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令和、新時代への幕開け


令和、新時代への幕開け

 

みんなで考える。一つで考える。

みんなで研鑽する。一つで研鑽する。

 

印刷 ⇒ 令和2年5月、新時代12
年間テーマ

○令和、新時代への幕開け

 

5月度テーマ

〇みんなで考える。一つで考える。

〇みんなで研鑽する。一つで研鑽する。

 

先月始めに、各地の若手と中・高校生男子で育苗ハウスのビニールが張られた大潟実顕地では、その後一週間をかけて種まきが進められました。この後は代かき、いよいよ田植えの季節が巡ってきます。

御浜の甘夏収穫や、北条実顕地での鶏精肉などの適期作業が続いてきました。これから農繁期を迎え、各実顕地でも進めていきたいことが目白押しではないでしょうか。

連綿と続く農の営みの中では、何ひとつ切り離すことのできないことばかりですが、昨今の情勢から、今年はその一つ一つに特に知恵を寄せ、心を寄せる中で「改めて一つ」を体感する場面も多いのではないのでしょうか。

また、そんな適期作業に長い間関わることがなく、「行ってみたいがとても今の職場の状況からは無理だ」とあきらめていた人が、研鑽会の中でそんな気持ちを出したり、そのことを聞いて声をかける人が出てきたり、職場で話題になる中で、甘夏収穫に初めて参加できた人がいました。後日の研鑽会で、喜々として「甘夏収穫もとても楽しかったが、それ以上に嬉しかったことがある」という話から、実顕地の今の実態、最先端に触れてきたのだと、伝わってくるものがありました。

私たちは、日々何を大切にしてやっていくのか、実顕地とは何かを改めて問いかけられる実例ではないでしょうか。

ふと、10年ほど前に話題となった「ヤマギシズム実顕地は」の資料が思い起こされてきましたので紹介します。

 

ヤマギシズム実顕地は、

 

現状そのままの状態で出発し、その後だんだんとイズムの実顕地らしい実顕地へ移行進化していくもので、その間イズム実践活動も各自まちまちであり、イズムのあり方からすれば程遠いような一次元の事象もあるが、それを型にはめて形の世界で収めるのではなく、本人の内面で気づいて心の底から改変できるよう、その機の来るのを気長に待つ場合もある。

 

人を責め、裁き導こうとするのでなく、私を考え、私を改め、私を深める。私が変われば世界が変わる。言う人が百人できても効果がないが、一人の心からの行いが百人の心に響くものである。

 

「相手が間違っていても、正しく生きるということは自分にできることだ」として、それぞれの持ち場で自分を活かすことを楽しむ。だれもきずつき侵されない。その人、その時の段階で無理なく、みんな深まって理想社会につながっていく。

 

「みんなで考える、一つで考える」とはどんなことでしょう。

「みんなで研鑽する、一つで研鑽する」とはどんなことでしょう。

村ネットのコメントに寄せられている「一つ」「仲良し」「われ、ひとと共に繁栄せん」なども、繰り返し何度も触れてきたことで、言葉で語ることはできたとしても、本当はどんなものなのか、私の実の部分ではどうなっているでしょうか。

この今、世界中の人たちが共通する同じテーマに直面している中で、「研鑽」に出会った私達が、今できることの一つとして、様々な具体例を通して、心ゆくまで研鑽を深めていくことがあるのではないでしょうか。

今月も共に進んでいきましょう。

実顕地研鑽部
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コメント

  • 福田律子 (春日山)

    福崎さんのコメントを読んで思い出した例があります。4月交流会でMさんに御浜甘夏収穫の感想を発表してほしいと頼みました。最初聞いた時は「今は返事できない」でした。次に「一緒に行った人達と足し合ってなら参加します」
    と返事もらいHさんやKさんにも声かけました。
    Hさん「私は発表したいことないよ」
    私「Mさんに発表してほしいと思わない?」
    Hさん「絶対してほしい」
    私「じゃ横に立ってMさんが話しやすいようにして」
    Hさん「えー、やってみる」
    そんな感じでMさんは甘夏収穫しながら、いろんな実顕地の40代50代村人達の仲の良さや春日山の子ども達が車中で誰かがコロナになって一人で隔離されるのは寂しいからみんなでコロナになろうなど。
    コロナ対策で時間短く最後の歌も無かったですが、誰から聴いても何を言っても溶け合う感じが心に残りました。

  • 福崎敏郎 春日山

     5月1日のコメントは、1日の朝今月のテーマと解説を読んで、テーマはもう一つピンと来なかったが、解説の内容に共感するところが多くあり、その時心に浮かんだ事を最近の心境も含めて投稿させて貰ったものです。
     以来テーマについて考え続けて来たがはっきりしなかった、が今日のある研鑽会で皆の話を聞いている時、突然テーマはこんな事が言いたいのかなと感じる場面があった。《みんなで考える》《みんなで研鑽する》は目に見える現象、形、そして《一つで考える》《一つで研鑽する》は目に見えない無現象の世界、形には現れない心の事かな。心が《一つ》の状態になっているか、整っているか、それが一番大切だと思った。自他の境の全く無い、「一つ」という互いで、自分一人でもみんなと共にでも、考えたり研鑽する世界はどんなだろうか?
    「一つ」なら何でも言える、どんな事でも聞ける。何を言っても言われても、怒りとは無縁。言えば言う程聞けば聞く程その人と近くなり溶け合っていく。何があっても揺るがない、調和と安らぎに満ちた変化しつづける「一つ」の世界。そこに私もあなたもそして全ての存在も在るのではないだろうか?

  • 福崎敏郎 (春日山)

    正月特講に下血があり、大腸や胃などの本格的な検査をした。今までも何度か感じたが今回も、いつ死んでもおかしくない自分だなと思った。そう思うと自分の中に在る色んなものをそのままにしておくのはもったいない、その事を与えてくれた全てに対しても申し訳ないという気がして来て、1年半ぶりに資料研に参加した。感じた事を出し合い聴きあい響き合うのが心地良かった。交流会にも久しぶりに参加した。Mさんの甘夏収穫で味わった事、Hさんの大潟村交流から帰ってきて、知らない人に声を掛けたくなった事を聴き、心が暖かくなった。みんな響き合っているんだ、変化しあっているんだ。30年前に特講を受け25年参画者として本当の生き方を求めて来た。今までそれは頭の中にこんな感じかなというのは在ったが実感としてははっきりとしていなかった。でも最近日々の何気ない一コマ一コマの中に暖かい何かが心の中にポッと浮かんでくるようになった。自分が求めて来たものはひょっとしたらこんな感じなのかな?何もない処から軽く発しあい、聴きあい響き合う、そして互いに軽く変化しあう。そしてもっと一つにもっと幸せになりあって行く。そんな暖かい風がずーっとここにも流れていて、その中に自分も生きているんだ。そう感じています。