ヤマギシの村づくり (4)
ヤマギシの村づくり (4)
資本制社会の中に理想的な社会を創る
(『ユートピアの模索』より)真目的とそれへの方便的なものとの識別 「公金は勝手に出来んが、小遣いの金は自由」は未だ所有観念
全国の法人経理と生活経理の人たちが一緒に研鑽会をしたり、春日山では、村人用法人窓口と生活窓口を一つにしていこうという動きがあるなか、今月はこのテーマで研鑽していきたいと思います。
日頃私たちは、提案して調正して用意されるお金と小遣いとでやっていて、それはどちらも一つ財布の中のお金です。ところが私の場合、小遣いは自分の自由に使えるお金だけれど、提案して用意されるお金はどこか公金のような感覚になっています。
お財布に入ってしまったら自分のお金なのですが、提案する時には「こんなに金額が多いと出してもらえないかな?」など、考えることがあります。それは、「そんなに必要だろうか・・・」というよりは、「出してもらえるかどうか・・・」という、やっぱり何か、一つというよりは変な感じなのです。
むらネットに「大海に浮かぶ孤島」という記事が掲載されていましたが、私たちは、お金のいる資本制社会の中にあってお金のいらない社会を創っているわけですから、周りの社会に合わせるために方便的なものを使っていることが、多々あります。ところが、普段の暮らしで何気なく使っているうちに、そのことが方便的なものであるということを忘れてしまっているのです。
「無所有社会」という大局目標がありながら、日常の便宜的手段として行っていることの影響で、手段が目的にすり替わってしまうのです。
お金そのものは観念上のもので、実態のないものであることはよくわかっているはずですが、「お金がある」「お金が要る」という観念が、いつのまにかあたかも実態があるかのように錯覚しているのです。以前、各職場の経営があまりにも丼勘定過ぎて、経営資料を作成しようとし始めていた時に、「ヤマギシの経営資料には円は使わないで、数字をみるだけでよいのではないか」という話が出ていたそうです。
小遣いも、経理の金庫にあるお金も、一つ財布のお金のはずなのに、観念がそうならないのは何故でしょうね。仕組みの問題なのか、個人の問題なのか・・・。
研鑽していったら面白そうです。いろんな事例を出し合いましょう!
昨夕の研鑽会「金の要らない高貴な暮らしをしているんだけどなあ・・・」 世間に毒されている?実情披露 多数。
アレ、財布どこだ、確かバックに入れて部屋だったよなあ。あちこち引っくり返したけど、無い。
困ったなあ、何が?免許証と保険証(めんどいけど再交付したらいける)貰ったばかりの小遣い(これも何とかしのげそう)で、建設資材の手すり購入のレシートとお釣りが無い!やだなあ。
法人に行って「無くしました」って言わねばならない。あ~あ。
嫌だなあ。何で?経理処理をする人に迷惑がかかる?う~ん、公金を扱う責任がある?のにワタシの信用が落ちる?話題になるんだろうなあ、etc。が、結局、ドジな自分を隠したい、が本音。
ほんで、バックのレシートが見つかった時の解放感!いがった~
レシートを無くさないように「努力」しているうちはエライ。観念が変わるところまで研鑽で。
先日の基本研で、、「資本制社会(ジャラコ)の中に理想的な社会(豊里ファーム)を創る」(笑)と言った人がいました。
豊里ファームopenの日には豊里の人たちが本当に嬉しそうな良い顔をしていて、私もうれしかったです。
豊里ファームで、現在お金と引き換えに生産物を渡しているのも、真目的への方便的なものであるなぁと思いました。
今日は早く帰ったので楽しみに村ネットみて愕然とした。泣きたくなった。(大海に浮かぶ孤島としての実顕地)を考えだしてからのジブンの今日までの心は激動でした。買い物をしてお金を出すたびに 商品を観るたびに 広告撮影をするたびに ワタクシの内の(お金)という観念がくっきり浮かびあがって まったくジブン誤摩化していたんじゃないか 佐川さんのコメント読んだら前渉行程論読みなおし都市生活者のジブンんの(収穫する意識)まで見つめ直さなければならなかった ホントにお金のいらない社会!!そのお金ってなんだ「資本制社会(ジャラコ)の中に理想的な社会(豊里ファーム)を創る(笑)その(笑)に涙が流れた ユートピアの模索 を買おうとネットで探したらいきなり書評しているかつて学園運動を共にしていた 参画取り消したFさんの文章があって 読んでいたら朝まで眠れなかった 街に出て食べることでいっぱいだった日々をおもうと心が痛かった ルンペンになったジブンがジャラコにいったら 金の煮卵 春日のちょーうまい焼きそば 食べれますか お金払うから食べるんじゃない事実 ルンペンのジブンの手に お金があるか 見ますか おしえてくれよ無所有のジャら子! それも方便!方便なんてやめてくれジブン!!おまえのことばで伝えてくれよ 照明するなら本気で研鑽の光あててくれよジブン!!
