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3.11から10年


石巻炊き出しへ出発する第1陣

石巻炊き出しへ出発する第1陣


2011年の記事⇒石巻炊き出し第1陣 出発  石巻炊き出し報告[第二報]

あの3.11からひと月後の2011年4月12日、私達は石巻の中屋敷という海に程近い炊き出しのテントにいましたね。
春日山から送り出して貰った男女6人。男性たちはすぐに瓦礫の撤去や泥の掻き出しに行き、女3人、何にもない本当に調理器具、鍋釜何も揃ってない処から炊き出しを始めました。
テントで、屋根はあるものの、吹きっさらしで風が埃を凄まじく巻き上げる中、どうやっていこうかという時に、、三人で確認した二つのの事を今も覚えています。
一つはこの環境でやっていくのに声が大きくなったり、荒くなったりあっても、やりたいのは愛和館にしていく事。食べに来る被災者の事だけ思ってやる。
二つ目は自分達が第一弾であり、次に支援に来る人達がやり易いように準備をするでした。
色々ありました。テレビのインタビューも受けて。「大変ですね」と聞かれて、「いいえ、もっともっと沢山の人に食べに来て欲しいです」と答えて。そして日に日に人が増えていって、「温かいご飯は四十日ぶりです」とか、「湯がきたてのうどんを食べられて嬉しい」とか。
私たちも嬉しかったな❗
何と言っても自分達で作った米、うどん、肉も自分達で運んできて、全国の家族総出でやっている事、そしてそれをやらせて貰える誇りみたいなものがありました。
そして、いち早く場所を提供し、炊き出しの拠点を設けた阿部さん御夫婦の大きさと明るさになんども何度も救われました。
「いま何が一番必要ですか」とインタビューで問われた阿部和子さんは、「そりゃ-お金❗」と言ってご自分でもけらけらと笑っていたのも思い出します。不謹慎だけど今となっては懐かしい、楽しかった十年前の出来事です。
その後直ぐに豊里が加わり一志が加わり、炊き出しの輪は広がっていきました。今も石巻の人とは繋がっていて、新型コロナの事がなければ今年ぜひ訪ねてみたかったです。

春日山実顕地  妹尾迪子
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コメント

  • 坂本寬治(春日山)

    東日本大震災から10年
    当時、観音寺の製麺工場では、春日山移転の話があって震災はその直後に起こりました。観音寺の中では、日常そんなに研鑽会があった訳ではなく、震災支援の研鑽会もあった記憶はありません。ただ養豚部の何人かが石巻に行って、炊き出しなどの手伝いをしたと言う事は知っていました。私も震災の状況は日々テレビで見て知っていて、大変困難な状況が起きていると知っていました。製麺工場は村人は私と山本さん二人で、あとは地元の社員さん七人の計九人でした。当時は誰も皆、東北の状況に心を痛めていたのではないでしょうか?そんな時、春日山の炊き出しの情報が入ってきました。食品製造工場として何かできる事はないかと考え、贈り物として冷凍うどんを送りたいとその旨を春日山の窓口に伝えました。当時は実顕地間もまだ有償だったので、無償の贈り物として考えていました。しかし、確か谷畑さんだったかと思いますが、「もっと汗水流したものを贈ってみたら」というような事を言われたように思います。自分の中にはその発想がなかったので、どんな形でと考えました。ひょっとしたらアドバイスを受けたのかも知れませんが良く思い出せません。社員さんも含めもっと研鑽で進められたなあと、今は思いますが、一日のうどん製造をみんなで無償のタダ働きで作る事をやりました。小麦粉とスープはそれぞれ営業さんを通して協力をお願いしました。粉屋さんには直接出向いてお願いしました。スープ屋さんは遠隔地なので、直接出向く事はありませんでしたが、いずれも無償での提供を快く引き受けてくれたのです。当時の細かい事は良く思い出せず、その後社員さん、業者さんにどんな話をしたかフォローをしたか、石巻の情報をどう伝えたか正確には思い出せません。私自身は石巻にも行ってなかったですが、春日山の人達を中心に長期に渡って炊き出しなどをやってくれた事に遠く観音寺にいても心は一緒だったように思います。ちょうど震災の年に、製麺工場が春日山に移転しました。11月で震災と同じ10周年を迎えます。

