこうという動きがあり、それをとりまとめる実顕地本庁を置こうとなりました。その際に、その世話係に誰がいいかという時に、白羽の矢が立ったのが佐貝さんでした。しかし、その頃の佐貝さんは北海道試験場、通称北試の顔でしたからまさか佐貝さんが本州に来るなんて考えられないことでもありました。でも佐貝さんは、その要請を受けて苦労して作り上げた思い入れの強い北試を若い人達に託し、後にしたのでした。当時は、実顕地間の人の交流は少なく、ましてその実顕地の代表者なる人が動くとはみんなの驚きでした。それは実顕地が一つになって、大きく羽ばたく出発になったのです。豊里に移られてからも、いつも北海道別海実顕地のことを気にかけておられましたね。
    昔のけんさん新聞に佐貝さんはこう書かれています。
    ここ北試でやることの公意であれば、百年でも千年でも腰をすえてやるつもりである。しかしまた他所に配置の公意が出れば、さらに駄馬に鞭打って新たな開拓の旅に出るであろう。既成のものをそのままにして納まり返ると言った、消極的保守的なことは、私の性にあわないのである。

    又あるとき、ブラジル実顕地に応援を送ろうと言うことで志願者を募りました、そのとき真っ先に手を挙げたのは佐貝さんでした。これも驚きでした。そして、それもそのまま配置となってブラジルに渡ったのでした。当時佐貝さん70歳、いまの私の年です。まずは自分が動く。常に時代の先駆けたらんとするその行動力には驚かされます。
    世界の東西冷戦が終わってベルリンの壁が崩壊したとき、東欧に革命をと言うことで、佐貝さんと2人でスイス、ドイツに行きましたね。その頃はヨーロッパまでの直通の飛行機は無く、どこかに寄ってスイスまで飛ぶのでした。それをよく知らない2人は、やっと着いたねと空港に降り立つと、よく見るとそこはまだモスクワ空港でしたね。乗り換えのため、暗い陰気な連絡通路を2人でとぼとぼ歩いて、沖永君、もっと世界の勉強せなあかんと言われました。私のせいじゃないと思うんだけど。
    私は佐貝さんが大好きでした。いや、それはみんなそうだったでしょう。みんな佐貝さんが大好きだったんです。みんなのよき親父であったし、大好きなおじいちゃんであった。いつものぶさんと一緒で、夫婦姿しか思い出せないくらい。いつも、のぶが、のぶが、と言ってましたよね。村の行事はもちろん、どんな研鑽会にも積極的に出られていて、実顕地内外のことにことのほか関心がありました。
    柔らかなまなざしが印象的でした。きっといつも遙か遠くを見ていたんでしょうね。
    これからも、夜空に輝く大きな星となって私たちを見守っていて下さい。
           平成三〇年一一月九日          沖永和規