今年こそ、アレ(A.R.E.)
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今年こそ、アレ(A.R.E.)
「何でも用意されている実顕地」とは?
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今年こそ、アレ(A.R.E.)
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「何でも用意されている実顕地」とは?
ミカンやリンゴ収穫、サツマイモ収穫など「収穫の秋」の交流が賑やかになってきました。今年の大潟実顕地の稲刈りは10月2日に無事終了、各地に新米が届きました。
今年の大潟のあきたこまち新米メニューはいつかな、と楽しみにしていた。毎年、メッセージと共に新米が枡から溢れる様に展示されるのを楽しみにしていたが…それでないと、という決めが有ったような気がする。いつも用意されているものも、これから先いつまでも用意されているとは限らない、を用意しておきたいと思った。
生活の設備面を担当している人が腰痛でできなくなり、建設部からは、今後は生活の修理はやれない事もでてくるとのこと。世話係研では、提案書を書けば直してもらって当たり前だったが、例えば、洗面所の2つのうち1つは使えなかったり、お湯が出なくて水だったりもありかな、と。ある家のフロアでは、分からないながらも見るだけは見てみよう。部品を発注してもらったらやってみるよ。というような人が現れ始めました。なんだか「用意されてない」が用意されているような。
村役でやったらいいことを出し合っているときに、老蘇さんたちがロビーで過ごしているとき、暑さの感覚がわからなくて暑い中ずっといたりするから、ちゃんとクーラーや扇風機をつけてあげる役があったほうがいいという意見が出ました。が、そんなことは老蘇さんたちでやったらいい、やれるよという反応がほとんど。老蘇さんたちのことを気にかける気持ちはいいなと思うけれど。やることが良い悪いでもなく、何かをしたりしなかったりするときの心持ちが、どちらでもよいというところにあるかが大切なのかな?ともすれば、こうするのがよい、用意するのが良いとなりがち、どこに視点を置くかで考えるところが変わってくるような感じがします。
豊里では先月23日から、毎月4回を半年間、有志での研鑚会の呼びかけがあり、希望者が多く2日間で定員いっぱいになってしめ切りました。「なりたい自分に一歩近づくこと、つまり体得したいテーマまたは理念を体得する方向に一歩進むこと、を目標にします」と案内に書かれていました。参加者からの感想が聞こえてきました。「私の考えは正しいと自信に満ちているんだな~と思った」「今から思えば何ともボンヤリした状態で始まったにも関わらず、日に日に焦点が合っていくような、何かが鮮明になっていくような感じ。誰もが感じたんじゃないかな」「相手に引っ掛かったと気付いた瞬間に相手にワープするというのをやると、プールの飛び込み位の(エイヤッ!)って感じで、その瞬間に外そう外そうとしても外れなかった(引っ掛かり)が消えちゃうんです」など。やはり日常生活から少し離れて研鑚会というのは、意義あるもののようです。
今月も共に探り研鑽していきましょう。
名もない研鑽会 テーマ そのままきく
きくから受け取ると展開していった
きくについて難しくしてきた事にきずいた
ボールを受け取る時どう投げるか考えていたりキャッチャーミットをかまえてなかったりストライクばかり要求したり・・
今はなんか運動会の玉入れににている
かごはある ひたすら玉はかごに投げられ
ていく 音声として受け取るかんじ
テーマ そのままきく
ちかよちゃんと電話で話していた
「久江ちゃん、3時から餌やりじゃないの?」ときかれた あれっ、今日は休みだけどそんな段取りだったかな?と思った
「今日は休みだよ」と言った
最初にきいたとき ちかよちゃんからの問いに素直に反応した
違うよと対立しない 相手からくるものを
うけとる 落ち着いた感じ
名もない研鑽会(自分だけの愛称)
テーマはそのままきく
昨日やってみて
話しをしたとき基本的に受け止めてもらったとしている の例をきいた
私は相手はどんなききかた、うけとめかたをしたのかわからないのに勝手にイメージ映像で選別していた
ところが研鑽会では基本的にうけとめて
もらってる、うけとめるでやってきている事に気づく
一晩寝てそう思った
10月の研鑽会から20日ほど過ぎた。なりたい自分を意識していこうとしているけど・・・で、久しぶりに金曜村づくり研に参加。
他の人の事例を研鑽するうちに、自分の実例も研鑽したくなった。
西愛和館での調理の場面、マカロニを茹でようと、袋に書いてあった茹で時間をタイマーにセットしていると、ひろ子さんが「テーマ!信じないでネ」と言った。
アレ?私、信じてない・・・初めてだから書いてある通りやってみようと、モチロン、茹でたら、食べてみるつもり。
でも、ひろ子さんの言う通りだなと切り替えて「ウン」と応えた。
ほんの数秒の出来事。
まず、ひろこさんは私が書いてある茹で時間を信じていると言ったと判断した。
そして、その判断を正しいとして、「信じてない」と反論。
ひろ子さんが声を掛けてくれた真意は分からないままに、次々と展開していたようだ。
細かく分けてみるとこんな感じ。
有志での研鑽会 引っかかるイメージが随分明るかった
ワープするという新しい言葉の影響も
あるのかもしれない
今なのよ!みたいな
みてみて!みたいな
関係面になっていかず自分に向き合う
楽しさを共有した
他の人の例は面白い きいてると真似したくなる
ひと月あくのも新鮮だ
有志での研鑽会の呼びかけがあった日の出発研。「幸ちゃんは何でもすぐ信じる。まづ、疑ってみることだ」と言った。すると別の人が「信じるも、疑うのも同じこと」と。
そうだ、私は「信ぜず、疑わず」こんな聴き方の出来るひとになりたい。 即、参加申し込み。
呼びかけメールには、月4回、半年間とあった。あ~、毎週水曜日ってことだなと思った。
で、始まってみると月末の木・金・土・日の4回と。
ヒェ~、私は今までの経験から週一回と判断し、正しいと信じていた。間違っているかも、別の形もあるかもしれないなんて皆無、これが最初の衝撃。
で、2発目。研鑽会の中で、「あの人は研鑽にならない」という意見。聞いて、それは事実だ。だって毎日、出発研を一緒にやっているから間違いない。が、アレ??その私の判断は?
自信満々、固く信じて微動だにしない状態。
先月4日間研鑽会をやってみて、そのものでは無く、自分の判断を信じているらしい、判断できる私と信じている感じ。
この先1か月、どんなことを正しいとしているか、自分の現実を直視するのを意識してみようと。
ピントの合わせ処がある暮らしは快適。