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令和、新時代への幕開け


令和、新時代への幕開け

 

   『共にやる』を考える

                    一致させることにこだわらない

 雨なら雨で・・・

 

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令和、新時代への幕開け

11月度テーマ

「共にやる」を考える

一致させることにこだわらない

雨なら雨で・・・

 

六川でのミカン収穫や、飯田でのリンゴ収穫の便りが次々と届きました。たわわに実った果実を前にすると、豊かさに包み込まれていくようです。人間界にとっては激動の一年であっても、変わることなくこの季節が巡り、自然界から齎される恵みを享受することで、また新しい力が湧き上がってくるようです。

今月も各地からいろいろな実例が届いています。

生活空間にある窪地を埋め立ててはどうか、という提案が出された。埋め立てたい人、そのままでよい人、それぞれに思うことがあるが、出し合えば出し合うほどグチャグチャになっていく感じがする。なかなか「それならこうしよう」と一致点が出るものでもない。だからこそ、何年かに一度この話題があがってくるのだが、その度に一致とはなんだろう、と思えてくる。

またある実顕地では、カラオケルームを作りたいという提案が出た。これもまた、いろいろな思いが出されてなかなか進まない。それなら実行委員を立ち上げて検討するのはどうだろうか、と早速やってみた。だからといって簡単に決まっていくものではなさそうだ。

研鑽学校を開催をしたい、という気運の実顕地で、ある人に一緒に創っていきたいと声をかけたが断られた。なんとか、こちらの気持ちが通じないだろうか。とあれこれ考えてみるがなかなか難しい。

果たして「これを一緒にやろう!」「一緒に進めよう!」となり合えることが「共にやる」ことなのだろうか?どこか勘違いしていることはないのか?。例え、別世界に住んでいるようにみえたとしても、「共にやる」があるのでは?日常の中にもよくありそうな考えてみたいテーマです。

早急に一致点を見出そうとしたり、あるいは「一致するまで」と時間をかけたりすることもよくありますが、「一致することにこだわらない」というのもありそうです。「一度おいておく」「時間をあける」なども大切な要素ではないでしょうか。

ある実顕地では、出張から帰ってきた人に、1週間お弁当を用意し届ける、という役割りを食生活で担当している。
1週間なんの音沙汰もなく届けられたものでやっている人、多くしてほしい、少なくしてほしい、〇〇が欲しい、言ったものが届いていない。と次々連絡が来る人。一人や二人になら対応できたことも、十人近い人の用意となるとまさにグチャグチャの状態。用意する方も、割切って一律に用意してみようとしたり、それでも〇〇さんが好きなメニューだな、と顔が浮かんできたり、希望に添いたい気持ちと、それはそれとして。の間で揺れ動いたりと。「やるなら楽しんでいこう」とやり続ける中で、「一致」という中に幅の広さや奥行き、自由さがあるのでは?今までイメージしていた「一致」とはまた異ったものがおぼろげながらみえてきたそうです。

天気予報を聞いていると、「週末はあいにくの雨になりそうです」という言葉を聞きますが、農を営む人にとっては、待望の雨だったりすることがよくあります。

天気に限らず日常生活の中で起きる、自分にとって良い・悪いと思えることも、今の私の価値観で言っているだけで、時間が経ってみたり、状況が変わったり、立場が変わったりで、観方が変わったりするものです。コロナ禍で、子どもや孫達も実顕地に来られず、以前のように気軽に出かけることもできない状況ですが、こんな時だからこそできる、ということもありそうです。日帰り果樹交流がいつにも増して充実しているのもその一つといえそうです。

雨なら雨で、風なら風で、コロナならコロナで、それならそれで、そのままを受け入れて、生きていく生き方はいかがでしょうか。

「雨なら雨で、風なら風で、培い育てる、明日のために」かつて聞いたことのあるこの歌詞が、時を超え私達を力づけてくれているようです。共に進んでいきましょう。

実顕地研鑽部
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コメント

  • 麻野幸子(豊里実顕地)

    『雨なら雨で、風なら風で、培い育てる、明日のために』高等部の合唱曲だったなぁ。
    さて、今、新らためて 「培い育てる?」何処に、何を育てるんだろう?明日のために?と浮かんでいる。

    明日エヒメアイを仕込もうと材料の点検を、数日まえ宅配便で届いたドライイーストの箱を開けたら「脱脂粉乳!」
    仕込みが出来なくなる。
    途端に困った、アタフタと狼狽。まさに「不幸と感ずる事があるなれば」状態。よく陥る私。
    今回こそシッカリ探ってみよう!と思い立つ。
    宅配便が届いてすぐ確認するべきだった、予定が変わって周りに迷惑をかける、自分の杜撰な態度が恥ずかしい。
    一番は「無かったことにしたい、でもムリ」などの判断により、困ったとアタフタするのが正しい、と。
    ここが間違っているようだ。
    その原因は、義務・責任・迷惑・恥ずかしい、事実を変えたいと旧い個別社会用の考え方で考えている。
    取り除く、って云うか、「ありゃ~不幸は私が作り出していたんだなぁ」と映ってきたら、突っ張り棒が外れてしまった。

    「培い育てる」に励まされて、今、ここまで辿り着いた。

  • 麻野幸子(豊里実顕地)

    診療所まえのインターロック補修工事をやることになった。デイサービスの車が朝晩通る処だし、食生活の駐車場だし、人通りもある。

    工事の事前お知らせはしっかりやろう、と建設部の出発研で。それが以前の感じとは違っているのです。

    先月末に「義務」とか「責任」とか要らない考え方だなぁ、と気がついてから変わった。

    「私は聞いていなかった」と言われないように気を使っていたのですが、気楽に積極的にお知らせしています。

    日程や工事範囲を書いてチラシも作り、都合を聞いて、いろいろ調整しながら良さそうなところで。

    今、着々と補修はすすんでいます。

  • 松本 哲 (豊里実顕地)

    前に豊里の研鑽部で共にやるについて出し合ったとき、「やる」という部分が話題になったことがあった。一般的に「やる」という言葉には、具体的な事や「何かを」という言葉が付くことが多い。でも、「共にやる」を考えるとき、「共に何かをやる」となってしまうと途端にこのテーマから離れていく気がする。
    また、研鑚学校で私意尊重公意行について研鑚するとき、以前は「公意」を「研鑚の一致点」と言い換えて、研鑚の一致点を見出すって何だろうという感じでテーマにしていた。でも、何年か前の研学でこれを考えたとき、ふと「一致点の『点』が邪魔だな」と思ったことがあった。「点」という言葉が付くと、何かを決めることや決まったものを連想しやすくなると思う。一致ってもう少し深いところの話なんじゃないかという気がするけど、点があると急に具体的になって考えにくくなるし、何かをハッキリさせないと気が済まない感じになるなと思った。

    • 麻野幸子(豊里実顕地)

      研鑽会の種類として、 理念研鑽 方法研鑽 実行研鑽 と分けて考えるのが良さそうだと思う。
      きっちり分けられるってもんじゃ無いんだろうけど・・・
      どの辺を目的に研鑽会をやろうとするのか、意識していきたいなぁ、と思っている。