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無償の愛のカタチ~奥村きみゑさんの思い出~


 川口和子さんの訃報を聞いて僅か三日を経ずして、奥村きみゑさんとの別れに立ち会うことになった。ヤマギシズム運動の初期から現在まで、ヤマギシ会事件を始めとするさまざまな困難な時期を乗り越えて今日を築き上げた古参の方々が、次第に世を去ってゆくことにはまことに心さびしいものがある。しかし、船南でのきみゑさんの葬儀に参列して、霊前に飾られたすばらしい笑顔の写真を目にした時、きみゑさんの思いがいきなり自分の心に飛び込んでくるような衝撃に見舞われた。
 その思いが何であるかはわからない。けれども何かが伝わってくる。その何かを繰り返し噛みしめているうちに、私の中に刻みつけられていたきみゑさんの古い思い出が今さらのように蘇ってきた。もしかしたらこういうのを再生というのかもしれない、と思った。死者は蘇ることはないが、死者の思い出は残されたもののうちに繰り返し再生され、生者と共に生き続けるのではないだろうか。こうした古い思い出の幾つかを、少し長くはなるが紹介させてほしいと思う。もちろん、いいかげんな私の記憶の中のエピソードだから、聞き違いや誤解があるかもしれない。しかし、間違いなくその話の一つひとつは私の中で生き続けているのである。
 私は1974(昭和49)年に参画してから10年近くを山岸会本部で過ごし、特講に関わることが多かった。実顯地に移ってからも、特講の世話係をたくさんやらせてもらった。おばちゃんも本部役員の一人として、世話係をやることが多かった。恐らく一緒に世話係をやった回数は40回は超えると思う。その間、おばちゃんから経験談をたくさん聞かせてもらった。その一つひとつからおばちゃんの人間性が伝わってきて、忘れることなく私の心の中に息づいている。

〈韓国特講で〉

 韓国がまだ軍事政権下にあった頃、尹ソンヨルさんから韓国で特講をやりたいので世話係を送ってほしいとの要請が本部に届いた。多分、1980年前後のことであったと思う。この頃の韓国は、朴大統領が暗殺されたり、光州の民主化運動に対する武力弾圧で大量の死者が出る騒然たる社会情勢であった。もちろん、この当時、韓国に実顯地はない。さて誰を送り込むか、本庁でもだいぶ頭をひねって、若い者や男よりも、奥村きみゑさんのような年寄りの方が受け入れやすのではないかという判断になった。
 当時きみゑさんは60歳を超えていて、海外に出るのは初めて、英語も韓国語もわからない。ずいぶん不安があったと思うが、「ようわからんけど、行ってくるわ」と、気軽に出かけていった。しかし、ソウル空港でさっそく、税関の手荷物検査でカバンの中の「世界革命実践の書」が引っかかった。革命運動の大弾圧をしている韓国に、堂々と「革命実践」と題する出版物を持ち込んだのである。だいぶ長いこと足止めされ、「そんな危険なものではない」といくら説明してもラチがあかない。ようやく上級将校が出てきて、「まあこれならよろしかろう」とお許しが出たわけだが、特講中はずっと秘密警察の監視が付いていたそうである。
 韓国の民衆の対日感情も、実に悪かった。日韓国交回復がなされたとはいえ、日韓条約は軍・警察力を背景とする与党単独採決という強引なものだったし、民衆の間には慰安婦問題についての謝罪も賠償も伴わない不平等なものという不満が鬱積していた。
 特講の初めの頃は、日本人でもよくわからないという印象が強い。まして日本に対する反発があれば、取り組みや理解をいっそう妨げる。一体研の時などは、また日本が韓国を併合しようと狙っているのではないか、という疑心さえ生み出した。戦前、“内鮮一体”“朝鮮人の皇民化”などの呼び声で、自国を植民地化された時の苦い経験が、韓国の人たちの間にはある。
「ある男の人なんか、面と向かって“この狐のような顔したおばさんが、われわれをまた騙しに来た”って言うんだよ」ときみゑさんは語る。
 特講会場はジュンピョン協業農場の一室を借りて行われた。室内暖房(オンドル)も全くなく、小さな火鉢が幾つかあるだけであった。
「それは寒かったよ。トイレは外にあるのだが、それが汚くってね。私は期間中、ずっとトイレ磨きをやっていた。何日かしたらトイレがぴかぴかになってね。そうしたらそれまで疑いの目で見ていた人たちの態度ががらっと変わっていった」
 一体を理屈で説明するのではなく、誰のものでもなく、誰が磨いてもいいけれども、誰も磨こうとしなかったトイレ磨きをやり続けることで、一体・仲良しというものの本当の姿がみんなの心に浸透していった。特講の参加者ばかりでなく、協業農場の職員全部に、輪が広がっていった。
「出発の時は、最初にわれわれを騙しに来たと言っていた男の人が、ぜひまた来てください。待ってます、と抱きついてきてね」
 このあともジュンピョンで何回か特講が開かれたが、そのつどおばちゃんが出かけていった。旅行カバンの底にトイレ磨き用の雑巾を何枚かしのばせて。

