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ヤマギシの村づくり (11)


愛情いっぱいトマトをどうぞ(笑) by Yukie

ヤマギシの村づくり(11)

  • 心が雑事に追われていないだろうか?
  • 真に自己を愛する心が足りないためか
  • その自己は心の繋がる繋がりそのものと知る
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    この夏以降実顕地では、ぶどう・無花果・梨・メロン・各種野菜などの贈り物が行き交って豊かな暮らしを味わうことができました。

    何年か前までも「贈り物部」があって、そこから実顕地間を物が流通していましたが、昨今の物の行き来と動きをみると、「穂別実顕地に交流に行ったけど、肉を余り食べていないので豚肉を贈ってあげたい」「夕張実顕地に行ったら、牛肉が食べたいと行っていたので牛肉を贈りたい」「北条や六川は野菜が不足しているようで、便があったら野菜を贈りたい」など、以前より一段と心が寄せられるようになってきました。

    また繁盛している豊里ファームや春日山日曜市をやっている人たちを見ても、水沢40周年の集いに集まった人たちの発表を村ネットで見ても、韓国での研鑽学校を終えた人たちの感想を聞いても、一人ひとりが今味わっている実顕地一つからの実動の喜びとして私の心に伝わり響いてきました。

    養鶏書に「吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのです」とありますが、喜びの自分を発見する一人ひとりがこの実顕地をつくっているということが、実態となってみえてくるような予感がします。

    今月は今の実顕地の動きの中で、そうした心の面を探っていきたいです。

    【春日山実顕地 研鑽部 柳 順】

    2013年春日山研鑽テーマ

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    コメント

    • 麻野幸子(豊里実顕地)

      心が雑事に追われるって、どんな風?心が本来の能き(はたらき)をしにくくなっているってことかな。
      なれば心の本来の能きとは?「心の手を結ぶ それが実顕地の充実」を研鑽して、幸福であろうと伸ばしている私の心の手を私がしっかりと握り返そう。
      それが真に自己を愛すること、そして、心の繋がる繋がりそのものの自己に。

      心が雑事に追われるとは、私の伸ばしている心の手を私が振り払っている?

      「人は皆幸福をねがって働いている事でしょうが、なぜ幸福が得られないのでしょう?」それには出発に先きだって、真の幸福や、人生の正態を確め、・・・。
       養鶏書の一節に繋がります。

    • 佐々木順子 多摩G

      先日、法人事務研があり豊里に行ってきました。
      年末の前だし、ここで頭を整理しておこうと思ってた。自分のことを、何かちょっと疲れて余裕がないな~と気がついていて、ぱっとそれ放す機会にしたいなと思ってた。
      事前に豊里でお茶会がある連絡をもらっていて、研鑽会の休憩にお茶会行けたらいいな~くらいに思ってた。

      豊里近くのバス停からトロトロ歩いていたら、後ろから「乗っけるよ~」と声かけてくれる人がいて、車から降り際では、「お茶会おいでよ~」と声があった。それから、何人からお茶会の声かけてもらった。
      事務研やってて、事務研終わったら直ぐ帰るという仲間が気になった。
      (ちょっとゆっくりさせたいな~と思うけど、直球で言うとあかん!だろうな)
      彼女が帰る途中に遠周りして駅送りしようとしてる事を私がやって、
      彼女はその間お風呂入って、それから皆で一緒に食事して帰る事に
      して、なんだか段取りよく終わった。
      私も、駅送りと言いながらも、送りながら仲間とお喋りもできた。
      そんな事を後半の幸福研で出してたら、あれ~?私は?
      疲れて余裕ない自分だ~と思ってたけど・・・
      人の事ほっとけない気持ちは自分の中に
      まだ、あったんだ!と思えたら、嬉しくなったな。

      結局、今回のお茶会は行かなかったけど。
      同じ事やってる事務メンバ-の中で幸福研できて、良かったです。

      • 平島春美(春日山実顕地)

        順ちゃんまさに「喜びの自分を発見する」だったね~。

    • 本田秀子(春日山)

      西海実顕地で10/30~11/3で青年研があり世話係も合わせて23名の参加者がありました。私も生活スタッフに送り出してもらい、鶏舎解体受け入れの平山さんや、浜崎忍さん、馬場洋美さん、西海実顕地の人達と共にやらせてもらいました。

      ほうれん草の魚菜をしている時、とても美味しそうなほうれん草で、入っていた箱を見ると、「送り主・春日山・福田」と書いてあり律子さんの顔が浮かんできました。

      春日山ではたくさんの野菜が作られ、他の実顕地にも送られたりしますが、それは実顕地ひとつであたり前のことのようにみていました。遠く離れた九州西海実顕地では、メンバーも10人前後と少人数で野菜もあまりありませんでした。
      青年研の為に送られてきたのを見た時に、律子さんにメールしたくなり簡単にメールしました。

      ほうれん草を通して改めて、春日山と西海や今そこにいる自分とはつながっているんだなと実感しました。
      一志や豊里など他の実顕地からもいろいろと送られてとても嬉しかったです。

    • 松本礼子(多摩)

      中野さんが認知症であろうとなかろうと、中野さんの感性は変わらないんじゃないかなあ
      70数年の時間の中で培われてきたもの、それが言葉になっているんじゃないかなあ

