考え方がもたらすしくみとは?
ここ一年、お昼ご飯を春日山や豊里の愛和館で食べることが多くなりました。
各々の実顕地独特の食生活を営んでいて、味わい深いものがあり、ときには別の場所で納豆が週2日メニューとして出されることもあるけれど、サイドメニューもしっかりあっていつも美味しく頂いています。
7月に桃の取材で観音寺実顕地に行ったとき、交流中の人たちでその晩の食器洗浄をやることになりました。どうやら観音寺実顕地ではいつもそうしてる、のだとか。
食事を味わうだけじゃなくて食後のあと片付けまでやるとなんだかその実顕地の一員になった気がするから不思議です。なかなかいいしくみかもしれないなと思いました。
そういった目で各地の愛和館の食器洗浄を見てみるとなかなかおもしろいことに気がつきます。
春日山の愛和館では、食べ終わった食器は水槽に入れるだけでよい。あとは誰かがやってくれているようで、どうやら仲良し班の役割でやってくれているとのこと。おかげで子どもでも老蘇さんでも心おきなくスムーズに食後へと移ることができます。たまに水槽が食器でいっぱいになってることもあり、じつはちょっと気になりながらも水槽に入れることがあります。
豊里の愛和館の食器のあと片付けはひとりひとりが下洗いできるしくみなので、下洗い後そのまま洗浄機のラックへと並べられ、おおかた水槽には溜まりません。ただ、たまに食器洗浄まわりに順番待ちの人だかりができることがあります。(どうやらこの順番待ちが交流の場になってるようです)
前者は「任し合い」の考え方が顕れている例であり、水槽が食器でいっぱいになってるときに村人の心がどうなっていくか興味深いところではありますが、後者は「自律・自立」や「自主運営」の考え方が生かされたしくみといえるのでは。
双方に特徴がありよくできたしくみだなと思え、このような食器洗浄の考え方やしくみが、じつは各地の日曜市・土曜市、幼年部や楽園村のもたらされる雰囲気と関係してるんじゃなかとさえ思うことがあります。
尤も、こういった元にある考え方、その考え方から出発したしくみや方法が、「ひとりひとりが洗わなければいけない」とか「役割の人がやるべきだ」と勝手ルール化してしまうと途端に別のものになるんじゃないかな。
元にある考え方が無ければ、いつのまにかしくみがルール化して、ルールに沿わないものは悪、沿うものは正しいことをしている、というような息苦しさを感じるようになるかもしれません。
ひとりひとりが洗うしくみでも誰かに洗ってもらう機会があっていいのだし、役割制のしくみでも役割じゃない人でも気がついたときに入りやすいしくみ。
しくみから逸脱できるしくみ、というのを描くと、元にある考え方はよりくっきりと浮かび上がりそうです。
洗浄機については私も色々思いがあります。
私が一志実顕地で食生活をしていた時に新しい愛和館がたちました。
新しい愛和館の食器洗浄を三漕で手洗いする方式と洗浄機で洗うのとを併用できるようにしました。
旧愛和館の時に洗浄機が壊れて回転釜のすぐ後ろにあった三漕で食器洗浄をした時があったのです。
そこに、並んで食器を洗う時の会話の感じがテーブルで話す時とは違って(隣同士近いし老若男女問わない)いい感じだったのです。私は当時回転釜の前で鍋をかきまわしてることが多くなんともそれがうれしかったのを覚えています。その感じを新愛和館に再現したかったのです。一人一人が洗ってカウンターまで戻すので食器が少なくて済むというおまけもありました。ただ、そこまでやると、ひとりで完結してしまうのでひとりひとりが洗って戻すという形がルール化しやすいでしょうね。今一志がどういう感じかはわかりませんが、、、。豊里の食器洗浄はその辺がちょっと幅があって(ノリしろがある?)考えられてあるのかしら。各自が水槽で洗って戻すとか洗浄機のラックにのせるいう形はかなり普及したのではないでしょうか。微妙に実顕地によって違う空気があるのが面白いですよね。ここでいう「考え方がしくみをもたらす」というより「仕組みが考え方を方向づけてしまうような」ことってあるような気がします。
洗浄機で思いだしてしまったんだけど。
食事会の後の片付け・洗浄機は仲良し班でやっています。
前回の担当は1班でした。
ほとんど全員で食べ終わるので、水槽も満タン。
そこに食器を入れに来た、たぶん2班の人が
「早く洗った方がいいんじゃないの~?1班の人!」
何かその言葉にイラっとしてしまって、私は2班だけど最初から最後まで洗浄機をまわしてしまいました。
あ、私、頭にくると掃除とかはじめちゃうのね。怒らせた人、よくやった!片付け助かったわーなんて言われちゃったけど(笑)
普段は特に何も決まってなくてもほとんど滞りなく流れていっているけれど、ちょっと決めごとが入ってくると状況を見て動くことよりも、ルールで動く方へ考えがいきやすいのかな?