  • ながはたひろこ 豊里実顕地

    阿部和子さんからメッセージ届いてます。

    『本当に早いですね。ここまで来られたのも、皆さんのおかげです。本当に心の栄養と身体の栄養になり
    ガンバれました。
    いつもありがとうございます。😊(^▽^)/』

  • 浦崎雄一 (豊里)

    もう10年経つんですね。7月に10日間いました。色々やらせて貰いました。阿部さん夫妻や地域の人たちと仲良く過ごした記憶があります。後半は網戸張り修理を一手に引き受けてあっちこっちと行ったのを思い出します。また七夕飾りを地域の人と一緒にやれたな~。なんか楽しい思い出しか出て来ない。

  • ながはたひろこ 豊里実顕地

    はい。今もしっかり繋がってます。
    震災10年今年は加工品を贈らせていただきました。
    阿部さん船で漁に出られたら新鮮超おいしい魚贈っていただいてます。
    おいしいので食べる人は大喜びです。
    10年間どこにいても魚がいや阿部さんが追っかけてきますよ。
    どうか皆様お元気でお暮しください。

  • 春木泰子(春日山)

    私も5月に2週間行かせてもらいました。あらためて、第一段のチームで、1からしてくれて、やり易くなってたなとおもいだしました。沢山の人との出会いは、絆や一体を実感でき、鮮明によみがえります。   石巻で思い切り炊き出しをして、鳴子実顯地に帰るとお帰りなさいと、迎えてもらい、美味しい食事を用意してもらって、体の疲れはあっても、本当に次の日は、元気いっぱいスタート出来るエネルギーを、鳴子メンバーから貰ってたなとおもいました。石角さん達の結婚式を内部川でやらせて貰って、鳴子では、3人の男の子のお父さん、お母さんになって、沢山の人を次々受け入れ送りだしをしている、たくましいお二人に会えたのも、いっそうエネルギーに❗  小野口さんも3人目の赤ちゃんだったよね❤️もう10歳なんね   石巻でやらせて貰って、実顯地の大きさを実感すると同時に、無所有一体の社会創り、を更に願った事を、10年目また今コロナ禍の中で新たに思います。
            

  • 奥谷郁恵 (美里)

    私も一度行かせて貰いました。
    炊き出しや髪のカットをさせて貰い、カットをしながらいろいろと話しを聞かせて貰いました。さっぱりしたと喜んでくれて、嬉しかったのを思い出しました。
    私より少し年上のお母さんと娘さんのカットをさせて貰い、その後お手紙や写真を送って頂いたりして、今でもあの御家族の方達はどうしてるかな〜?と思い出すことがあります。

  • 石角聡 (内部川実顕地)

    あの時は鳴子実顕地を拠点に、入れ替わりで沢山の人が炊き出しに来ていましたよね。
    うちの一番下の子はまだ産まれたばかりで、色んな人に可愛がってもらったのを覚えています。
    僕自身は石巻には殆ど行けませんでしたが、実際に炊き出しに関わっていたメンバーが鳴子に戻ってきて色んな話を聞かせてくれたので、自分もその場にいたかのように感じたのを思い出します。

    三重県に移ってきてからも「あの時の赤ちゃんがこんなに大きくなって!」と声かけてもらうことがあります。今でもつながっているなあと思います。

  • 石角まゆ(内部川)

    鳴子実顕地を拠点にして炊き出し隊の交代をしていたのが思い出されます。
    入れ替わりの日には、ロビーに沢山の人がぎゅっと寄って、整理研や打ち合わせをしていたのかな? とても賑やかでした。
    私は炊き出しにも行きませんでしたし、どうやって暮らし、来てくれるみんなを受け入れていたのか、その頃のことをあまり覚えていませんが、入れ替わり立ち替わり続々と「なにかやりたい」と集まるのを見て、とても頼もしく感じたのと同時に、自分にもなにかやれることはないかと齎されるものがあったことはとても心に残っています。