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ブログ NAOJI~SANのおしゃべり


無題

 先月末の朝日新聞夕刊に、今春、亡くなった真木悠介の『気流に鳴る音』が紹介されていた。
 真木悠介は東大名誉教授でもある社会学者の見田宗介。ヤマギシ会にもコミューン構想ということから関心を寄せて、ヤマギシ会の1週間の特別講習研鑽会(特講)にも参加している。
 僕は昔、思想の科学だったか、鶴見和子関連の催しだったかで、一度だけ言葉を交わしたこともある。
 そんなことで、この記事をじっくり読んだ。

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コメント

  • 佐川清和  (春日山)

    ちょうど半世紀前の今頃、ヤマギシズム出版社に配置されてはじめて手がけたのが運動誌『ボロと水』第4号の編集でした。
    巻頭は別海実顕地の寺田任さん春日山の逢沢利晃(故人)さんと、「特講」を受講されたばかりの見田宗介さんによる鼎談「障壁なき世界に向けて」で、小見出しをいろいろ考えたことが思い起こされます。
    今度改めてパラパラとページをめくっていたら次のような見田さんの発言が目にとまりました。
    “突きつめていくと、他の人とのつながりということ以外に、生きる意味っていうのは見出せないと思うんですよ。”
    そうだなあと思います。
    後年、見田さんの著書『自我の起源』に所収されている〝インドのバナナの少年〟の話をもう十年以上二週間の研鑽学校3の研鑽資料として活用してきました。
    それは、見田さんが南インドの鉄道の駅で列車の中から目撃した情景です。
    乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に、飢えた少年や少女が群がって奪い合っている。乗客のひとりがある少年にバナナを与えると、まん中のやわらかい部分はすべてたぶんまだ歯のそろっていない妹に食べさせている。その長い間、少年は法悦のような目つきで女の子を見つづけている。こんなに幸福な人間の顔をこれまでに何回かしか見たことがないといった話です。
    毎回皆でこの話を研鑽していると不思議と心の中が熱くなってきます。きっと見田さんも、いや当のインドの少年もそうだったのではないでしょうか。
    ずいぶんとお世話になりました。 ありがとうございました。