いつまでやってんだか。ワタシ
文化祭の片付けのコンパネや柱などを
「第2ロビーの奥を整理して納めたい」
と住生活の真理子さんと話をした。
真理子さんが調正研でテーマにしたら、萩田さんをはじめ文化部の人たちから、
「そういう使い方はしない」
と出されたとのことだった。
今迄、第2ロビーは年2回、文化祭とカラオケ大会でしか使っていない。夏場は体操のグループが使っているけど、ステレオや椅子を避けてせいぜい手前を使うだけだ。
埃を被ったままの机やソファーが雑然と置かれたまま。活用されていない。たまに私が必要時、テーブルの上を拭くぐらい。
奥の突き当りには、パソコンの机や花を置く台、前に使っていた大きなテーブルなどが重なるように置いている。
文化祭の機材を片づけるこの機会にすっきり片づけて、パーテンションで囲って見えないようにし、次に使う時、取り出しやすいようにしたいと思って、話をしたのだが、、、。
文化祭の度、遠くから重い柱などを階段を運んでくる労力を考えた。
今回も下に敷くゴムの敷物を講堂から運んできたけど、それを返す気力もない。
まー実際にそのことをやらない人らは、
「あの場の使い方としてふさわしくない」
とか、色々言う。離れた目で見てくれているのでしょうが。
「やってみなよ!自分でやってみて、その上でどう使っていったらいいか言ってよ!」
の気分。
せっかく大きな窓とりっぱなソファーがあるのだから、物を分類整理して使いやすくして、できたスペースに本を読むコーナーを作って、と、考えていたけど別にいいや! やる気をなくした。どっちでも、お好きなように、、、。
掃除しなくてもホコリがするだけだし、本を読む人もいるかどうかわからないし。
『やる。』『やらない。』とすぐ結論出さなくてもとも思うけど、気が失せた。
「使い方をもっと考えたい」 と再度言う、気力がわかない。
気持ちにすぐ左右される。ほんとうはどうしたいのだ。
あーぁ、いつまでこんなことやってんだか。ワタシ
まー、そのままにしておけないので、片づけようとは思うけど、やる気は半減だ。
栄子さんのこの投稿を見て、まず思ったのは、
こんな、ちょっと「カッコよくない」?文章をよくそのまま投稿したなあ、ということでした。
その勇気 (勇気が要るよね、これは。私ならそうです。) に、まず敬服。
きれいごとでもない、うまくまとめた意見でもない、
ネガティブ、マイナーな心や、
なんとなくそう思うよ、というような、
言葉にならないちょっとした思いのなかにも、
案外大事なことが含まれているかもしれないのだから。
思ったまま、感じているままの、そのままの気持ちを、まず、正直に出し合ってみること。
そこからしか、ほんとうの研鑽というのは始まってはいかないもののように思う。
そうか、そのためには、このくらいまで正直に、ありのままに発していくことも時にはあってもよいか。
いや、ほんとうはむしろあって当たり前のことであるかもしれない。
(事柄の中身についても、あ、なるほどなあ、と共感するところがあります。みんなでいろいろ話し合っていきたいね。)
さて、私はどうか、が問われるね。
案外エーカッコしーで、人の評価を気にするところもある私だが、
私も、思うことがあったら、小さなことでも、正直に、素直に、かっこつけないで、
(村ネットも含めて)日常の暮らしの中で、みんなの場に発していきたい。
そして、人の話を、気持ちを、もっともっと聴いていきたいと、改めて自覚し直してもいる今日この頃でもあります。
今年もよろしく。
(こういうことをそのまま発していける、意見交流していける、今のこの むらnet の可能性も再認識した。
意見交流のし易さという点では、画面構成や仕組み的にも、まだ工夫の余地はありそうだが、
まずはまずまず、中身で勝負というのもあるね。)
二つの「こころ」があるようです。
ひとつは喜怒哀楽のあるこころ、その時々で崩れたり、流されることを恐れながらも一時的の満足感に左右されるこころ。小我ともいうらしい。
もう一つのこころは、万人が翼う万人が得られる揺るぎないこころ。真のこころ。
後の「こころ」でやりたいものです。現実に具体的に行う具現方式をわたしたちは手中にしているのではないかなあ。誰もが理解し、納得する方法で、急速
に、自ら身に近い足下より直ちに、実行し得る。
とか、偉そうですが・・・。実は自分の事となると、闇の中。お互いに照らし行くしかないね、今年もあと6時間。
真目的は、そこに在るんじゃなかろうか?
僕らの場合、後片付けが目的(テーマ)でなく、
『あーあ、いつまでこんなことやってんだか。ワタシ』が、
目的(テーマ)ではないやろか?
そこが、醍醐味なんじゃなかろうか?