方便(ほうべん)には、次の意味がある。
仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。
仏教以外の物事について導く・説明するための手法のこと。真実でないが有益な説明等を意味する場合もある。「嘘も方便」という慣用句ではこちらの意味で使用されている。
上記の意味がさらに転じて、都合のよいさまを悪く言う場合にも用いられる(「御方便なものだ」)。あるいは、「詭弁」とほぼ同じ意味で用いられることもある。
とあった。一日のジブンをふりかえるとき コメントしちゃったあとは かなり反省する そのときのジブンを見つめ直して その元に気づくと ちょっとつらくなる感じ ジブン使って気づいていけるのは楽しいのに。 だからあんまりコメントってないのかな 一日を反省してその観念の 少しの誤摩化しに気づくと 笑えるやわらかさがなくなってる感じ あらら 自己研鑽ってどうよ そのまま聴けないところ みんなで研鑽して笑いあえるっていいな〜 順さんすみません 真目的への方便的なもの だったらファームって そのままその心の世界に住んでいきたい世界 近所のコンビニもそんな世界になるのかな ゲッッ 朝がやってきた 今日は素直さがテーマかな
栄子さんのコメントを「そうそう!」とうなずきながら読みました。
ほんと、めんどくさい(時がある)。
子ども関係とか医療費とか親族関係とか、すんなりと出てくるものもあるんだけど
そうでないものに関しては自分の主張を大声で言わないとお金がでてこない。
もしくは、そこでお金が出てくるように他の月の提案を少なくしてみたり。
そうすることで、そのものが使いたいとか、出掛けたいとか、ほんとそれだけの純粋な(?)気持ちだったのに、主張する為に考えをアピールする為にその事に固執しちゃったり、ここまでしたんだから当然お金がでるだろう、てなったり。
もっと簡単にいかないかなぁ?
みんなが使いたいだけ使ったら(これは上限という意味ではアリマセン)実顕地成り立たない?
これを見ている内部川実顕地のかたへ
最近こういう事例が自分の身に降りかかったというわけではないです!
自分の思考パターンがこんな感じということで。
小遣いも提案して使うお金も一つ財布から出ている。
小遣いで使う程度の物はそれぞれの自己研さんで、使ってもいいのではとみんなの総意で、そうしたと解釈しています。だから小遣いも公金です。
と、思ってはいます。が、
自分の中で、小遣いは提案してまで買うまでの物でないと思った物の購入に当てています。喫茶店でお茶する時や駄菓子を買う時は小遣い。後、本代かな。(高い本は提案する。)村で用意されているけどお気に入りの化粧品とかも、小遣い。(感覚の違いとかあって、いろいろ調正所の人に説明するのが面倒臭いので)
映画見たいとか、寿司食べたいとか、お小遣いでは賄いきれない時もある。所有欲かもしれないけど、関心がいろいろあるので。
だから公金とは思っていても、小遣いはできるだけ残しておいて、提案してもだめなものの時用に残しておきたいとは思いますね。
感覚が違うので必要とする物の度合いが違うので、面倒臭いな~と思う。
お金は実態のないもの、という点については自分の中で消化し切れていない感じです。
確かにお金に価値があるのは、大多数の人がお金を「大事」と認識しているからなのかなと思います。
宮城での震災の時、ガソリンがない、電池がないという状況では、ほんとにお金って持ってても何の足しにもならないんだなあと実感しました。
それは自分の観念がどうかというよりも、全体の観念がそうなっていたという感じだったのかな。
今は世界の大部分はお金に価値を置いて回っている。それはただ「観念」というだけで片付けてしまっていいんだろうか?
