弔辞~稲越さんへ 2011年1月24日出発
稲越さん、参画して20年が経ちました。65年間の今生での暮らしを終え、大自然に還る新たな出発をされるあなたに、一言お別れの言葉を言わせて下さい。
「生き様が死に様、いつ死ぬか分からない以上、その時その瞬間を最高に生き、笑って暮らしていなかったら、笑ってなんか死ねないよ。」
と常々あなたは言っていました。
その通りの人生を実践し、見事に見せてくれました。そして、何よりすばらしいのは、いつもあなたの心の中には数多くの人達が住んでいたということです。
初めてお見舞いに行った時のことを思い出します。
病院の検査で末期がんが発見され、本人に告知するかどうかを家族に相談が来たとき、長男の健一君が、
「はっきり事実を伝えたほうがいい。お父さんはそういう生き方がしたくて参画したのだから、大丈夫だ。」
と言って、自分に余命三ヶ月の告知をしてくれたという話を、実に嬉しそうに話してくれました。
また、抗がん剤を幾度かやった後、熟慮の末、玄米菜食とオーリングで免疫力を高め自然治癒の方向へ舵をきることにするわけだけれど、続けて抗がん剤治療をすすめる先生と、気まずい時もありながら幾度かの話し合いのすえ、結局理科学検査は病院で、治療はオーリングのほうでとなった。
「すばらしい先生たちに出会えて僕は幸せ者、ラッキーだ。」
と言っていました。まわりの人達をそう思えるあなたは、確かに「本当の幸せ者だ」と思えた瞬間でした。
そして、あなたは、死んだ後は献体をすると言いました。
「癌でしかも弱った身体じゃ無理よ。」
と妻に返されると、今度は、
「世話になった病院の先生にすい臓がんの見本を提供したい。」
と申し出て、そうなったと聞きます。どこまでも心のあるあなたは「欲が深い」。
僕が体調を崩していた時も、自分が癌の治療中で厳しい状況なのにも拘わらず
「この飲み物は効くよ。」
と差し入れてくれました。血圧が高くなったという時も、どこからかそのことを聞きつけ、わざわざ指ツボマッサージの本を買ってきてくれたりしました。
稲越さん、それ、今でもちゃんとやっていますよ。
最後に心に深く残っていることがあります。それは実顕地の真価についてです。
「こういう身体になってみて改めて実感するんだけど、僕には死んだ後の心配がない。そうなっても、みち子は今までと変わらずこの村で皆と仲良く暮らし、子供達はそれぞれの場所で思い切りやっている、そしていつでもここを故郷として帰って来る。そんな暮らしが続いて行く。これって、実はすごいことだと思うんだ。世界中がそんな不安のない世界になったらすごいと思わないか?実顕地には意味があるんだ。」
しみじみとそう言っていました。
稲越さんを慕い、昨日も今日もこんなにも多くの人達が来てくれていますよ。幸せな人だね、幸せな人生だったね、あなたの望んだ社会を私達が繋いでいきます。僕たちに任せて下さい。
稲越さん、大自然に還る旅立ちへ、心安らかに行ってらっしゃい。
2011年1月26日
ヤマギシズム社会 内部川実顕地村人代表 松澤健司
村ネットの記事の中で、
感度のにぶい今の僕に、
一番ぐっときて、(久しぶりに)涙がでました。
実顕地の真価についての、稲越さんの言葉。
「こういう身体になってみて改めて実感するんだけど、僕には死んだ後の心配がない。そうなっても、みち子は今までと変わらずこの村で皆と仲良く暮らし、子供達はそれぞれの場所で思い切りやっている、そしていつでもここを故郷として帰って来る。そんな暮らしが続いて行く。これって、実はすごいことだと思うんだ。世界中がそんな不安のない世界になったらすごいと思わないか?実顕地には意味があるんだ。」
読んだあと、涙がでました。
そういう実顕地にしていきたいな。
すでにそうですよね?
それを永遠に・・・
昨年11月に亡くなった加藤哲さんも、稲越常男さんも、
ヤマギシの実顕地生産物の供給に命をかけてやられ、
活用者、社員さんと、ほんとに 共に をやられて来たのを、
社員さん達からの話から感じとれます。
弔辞をあまり聞く機会はありませんが、その一文に、
何かが、全てが詰まっているかなと思いました。
弔辞に限らず、祝辞もですかね。
もう過去の事かもしれないけれども、
加藤哲さんの弔辞もアップしてもらえないかな・・・
今僕が湘南供給所で思い切りやらせてもらっているのも、
加藤さんのお陰がかなり大きいし・・・
長くなりました。
2011.2.22 志方貴洋
松沢さん、私の気持ちをも代弁してくれているような感じで染みてきました。研学の作業で内部に成田の直美ちゃんと行きました。そのときにみち子さんからお話を聞き涙でした。肉体はなくなっても行為は残るだったけ?青本を思い出します。死に方も生き方だなって思います。いい生き方をみせてくれました。ありがとう。私も受け継いでやっていきます。