 1984年1月、京機道にヤマギシズム韓国実顯地が誕生した。韓国の人たちの実顯地創設への願いと情熱が実を結んだものであるが、その陰におばちゃんの無償の愛が潜んでいたことを忘れることができない。

〈特講前の特講〉

 おばちゃんの特講は1956(昭和31)年の3月に開かれた第二回特講である。受講生ではなく、世話係としてであった。それにはこんないきさつがある。

 前々月の1月の第一回特講におじちゃん(和雄さん)が参加して、“まるで仏さんのような顔をして”帰ってきた。そして第一声、「わしはもう腹は立たんぞ」。おばちゃんが「それはどういうことか。いったい講習で何を習ってきたのか」といくら尋ねても「行けばわかる。行かにゃあわからん」としか言わない。
「一週間も行ってきて妻にも説明もできん講習って何なんや」とおばちゃんの中に反発が起こる。そんな1月のある寒い夜、舅のおじいちゃんが“親戚の家へ行ってくる”と出かけていった。おじいちゃんという人は、日露戦争に従軍したこともあり、日常茶飯事にとても口やかましい人であった。そのおじいちゃんが出かけるというので、おばちゃんもホッと一息ついて今夜はゆっくりできると思った。折しも雪は激しく降り、当然舅も親戚に泊まってくるだろうと考えていた。
 ところが、夜遅くおじいちゃんが帰ってきた。和雄さんが「よう帰ってきちゃったなあ、寒かったやろ、さあ早く入っちゃり」と体の雪をかいがいしく払い落とすのを眺めながら、おばちゃん自身は心の中で「なんで帰ってきたのだろう。泊まってくればいいのに」と恨みがましい気持ちを持ち続けていた。
 おじちゃんとの心の落差にショックを受けて、おばちゃんは翌日から寝込んでしまった。するとおじちゃんが枕元に来て「ゆっくりお休み、家のことは心配せんでええから」と声をかけてくれる。おばちゃんの心はますます苦しくなる。
「私は何でおじいちゃんをやさしく受け入れられないのだろう。何で帰ってこなければいいのになんて考えるのだろう。何で旦那のように体の雪をやさしく払ってあげることができないのだろう」「何で? なんで? ナンデ?」
 一日中、朝から晩まで、七転八倒しながら同じ問いを問い続けているうちに、ふっと「なーんだ、自分がやればいいだけじゃないか」と、急に肩の力が抜けて、とたんに嬉し涙が溢れ出てきた。
 翌日、おじちゃんにその話をして「腹が立たないってこんなことか」と聞くと、「まあ、そんなこっちゃ」という答え。さっそく第二回特講に参加申し込みをしたが、その話を聞いた山岸さんが「あなたは参加者でなく、世話係としてやってほしい」と言われ、結局特講を受講したことのない数少ない世話係の一人になったのである。