      認知症という病気の中にその人がいるのではなくて、
      その人の中のある部分に認知できない障碍があるということ

      瞬時に起こる今のことは記憶の袋に入らないかも知れないけれど
      長年はぐくんできた感性に包まれたその人自身は、もっともっと
      その人らしくなっていくように思います。

      心の中から雑事が消えていく・・認知症ってそんな感じの病気みたい・・・。

      清水さんがおっしゃりたいこととずれているような気もしますが、
      その人がその人であること自体が
      誰にも取って代わることの出来ない役割だなあと私も思います。

    • 柳  順 (春日山)

      先日、韓国での研鑽学校から帰ってきた人たちの受け入れ研で「今回の研鑽学校を用意してもらった。というのは、単に用意してもらったというものというより、もっとその前から用意されているもの・・・」というようなことや、「一体観に立つとか霊位に立つというのは、本当にそこに立つこと、立ったら良いだけ・・・」というようなことを言っていたのを思い出しました。そのようなことは今までにも聞いてきていましたが、本当に実感がこもっていて、何か私の心に響くものがありました。
      また、「真の自己」とは?ということを考えているうちに、先日ラジオから流れてきた「世界にひとつだけの花」の歌詞が浮かんでくると同時にコスモス畑が目の前に拡がって来ました。「コスモス」という名称で括られているコスモスにも、ひとつとして同じ花はありません。私たち「人間」も、ひとりとして同じ人間はいません。それなのに、なぜ人と比較したり、自分さえ良ければという気持ちが出てくるのだろう・・・。コスモス畑の花を、わが家・わが村・わが国と分けることなどできないように、私たち人間も本当は分けられないはず。真の自己は、そのコスモスとコスモスの空間の繋がり、私たち人間の心が繋がる繋がりそのもののことなのかもしれないと思ったのでした。
      「そこに立つだけ」。意識していこうっと!

    • 清水佳子(春日山)

      認知症の中野さんとの会話にはいつも気付かされることが多い。
      この間は、ずっと関わってきた養鶏の話をしてくれた。
      「(養鶏は)おもしろかったよー」
      (どんなところがおもしろかったの?)
      「そうだねー、、、各連に雄鶏がいるでしょ、皆ちがうんだよね、『お前のこと知ってるぞ!!』って睨んでくるやつもいれば寛容な態度でみているやつもいる、
      性質っていうか、皆あるんだよねー、アイツの連、コイツの部屋っていうふうに雄鶏で連を覚えていたよなー」
      ・・・・・・・・・・
      「何か不思議だよねー、人間と鶏って姿形も何もかも、ぜんっぜんちがうのに、ふっと通じるみたいな感じになるよねー、ねー?、なるでしょう?、考えてみたらー、それってすっごーい、不思議だよねー」

      そう言われたら・・・・・
      牛や鶏や金魚とでも、ふっと通じるもの、それが不思議だっていうふうには思ったことなかったけれど、
      考えてみたら、金魚と私が通じるなんて不思議不思議(飼ってみて知ったのですが、金魚は人を見分けるんですよ)、、、、、こんなにちがうのに、
      あー、でもそれがふたつ目の心かなって、その時思いました。
      たまたま人間だったり、たまたま金魚だっただけ、
      たまたまあなただったり、たまたま私だっただけで、もともとはひとつ
      だから、ふっと通じるものがある、

      役割分担というけれど、認知症の中野さんと病身のある私も、役割分担して学び合っているのかな、
      養護部の子達の、そのまんまの姿から学ばされるものはとても深く、大きい、価値観がひっくり返される、
      その人がその人であること自体が役割、

      ひとつのものを分け合って、役割分担して、生きている、
      ならば、病身を生きよう!障害を生きよう!今を生きよう!
      学び合うために、こんなにちがう私たちがいるんだと、
      「一体である、ただひとつのわたしたち」と、
      中野さんと接する中で、春日山の暮らしの中で、心に蘇ってくるようにふと思います。

    • 平島春美(春日山実顕地)

      昨日の春日山の資料研でこのテーマを研鑽しました。なんか面白かったな~。
      「心が雑事に追われていないだろうか?」
      「雑事」ってなに? という話になった。
      私はなんとなく目の前の次から次へやってくる片付けないと進まない事柄、、みたいに思っていた。
      ある人がこんな例を出してくれた。
      自転車がパンクして、「修理してください」と提案したらいいだけなのに、「又!?この前タイヤ変えたばっかりなのに、、」と言われるのではないかと頭に浮かんだ、それが雑事かな?
      ふ~ん、なるほど、すごーくわかりやすかった。事実がすっきりみえず、まわりみちする思考回路?
      こういうの雑念っていうのかな?
      「自己」ってどこにあるんだ?というのも出た。心の繋がる繋がりそのものってどういう事?
      養鶏書の「繋がりを知る精神」って一生懸命暗記したっけ。自己は私そのもの、この私の頭の中?
      心の中?にあると思っている? 「心の繋がる繋がりそのもの」なら私と思ってる外側にあるの?

      等々頭と心がいろいろ動いた感じーでした。

      •  井口義友 別海実顕地

        平島春美さんの「雑事」の解釈は自分と同じですが、
        例題のように物事を提案する時の自分の心の動きを雑事と捉えてテーマの
        「心が雑事に追われていないだろうか?」を考えたら、いつも雑事に追われている自分が見えてきますね(苦笑)