全員参加の研鑽学校
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4/18(日)から春日山実顕地の研鑽学校が始まりました。
内部川・美里実顕地から始まり一志実顕地、豊里実顕地と続いた、日常をやりながらいつものメンバーで自分の居る実顕地で研鑽学校をするという新しいスタイルの研鑽学校
わくわく・ドキドキしながら始まりました!
初日にまず感じたのは夕方4時過ぎになると職場からあがってくる人が続々とメイン道路を歩いています。(研鑽会は5時~7時)4時40分を過ぎる頃から研鑽会場へ向かう人の後ろ姿がメイン道路に続きます。イヤーこれだけとっても画期的!
研学初日の朝、職場の出発研で「感無量です」って言ってみんなに笑われました。
そしたら研学始まって、初めに「今思ってること」を出しあうなか「感無量です」って言った人が4人位いたのです。
今回の研学を進めるに当たって生まれた推進メンバーから「全員参加の研鑽学校です」と出されたのはいつだったかな?それまで他人事だった研鑽学校が自分の事として考えざるを得ない事として一人ひとりに迫ってきました。
全員に注がれる温かいものと受け止めた人、
全員なら当然自分も参加するもの(全員の中に夫が入ってなかったなんて話も)
もともと行きたかったという人
全員?強制かい!
受け止め方は様々ですがなにしろ私はどう考えるのか?
そこから一人ひとりのドラマが始まり初日を迎えました。その間一転二転三転の1ヶ月余り
各職場もいろいろドラマがあったようです。
私のいる食生活では「職場の都合で出られないは無し」はメンバーの共通認識でした。
さぁーどんな研鑽学校になるのでしょう?
どんな職場になっていくのでしょう?
どんな春日山実顕地になるのでしょうー?
わくわく・ドキドキです
昨日の村つくり研楽しかった
全員参加の研鑽学校つてどんな感じだろう、今どう思いますか?
の問いかけが新鮮だった
昨夜職場研があり 香りのよい紅茶をいただきながら
様々な話しをききました
承子ちゃんが明美ちゃんにきいて見方がかわり、みっちゃんと
その場にいて感じたものが びんびん伝わってきました
うんうんそうだよねって いっぱい笑って楽しかった
様々なものがかわっていっても 今自分が大事にしていることは
何なのか考えていこうと思いました
仲良し研で庄一さんから春日研学やってみてをききました
岡野さんのコメントや全集・三・P118のハイハイ研鑽、
食、加工の段取りなど様々な例がでました
途中で村つくり研に行くため席を立つ人もいて なんか
あちこちで動いてるなあとうきうきしました
身体も日々変化しているけど心はどうかな?と氣をおいていきたいで
す
全員参加の研鑽学校ってどんな感じ?
研学を出発してきた私に、喜一さんから 研学行ってきてくれたん
やな ときいたことがありました
とても大きな心を感じ拡がりがあります
「全員参加の全員て何だろう」と問われ、春日山全員から実顕地メンバー全員になり、今一気に全人となった。
地球上どこにいてもコロナウイルスに感染する強い繋がりがあるように。
研学前後、私が受け取れる言葉や行為、方法に愛を感じ、とらわれが溶け一歩前に進んでこれた。そんなお互いで充満する社会は幸福そのもの。
真の人間になる過程は、地球が本来の地球に還る過程。
そこを描いて足元から実践していきたい。
今日も又、朝の出発研は一時間になりました。皆が出し合っている途中で「そろそろ30分に戻した方がいいのでは?」と出てくる私ですが、真剣に自分に向き合っている皆の姿に引き込まれてしまう。そのうち「きようはコスモスを植えたい!これは私の私意です。」と段取りも自然に始まる。
今回、春日の中での衣生活部の役割も思いました。「何月何日までに。出来るだけ早く。今すぐ。」という仕事の産業部。今日の食事を用意する食生活部。「洗濯物は今日でなくてもいいよ。」とまわりから見守られている私達に託されているものがありそうです。11人、出したいことをだしきり、「もやもや」を残さないで、その日をはじめる。少しでも楽な呼吸をしたいですもんね。「研鑽とは、呼吸のようなもの。」とありました。そりゃ、やめるわけにいかないよね?
「全員参加の研鑽学校」ってどんな感じでしたか?
