With(共にやる)
With(共にやる)
新年、村の良さを見直す
みんなで考えない
みんなで決めない
印刷 ⇒ 令和3年1月with (1)
年間テーマ
With(共にやる)
正月度テーマ
新年、村の良さを見直す
みんなで考えない
みんなで決めない
あけましておめでとうございます。
昨年は、「ONETEAM(ワンチーム)」というテーマで始まり、「一致する」「一つ」「共にやる」と一体の中身について、改めて様々な角度から考えてきました。その中から、「みんなで」と一つの違い、全員一致とは、納得する・しない、など日常の具体的な例で研鑚会が賑わいました。
また一方、2020年はパンデミックにより、世界中の人たちの生活や仕事の有り様、考え方まで、今までとは大きく変えていった一年でもありました。そんな中で「With」という言葉が出てきて、私達が「共にやる」という面から「一つ」を探っていた中で、どこか共通するものを感じました。
「私はあなた、あなたは私、私はない」「先ず相手方を栄えさして、」「われ、ひとと共に繁栄せん」など、ヤマギシ会発足から70年近く、先人達から私達の心の中に引き継がれた、目に見えないものを顕し、実顕地という見える形にしていく中で、村の良さとしていろいろな場面に顕れてきているのではないでしょうか。
新年に当たり、その良さを見直す正月にしていけたら、と考えています。
さて、最近の研鑚会の中で、何事もみんなに伝え、みんなで研鑚し決めていこうというのはどうだろうか。という話がでてきました。ある実顕地では全員を集めてその研鑚会で物事を決めていったら、もう以前のように何人かで検討して決めて欲しいという話にもなったそうです。「この話はみんなに伝えたくない、伝えない方が良いこともあるのでは」「みんなで決めようとするとなかなか結論が出にくい」「何かにこだわっている人が一人でもいるとめんどう」など、そういう観点から考えてみると次々と話が弾みました。
一方、以前から「代表制」「任せる・任される」「一役三人制」など一般的にいう「みんなで」とは違ったあり方もありますし、全研ばかりするようになると、実顕地が崩れていくような話もありました。このようなことについても、あり方からだけでもなく、一人一人の心情はどんな感じなのか、両方から考えていきたいです。
今年は丑年です。農の営みの中にある私達にとって、どこか親近感を感じます。また「丑」には「結ぶ」や「つなぐ」などの意味があるそうで、「紐(ひも)」という漢字に「丑」の字が使われているのは、そのような意味を込めたとも考えられているそうです。「一つ」を考えていくのにふさわしい年になりそうです。
新年、これからの1年を大きく描き、共に進んでいきましょう。
コメント
出発研で「岡本地区の植栽に手を入れたい」という声があった。具体的に場所も色々あげられて、今やっておくといいなぁ、と。
が、どこに繋いでいったらいいのかな~と思い巡らせているうちに時間切れ。ア~ア、又、この場限りで終わる!
今月のテーマ解説の『「丑」には「結ぶ」や「つなぐ」などの意味があるそうで』辺りが浮かんできた。
寄せられた意見やちょっとしたつぶやきも「結ぶ」「つなぐ」という心で聴いていきたいなぁ、と思った。
同じ思いなのか、描く人もいて、今、岡本地区の植栽は交流中のエドさんの実働で進んでいる。
「代表制」「任せる・任される」「一役三人制」など、大勢で考え、決めるとき便利な方法程度に考えていた。
やってみて、あんまり上手く機能していない感じ、人数が多いと難しいんだよなぁ~とシラッと眺めていた。
そのモトが自分の個々人主義観から出発しているようだと気がついてみると・・・
『本当に仲良くならないとどうにもならない方法』と観えてきた。
先人が『心も大事だけど、仕組みも大事』と見出した仕組み。
今、私がやっていくのは、こころを調える辺りだなぁ、と。
2021年一月の投稿
ある研鑽会で「みんなで考えない みんなで決めない」というテーマを考えている時、ふと昨年5月のテーマ「みんなで考える 一つで考える」というテーマを思い出した。同時に「みんな」という言葉に「個の集団」というイメージを感じ、思わず「みんなというのは曲者だな」と発してしまった。危ういと感じたのだ。
解説の中に「私はあなた、あなたは私、私はない」というのがあるが、ヤマギシを知って直ぐによく耳にした言葉だ。特講や研鑽学校を受け、次第にそうだなぁと思うようになってきた。
分子生物学者福岡伸一氏は著書『生物と無生物の間』の中で「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体であるように感じている。しかし分子のレベルではその実感は全く担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい淀みでしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が【生きている】ということなのだ」と述べている。ある著述では「平均的な人間では、その人体を構成する10の28乗個の原子の98%ほどが1年間で置き換わり残り2%も5年以内に置き換わる。」とあった。川の流れの中の淀みは、我々の目には淀みとして認識できるが、水は常に入れ替わっており実体はない。そのような存在が我々なのではないだろうか。誰のものでもない原子が一時的に集合し機能している存在、誰のものでもない私なのではないだろうか。
思いや観念も同じではないか。体が体の食べ物で作られ維持されているように、心は心の食べ物{視覚、聴覚、臭覚、触覚など外界からの刺激}によって作られ、それは全て他から受けたものだ。いわばかつて存在した全ての人類の観念、思いが影響しあい変化しあったもののほんの一部が70億分の1のこの私の脳なのか心なのか、そこに淀みとして在るだけなのでは。しかも体同様「誰のものでもない」のでは。
「私はあなた、あなたは私、私はない」という世界はどんなだろう。ひょっとしたら「みんなで」とか「一人で」という言葉がいらないのかも。そんなことを考えてしまった。
元日の朝、みんなで考えない、みんなで決めないというテーマを読んだ。
まず「エ~、それでイイの~」と抗するものが、次に「で、どうしていくの?」と出てきた。
その瞬間を見てみると、私は「みんなで」信仰しているんだなぁ、と思った。
何でそうなるのか、と探っていくと。
自分とみんなとの繋がりがバラバラなおにぎり状態なんだなぁ、と映ってきた。
そこから、みんなで考える、みんなで決めるのが良いと考えているんだなぁ、と気がついた。
今はここまで。で、どうしていこうか?
そうだねぇ、寄りたくておにぎりになっている。お米がつぶれたら、お餅になりそうだね。
臼も杵も用意されている?と思う。
令和3年の幕開け
皆様今年も宜しくお願い致します
地域の通話研で、
みんなで考えない
みんなで決めない
どういうことかわからないね。私意尊重公意行が浮かぶねとか、1月これでやってみてどうかで考えるのも面白そうと。
村で顕す、地域で顕す。
違っていてもWith