まだ自分の中で釈然としていません。
石角君の「今は世界の大部分はお金に価値を置いて回っている。それはただ『観念』というだけで片付けてしまっていいんだろうか?」に反応して思いつくまま書いてみます。実は私も昔、特講を受けると心の目が開けて、ついでに戦争も無くなりますと聞いて、たかが自分の観念が変わるだけのことで、世の中そんなに単純じゃないよと反発したことがあるからです。
たかが観念、されど観念なのです。
どんなにか頑固な人でも、一通の急信によって、どんな忙しい中でも、遠隔の地からでも、取るものも取りあえず、頑張っていた頑固さをサッと抜いて、自分ではそれを意識しないで、兄弟・近親の元へ馳せつけることがあります。また、愛しい人の死に直面するとき、むしろ行方不明のまま何処かで生き続けている方を願うことがあります。
人間は観念の動物だろうか。観念動物なるがゆえの滑稽さ・愚かさに振りまわされている我が身の日々を省みます。そしてそんな弱い存在であると同時に、人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることをも確信しています。
さてお金の価値についてですが、今の貨幣経済では「働かなければ食べられない、食べるために働く」という観念下にあります。人と人とが離れ、利害が相反目している社会では、何かを自分のものだと感じるにはそれを所有しなければならない。自分が働いて得たものは「自分のもの」だとみなすことで、はじめて他の人のものと交換することができたのだ!! そこから必然「自分のもの」を社会的に比較する「等価」という考えの必要性に迫られる。つまり等価交換を繋ぐ「交換価値」の結晶としてのお金のはじまりである。しかも等価交換は、抽象的・観念的な労働時間=労働力の売り買いという実態のない仮象的なものとして現れる。
しかし、私的なものが社会性を獲得できたという意味では「人類史の画期的な出来事」(マルクス)でもあったのである。
またそうした価値観に合う人間の欲求・欲望が、心理面が、機構制度が、社会気風・価値判断が次々と仮の現実として再生産・日常化されていく。それゆえ人間の本質とか本来性がたえず問い直されて今に至っているのであろう。
あらためて
「共存共生の世界
たれのものでもない
たれが用いてもよい
最も相合うお互いを生かし合う世界」があることに戦慄する。
所有観念からの持つ世界と無所有観念からの持たない世界、何れが本当に正しいのだろうか。親愛の情によって、全人類間の紐帯となせないものだろうか。
それを実顕地という場でヤマギシの村づくりを通してなそうとして為しているのではなかろうか。
先月みたいにテ-マだけ印刷できるようにしてほしい
無所有というテーマとお金というテーマは、全然別のことではないかと思います。
それはそうですが今、考えたいのは自分の実態が日常レベルでそうなってあるか?
ということを共通の話題として、明るいところで検証しよーということかしら、、、。
参画者は皆、それぞれ大きな強い決断をして、参画していま実顕地で暮らしている。
いくらそれぞれが「大きな 強い決断」をしたからといって、資本制社会の考え方や道徳因習等の習性が改変されることはない。また、日常的に新聞報道やテレビの報道やドキュメントにしても、資本制社会の正義観や真理観で創られている。
それならば、日常不断に自分や周囲を見直し、日本社会や国際社会の在りようを、考えなければ、知らず知らずのうちに、資本制社会の考え方・観方に偏ってしまうだろう。
それ故このような方面にも、研鑽の光を当てていくことと想う。
このような、研鑽にすすめることができる一体生活の有難さかなとも想う。
「万象悉く流れるもの」に響いて惹かれて参画しているものの、使い慣れた旧観念はすぐ復活、虎口を開けて待っているようです。
日常不断に自分の考え方を見つめていきたいなあと思います。杉さんの言うように研鑽ですすめていける一体生活の有難さかな。200年後を描きながら楽しみながら・・・お金のことなんて面白そう。