コメント読んだり交流研に参加して、あらためて全員参加というあたりがどんな感じだったのかなと思いました。
そもそも全員参加の「全員」って何だろう。
全員? 春日山実顕地の大人全員?
あ~、私も参加していた感じある!
と、すると。「全員」って何だろう?
昨日の夜の研さん会で中元さんが、この間雨が降らなくて、植えた玉ねぎが弱って行くように思えて、自分の体が動かないように思えた事から、『自分は【雨が降らない】その私意を全部聴いて無かったんだなぁ』と発言しているのを聞いて、『えっ!』と思いました。今、投稿してくれている人の文書を読みながら、それを思い出した。
懸案の養豚場の防鳥ネット張りがこの研鑽学校中に全て終わった。まるで神様が用意してくれたような、この「全員参加の研鑽学校」すべてが詰まっているようなネット張りだった。
「ネット張りじゃなくて、意地の張り合いじゃあー!」
から始まってあのネット張りは私意だったのか?公意だったのか?
私の心はどうだったのか?どうその事を受け止めて行動したのか?
そこに至るまで、やっては考え、出しては考え、感じ、???、、、
ネット張りは金・土・日と3日やったけどその間日常の仕事も暮らしもあるわけで、色んな事が起こり、感じ、考え行きつ戻りつ私の中身はどうなっているのか?と。
その間本研だけでなく、職場の出発研も整理研もあるわけで、またまた行きつ、戻りつ。
「いっくら、手を伸ばしたって,相手に払われるでー」
「そこに行くとドツボやー」 律ちゃんの声が飛んでくる!
こうやって自分なりの到達点に達したと思うのはもう私の癖なんだ、と開き直って
「相手の話を全部聴く」そこから、どんな私が生まれるか?楽しみにできる私にスイッチを切り替えよー!と。
今日は研鑽学校最終日なので、感想を出し合って終わりかなと思っていたところ、宮本さんが「中間研をしましょう」と言う。
考えてみれば研鑽生活に終わりはなく、全ての研鑽は中間(途中)だ。
研鑽学校はきっかけに過ぎないのだと思う。
今後の人生の選択は自分次第。
研鑽のもと、公意でやっていくか、
自分の考えに従うか。
前者は広大無辺、後者は行き止まりのような気がする。
研鑽学校が私の意識から離れていった思考停止の一日…。
春日情報LINEに「明日は朝8時からネット張りをやります。」のコメント。
それを見た私は「ん?どういう事?」次の日酪農部でも、防鳥ネット張りに行っているので出発研は無しするとのこと。更にその夜、翌日の防鳥ネット張りの呼びかけに、酪農部のメンバー何人かが、「私、行きます」の反応。「訳わからん!」「やる前にもっと考えるところがあるやろ!」この期間、職場の出発研で研鑽会参加者の話に触れ、テーマで考えていくことを共にやってきた私にとって、取り残された感と、状況がよく解らないことの不足感で研鑽学校から意識が離れていった。職場LINEに「出発研をやりたかったなぁー」と呟いた。
次の日、職場出発研が持たれ、防鳥ネット張りやってみてや、テーマを研鑽してきてのこと等の話に触れ、再び自分の考えが動き出した。
自分の予期しない動きに対して、意識が離れて、批判的になったりするのだなぁと思った。
参画前の話だが、タダの祭りの準備に一週間前から春日に来て一緒にやらせてもらったことがある。前夜祭の前の夜夢を見た。自分は空にいて真っ暗な日本を見ている。すると全国各地から小さいけど明るい光の点が次々とタダの祭りの会場に集まってくる、どんどん春日のあたりの光が強く大きくなり最後には地球全てを覆ってしまうという夢だ。目が覚めてこんなことを考えた。
タダ光線の法則
第一法則 タダ光線の発信機.受信機は誰の心にもある。
第二法則 タダ光線の波長は誰のものも同じで【8080(ハレハレ)】マイクロタダである。
第三法則 タダ光線のエネルギーは宇宙に満ちており、使っても減ることはない。
第三法則 タダ光線の強さ美しさはその人のタダ純度の二乗に比例する。
第四法則 タダ光線を受信すると自動的に発信機が共鳴しその人もタダ光線を発射する。
経験則 一人の強力なタダ光線は周囲100人の発信機を共鳴せしめ一瞬にしてその場がタダの社会になる。
あれから35年が過ぎ、昨日の研鑽会の中で、「スイッチ」という言葉を聞き書
