誰の心にもある『心』への旅(研学Ⅲ受け入れ研)
昨日(7月15日)昼に春日山で、研鑽学校Ⅲの受け入れ研がありました。
その日は養鶏部技術係り研も春日山で開かれていて、その人達も参加されて、受け入れ研がにぎわいました。
研学Ⅲの受け入れでよく出されるひとりひとりの「原風景」を探っていく旅、心の琴線に触れた瞬間の歓びなどがリアルに語られるなかで、受け入れに集まってきた人達の中にも、熱いものが蘇ってくるようでした。
「二つの心」って何と何?とか、
何処に心が動いたかが日常の中で掴めたら、
そこに理が見いだせたら、実顕地作りができるのではないか?
とか
自分の中にもあるのなら早く研学Ⅲに行って、引き出さなくっちゃ!
とおもわず出した人がいたり、、、でした。
最後に「この歌に私達の全てが込められています」と歌ってくれました。
1601 ソング (楽園村ソング替え歌)
今 僕は気づいた 心の中にに広がる熱いものに 心の琴線 触れた 虹の架け橋渡ってこの世界へ 二つの心あると 皆で出し合い気づけた 頭 無しでつかめ 心 だけでつかめ この心があれば それだけで大丈夫―
それぞれのその後を是非お寄せください。
むらネット上に「心の旅」の続きを!!
研学Ⅲ その後
心の琴線に触れるものがある。それはどういうものか。
考えているうちにふと思った。それはどこにあるのだろう?
「事実の世界」と「思いの世界」。
感じ方は人それぞれなのだから、それは私の思いの世界にあると言うしかないのか・・・。
漠然とした疑問を残したまま2009年9月の研学Ⅲから出発した。
そのモヤモヤしたものを考え続けて、今言葉に整理すると次のようになる。
私の眼前に広がるこの瑞々しく美しくも豊かな世界が、主観と客観を隔てる意識のスクリーンに投影された像のようなもの、現実世界の不完全なコピーなどであるはずがない。
私は事実そのものと直接ふれあいながら現実世界のただ中で生きている。
事実の世界=客観、思いの世界=主観。
世界を二つに切り分けた時から、私の心は事実に直接ふれる道を閉ざされていた。
<写真説明>
リッタが生まれ育った村から見たミーテン山。私にとっても原風景になった。
静謐な空気のながれの中にひきこまれていきます。何よりひとつの原風景を味わえるという、ご夫婦の心境にこころが響きます。
毎日、建設部で顔をあわせている梶山さん。村メールがあって、また一つ別の梶山さんを知った。
事実そのものと直接ふれあいながら生きている私、そのままに生きていきたい。
主観ー客観 このわづらわしい もの
想いの世界 が わたしの世界
わたしは 想いの世界で 生きている
ミーテン山は岩山ですね
ゴツゴツしていて何かを語ってるようです
それでも わたしは 針のように立っている
木々に惹き付けられました
この風景のなかで リッタさんは育ったんだ
こころに なにかを うけとり
なにかに 形作り リッタさんのこころ になったんだ
思わず「梶山さんのコメント」を探しました。
12/15の昼に春日山の研学Ⅲの受け入れがありました。春日山からの3人と那須実顕地の小川恵知子さんでした。
受け入れ研の中で、誰かの言葉の中に「むらネットで梶山さんが言っている主観と客観を隔てた時から、、、」という言葉が心に残りました。
今は自動解任の時季でもあり、自分は世界をどんな風にみているのだろうか?とぼんやり考えていた時でもありました。
梶山さんのコメントは7/21のもので研学Ⅲの記事に対してでした。それを読み直して、きょうの受け入れと私の中で繋がるものがありました。
それこそ言葉では言えないのですが、、、。そこかしこにそして誰の心にも流れているもの、そしてまた
『万象ことごとくうつり流れゆくもの』
私にとってなにか心に浸みる受け入れ研でした。
今 僕は 気づいた
心の中に きらめく 探りつづけるもの
心の流れを きいた
虹の架け橋渡ってこの世界
心のそこに つながる心があると
皆で出し合い気づけた
頭 無しでつかめ
心 だけでつかめ
この心があれば
それだけで大丈夫―