ページを印刷 ページを印刷

みんなの愛車をあててしまった


ちょっと こすっただけなのに・・・

ちょっと こすっただけなのに・・・


 
 春日山のみんなの愛車スイフトの右ドアーをポールにあてた。

 「ガチャッ」という音で気づいた。原因は全くの不注意。帰り道、心臓がドキドキ脈打っていた。

 日頃車の提案をする時には、必ず乗りやすい車を書いていた。スイフトはスピーカーの音もよく、乗りやすく人気の車。

 「どうしよー。みんな、ごめんなさい!!」

 

 後日眼科に行く予定があり車の提案をしたが、とても希望の車を書くことができなかった。配車されていたのはあまり乗り慣れない車。私からは何も言わないのに、

「今日はこの車にしてくださいと言われています。」

と、窓口の人に言われた。乗ってみたら、時間が経ってもエアコンが効かない。操作を再確認して最大にしても、ちっとも冷えない。

 「あー、これが車をぶつけた者に与えられる罰なのね。それにしてもこの猛暑日にエアコンの効かない車を配車してくれるなんて、なんて重いお仕置き・・・」

と、思いがどんどんふくらんでいった。

 眼科が済んで車に乗った。せめて送風だけでもと思ってエアコンをつけた。

 「あら?冷気が出てくる。効いてるじゃないの!さっきまでのは、いったいなんだったのだろう!?」

 自分の思いの中で勝手に決め付けて、胸の中がモヤモヤして・・・私って変だなと思った。

 
 その夜の仲良し研で「最近事故が多いね」と、話題になった。

「自分の車だったら事故が少ないのに、ウチは自分の車じゃないから多いんじゃない?」

「一般社会では、車をぶつけたりしたら又すぐに乗ったりできないのに、ウチはそういうのがないから事故がなくならないのかなぁ」

 等、一般社会と比較しての話が多いような気がして、あまり受け入れられなかった。

 「どうしたら事故がなくせるか」というテーマなのに、私には

 「ウチでは罰がないから事故がなくならない」→「何か罰をつくったらよいのではないか」

と言っているように聞こえてきて、本来のテーマについて全く考えられなかった。

ツヤを失った右ドア

ツヤを失った右ドア

 

 ぶつけてからは、車の提案をする時に希望を書かないようにしている。先日来客があるときに「お客さんを案内する」とコメントをいれて車の提案をした。

 「お客さんを乗せるのだから、ちょっとは良い車を配車してくれるかな・・・?」と、淡い期待をしていたけれど、配車されたのは乗りやすいがエアコンの効きの弱い車だった。窓口からみたら、私にとって乗りやすい車。プラス、よいほうのランクにはいる車を配車してくれたのだと思う。

 それでも良かったのに、

「エアコンが効きにくいのをご存じでしょうか・・・まだ暑いので。もうスイフトは使わせてもらえないのでしょうか・・?」

と、メモを窓口に置いた。「普通の人は、こんなことは書かないだろうな・・・」と思いながら。

 

 調正の結果について、本当はスッと受けられる状態でもあるのに何か一言ってしまう時がある。どうしてなのだろう・・・!?

 今回のことで思ったことは、頭ではわかっているつもりでも、私の中身は「調正する人、される人」というようなところにいるのではないか。また、自分を優先したい気持ちが相変わらず強いのではないか。私は当事者になると、客観的に見たり考えたりしていくことが弱いのではないか。等など・・・

 

 今は車の提案を出す時には希望を書かないようにしている。それは、車をぶつけた自分がそんなことはとても書けないということではなく、用意してもらったものを受けていかれる自分になりたくてそうしている。

 

 毎日いろいろあるけれど、そして研鑽会などでそういうことを出すといろんな反応があって、「あー 出さなければよかった。」と思ったりもするけれど、出したら他の人から言ってもらえるし、出さなければ自分の中だけで結論づけそうになってしまう。やっぱり言ってもらったほうが進んでいく気がします。

 でも、車のドアーがへこんでいるのに「ちょっと こすっただけ」と言いたくなる自分がいるんです・・・(._.)

【春日山実顕地 柳 順】