きたくなった。そして我執光線の事も考えてみた。
❶ 我執光線の発信機.受信機は誰の心にもある。
❷ 我執光線の波長は我執の種類により異なるるため同じ波長は一つもない。
❸ 我執光線のエネルギーはその人の中だけに在り使い続けると自滅する。
❹ 我執光線は他の我執光線とは干渉しあい、互いを消滅させる。
タダ光線は「私はあなた、あなたは私、私はない」自他の境のない「一つ」
のこころから発射され、全てを丸ごと受け入れる。我執光線は私は正しいとす
る観念から発射され、他を抹殺、あるいは思い通りにしようとする。他を思い
どおりにすることなどできるはずもなく、無理だ。無理なことを続けようとす
れば疲れ果て自滅するしかないのでは。
4月17日の「結婚お祝いの会」では、会場全体がタダ光線に包まれているのを
感じた。空から見るとあの一画は光り輝いていたのではないだろうか。おはよ
うの挨拶の時タダ光線を感じる。風や鳥のさえずり、木々からも柔らかなタダ
光線が出ているようだ。そんな世界にいつもいたいと思う。そしてそれは意外
と簡単なのではと今思っている。この間、苦手な人が一瞬で愛おしい人に変わ
るのを経験した。自分の観念が間違っていると気づいた瞬間スイッチが入った
と思う。そしてその気づきは人と人のかかわりの中でできた。この研鑽学校の
中でもっともっと気づきたいと欲が出てきた
全員参加の研鑽学校。
研鑽学校研鑽会には出席していないが、研鑽学校に参加している意識をもってこの間過ごしていて、充実した日々。
職場の出発研は、研鑽会に出席している人の話を聞きながら共に進んでいる空気が心地良い。
“聴く”っていうのは、相手が自分の中に入ってくるんじゃなくて、自分が相手の中にすっぽり入って身体じゅうで共鳴している。共鳴板になった感じ。
尊重するってこんな感じ?
これもっとやってみたい。
今日の研鑽会で思いました。
密度の濃い日々だね〜
どこをとっても金太郎飴みたいに研鑽学校!
職場は勿論、生活場面でも、宿舎でも家でも。
由喜ちゃんが言ってるようにこんな研学がやりたかった!
5ー7時の本研だけでなく、出せる場があって聴く場がすぐそこに、
あって材料がゴロゴロ転がってる!
もっとおおらかに、伸び伸びいける世界がビューンと手を伸ばせば
届くような気がして来た。
今日起きたら、実践テーマを意識した。何故なら今日はネット張りだったから。終わったらどっと疲れた。電池切れみたいだった。研さん会行くのが楽しみだった。何でやろう?と思った。後一週間、テーマでやろうと思った。
今日は『私意を全部尊重するってどんな感じか』でした。
今日までやってみて、わかったとする事は何ひとつ無い中、まだ見ぬ世界ってどんなだろうとわくわくしてきた。言う時も聴く時も相手一色の世界。相手があってこそ。
振り返ってみれば、私は病気を得ている。いろんな人に支えられ、その心を結ぼうとする手や心に、どれだけ救われ今の私があるのだろうと思った。あきらめないでやって来れたのは、結ぼうとする手を離さないでやってこれたからかもしれない。
伝えたい。今の私の心は平和で、自分が大好き。
人生の伴走者がそばにいて、たわいのない会話に笑顔はじける日々。この人がいるからこそ、継続して何かをやり続ける力をつけてこられた。ふんわり咲いているなぁと。
言う時も聴く時も相手一色の世界ってどんなだろう。
待たれているなと感じた。私を待ってくれている
心の世界に、すっぽり飛び込み包まれてみたい。
相手の話に、
じっと耳をすませていると、
ふと、
寂しいなあと感じる。
たくさんの人の中でも、
自分ひとりきり。
たった一人しかいない、
そのたえられないくらいの、
「孤独」感。
それでも、ある瞬間、
ことばではとらえきれない、
何かにふれた、
見えた、
そんなときが、
とつぜん、訪れるときがあった。
「全員参加の研鑚学校」「日常そのままの研鑚学校」
どうなるか楽しみではあったけれど予想以上です。
「今の私にピッタリの研鑚学校」「こうゆう研学がやりたかった」
と言うのが今の思いです。
「日常一緒にやってくれている人と入ると、こんなにも楽に検べられるのか。」
と目から鱗です。
私は、本研では「テーマで検べる。人の話を聴く。テーマにピッタときたら出す。」
