地震体験
地震体験 ─被災者と呼ばれる人だったのだなあと今、思う─
2時47分頃脱輪した激音と共に大きく横揺れし止まった。
盛岡を過ぎてすぐだった。
窓から見たら、大きな川の上で止まっていた。
10分おきに余震で揺れた。船酔いのようだ。
「寒いですね」
とたまにしゃべる人はいても、車内は静かだった。
川に落ちるかもしれない、落ちたら死ぬと誰しも思ってはいたと思うが誰も口にはしなかった。
ここまでは救助に来れないだろう。
ダメならダメなんだろうと思った。非常灯も消えた。毛布が子どもとお年寄りに配られた。
真っ暗な中で一晩すごした。
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冷えてトイレに行く時、足元を照らすには携帯電話が役立った。
寒くて、股関節までしびれてきて足の感覚がなくなってきた。
人間を超えた大きな何かが、自分とは別のこととしてある。
今起きていること、怖いという気持ちも受け入れていくだけだった。
膝が痛くて足を伸ばせない隣のおばあさん、おっぱいが張ってきて体調が悪いという前の席の人、受験生もいた。
─── 一人ひとり生きている。
それぞれの事由一切関係なく、みんな同じ、かけがえのない一人ひとり。こころを寄せていきたくなった。
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翌日の朝、車掌さんが
「バスが手配できて、一両ごとに移動します」
と告げに来てくれた。
パニックにならないように考えて、全体に伝えるのでなく一両づつ伝えに来てくれた。
車両の最後尾が地上にあったのでそちらに移動した。
ロープを使った簡単な梯子のようなもので、後ろ向きに2メートル位下りた。怖さはなかった。
外に出られたためかどうか、気持ちは軽くなった。
新幹線を間近に見たことがなかったので、
「これが線路なんだー。うあーこれが新幹線か」
と、ひとつひとつが印象深かった。
まるで旅館のように、
「いらっしゃい」
と、真っ暗な中でボランティアが待機してくれていた。そこで食べた一切れ8センチもあるロールケーキが超美味しくて、こういう時でなければ
「どこのケーキですか」
と聞きたい程だった。
何日続くか分からないので、体力温存しなければと思って、通路で寝た。ダンボールまで用意してくれているんだと思った。
目が覚めたら、
「バスで山形県の酒田に向かいます」
と案内があった。
東北に住んでいたけど、日本海側には行ったことがなかったので、いろいろな景色を見ることができた。
盛岡ではなだらかな岩手山が見え、飛行機事故のあった雫石は急な勾配で水墨画の世界だった。秋田の角館に着くとぽこんぽこんとした山で、ひょうきんな山だなーと思った。
新幹線で隣に座っていたおばあさんは緊張のためか何も食べず、トイレにも行かなかった。
途中の道の駅で
「何か食べないとだめですよ」
と強く言ったら、やっと食べてくれて
「恐怖でおしっこが止まった」
と話してくれた。
「自分は生きている。死ぬまで生きなければ」
と思った。
気が付いたら車内販売にコーヒーを頼み、サンドイッチを食べていた。
今は、生きていくエネルギーがにじみ出て、気が付かないままにも目もしっかり開いて、背筋が伸びて知らず知らずに前を向いていた。
(豊里実顕地 寺岡相子)
相子さんの淡々とした体験記に胸打たれました。生も死も紙一重
、死ぬまで生きる・・・そうですよね。生かされている私だから、
人に心寄せないと生きていけないのです。
今日の昼の全研で、被災者を受け入れていこうと確認し合いまし
た。私は被災者の為というより、自分の為に受け入れさせて欲しい
と思いました。「われ、人とともに」の看板が本物なのかニセモノ
なのか、そして、どのくらい本気なのか、この震災を通して自分に
問い続けてみたいです。
受け入れていこう、という時に、困っている人の力になりたい、ということだと思います。
その時にどこに立ってのことなのか、というところが、自分のために受け入れていく、ということがあれば、多少のことがあっても揺るがないもの、だと思いました。