と、どちらかと言うと、聴くことに集中しています。
本研の最後に「これからの実践テーマ」が出され、そこからテーマを実践してみて、
一晩寝て職場に行き作業をして、朝の出発研で「実践テーマでやってみて。」で一時間
出し合う様になりました。(いつもは30分)
「何時もなら聴けないけど、言えないけど。」とその一歩を踏み出していく時
「こんな感じじゃない?」
「そこそこ!」と、何時も隣同士でやっているお互いだからこそ、見合って出し合える。
「一歩一歩」と言う感触があります。
この2日間、ずっと、自分は「聞く」ということを、やっている。相手の話を聞くことを、はじめてやった感じがしている。こんなふうに意識して聞いたことがあったのかなあ。
「研鑽を意識する」という実践テーマがあったが、ほんまに強く意識せなあかんと実感する日々。例えば、昨日の防鳥ネット貼りを7名でやったとき、段取りなどの出発研はやったが、途中で、やり方が違う場面があっても、ここで研鑽でやらないとあかん!とはならない自分がいた。その場面で何のためにネット張りをやっているのか?に立ち止まらない感覚の鈍い自分に驚いた。もっとその都度研鑽を意識しようと思った。
昨日の研鑽会でいつもは口数が少ない
稲井さんがはっきりとした言葉で、
断定的に自分の思ってる事を出した時、
私は研学が始まる前の仲良し研で
稲井さんが 「今まで何回か研学に入ったが自分には何か固い物があって
なかなかとけない」と言っていたのを思い出しました。カンバレ稲井さん💓
私も中井君が言っていたように
自分をもっと見ていき、素のままの
自分を出していきたいと思いました。
2日目のサブテーマに
聴けたかどうかではなく
聴きたいかどうか
というのがあり妙にこころに残った。その後に出された実践テーマが
まず相手の話を全部きく
というので3日目はそれを意識して過ごしてみた。職場での出発研でそれまでは研学に反発しているのかな?と思っていた若い人達が積極的に研学の話を聞いて一緒に考えているのが意外だった。参加している人達も連携プレーで出された実例を再現して見せたりして盛り上がった。全員参加の楽しい時間となった。自分の不確かな聞き取り方に気付いたりどんどん聴きたくなって、人の意見がみな新鮮で面白かった。途中で参加してない男の人がそれはこうだろうとジャッジするように言っているように聞こえたが普段私はあんな感じなのかな?と思ったり結果として自分を棚上げしている格好となった気がした。最後に栄一君とゆかりちゃんのお互いに聴けなかったやりとりを皆であーだこーだ出しあってるのが何だか愛しい感じさえした。
聴くってすごいね。そんな事聞きたくもない。と日常的に思ったりしている私が3日目にしてこれである。長い準備期間がありその時味わったものが活きている気がした。皆素直に思っている事を出してるのでは
月曜村つくり研で春日研学からもたらされたもの、乳幼児部の
話しをきいたよ。はやいねーかわるのが。
春日山研学の参加者が多いので、職場でも生活空間でも出会う人達が、みんな実践テーマを意識しているんだなあと思ったら、おかしい、変な気持ちになる。
今回の研学は春日山のメンバーばかりだから、研鑽会以外の時間で周りの人達が同じテーマを意識していると思うと、みんな身近に感じる。職場で研学に参加していない人達が、研学の様子に関心を持っているのがいいなあ。
研学初日のテーマは「研鑽するってどんな感じですか?」
浮かんできたのは、春日山で研鑽学校やりたいと1月新任提案書を書いてから今日までのこと。
いろんな意見があるのが、おもしろくて、特に やらんでいいという人の話が聞きたくて、仲良し研を合同にしたりした。
全員参加が研学推進メンバーから出され、自分の殻を破るべく、いろんな人に声かけた。参加しようと思っていた人も再度、職場単位て提案する段階でやめるとなったり、まるでドラマを見てるようだった。
どんなふうになっていくのか、わからなかったが、職場ごとに希望の研学時間帯を出し合い決めていく過程も決めるというより自然と決まっていった感じ。
その間ずっと私の心の中も安定していた。
そんな私の体感と「研鑽するってどんな感じ」とが、つながっているのか、いないのかも、検べていきたいです。