〈山岸さんとの講演旅行で〉

それがいつどのへんでの出来事なのか聞き漏らして記憶にないが、山岸会発足直後の拡大運動の中でのことだと思う。山岸さんの講演は西日本各地で行われたが、おばちゃんも時折お供をして歩くことがあった。
とある田舎町を歩いていると、通りに果物屋があった。店先にリンゴが並んでいる。突然山岸さんが「あのリンゴを取ってこい」と命じた。
「黙って他人のものを取ってくるなんてできません」とおばちゃん。
「いいから取ってこい」
「できません」
「オレの言うことが聞けないのか」
「できません。いやです」
 山岸さんは、すごい形相で迫る。何回か押し問答しているうちに、おばちゃんは怖くなって泣きながら近くのトイレに逃げ込んだ。すると山岸さんも追いかけてきて、髪の毛を掴んで引きずり出し「取ってこい」とおばちゃんに命じた。万事窮す。
 破れかぶれで、もうどうなってもいい、とおばちゃんも覚悟を決めて「じゃあ取ってきます」と足を踏み出そうとしたとき、「それまで。それでいい」と山岸さん。
 おそらく山岸さんは、人間の中にある「できない」「聞けない」「こうあるべきだ」等の決め付けを外そうとしたのであろう。研鑽会での我抜きや割り切りで、これと似たことをテーマとしてやることはあるが、旅の途上でいきなり我抜きの洗礼を受けた人は何人もいないだろう。よほど大丈夫と確信を持てぬ限り、できることではない。そう言う意味でもおばちゃんは、山岸さんのメガネにかなう人だったのである。
 なお山岸さんは、「誰とでも仲よく暮らせるように、我を張らない人間になるために」と我抜き研鑽を重視していたが、その我抜きは“ハイ即実行”ではなく、“ハイ即研鑽”である、と述べ、次のように語っている。
「“ハイハイ即実行研”は誰かの提唱で、山岸の云い続けている“ハイハイ”は“ハイハイ即実行”でなく、実行の前の“ハイハイ”までで、自己盲信我執抜き目的の理論研鑽、観念段階の盲信脱却、割り切りのための研鑽である」(全集第三巻「盲信について」「山岸会事件雑観」参照)

〈ゴミ焼却場反対の座り込み〉

 1985(昭和60)年11月、突如豊里実顯地に隣接して、ゴミ焼却場が建設されるという事件が持ち上がった。田の山のブロイラー鶏舎(当時)のすぐ隣である。
 津市高野尾町・芸濃町・安濃町の三市町村が合同でこの設置を決めたのである。普通、ゴミ焼却場などの施設の建設には、近隣住民の合意が必要である。しかし、豊里実顯地の周辺には一般居住者の家屋はほとんどなく、ここなら同意も必要なかろうと、三町村の議会・町長たちは考えたのであろう。事前に何の話もなく、いきなり建設工事が始まった。
 焼却に伴う煙やガスは、そこに住む数百人の村人に影響するだけでなく、何万頭もの鷄・豚・牛など動物たちにもどんな影響があるかわからない。健康・正常をモットーとするヤマギシの実顯地生産物への被害も心配である。そこで、建設反対の運動を起こすことになった。その時立ち上がったのが、きみゑさんを中心とする老蘇軍団である。
 さっそく、建設現場で座り込みを始めた。おばあちゃんばかり4、5人から10人。毎朝、建設のトラックが着く頃、現場に出かけてゆく。きみゑさんは、交代することなく、毎日朝から晩まで座り込みの真ん中にいた。食事は、実顯地から運ばれるおにぎりとお茶、時は11月半ばのことであるからとにかく寒い。鈴鹿颪が吹きすさぶ中で座り込みが続けられた。
 ところで、困ったのはトイレである。工事現場にトイレはない。といって、実顯地まで走ることもできない。するとおばちゃんは「みんな、ここでしよう。昔は田や畑でやったやないか」「そうや、そうしよう」ということになって、みんないっせいに尻まくりして暖かい雨を降らせた。これには工事の作業員たちもびっくりして、目を外らせていたそうである。
朝になると、整地を引き受けている業者の社長が顔を出す。
「こら、おまえら、ここは県の許可を受けて建設することに決まっとる場所や。早うどかんかい!」
 いくら怒鳴られても、みんな黙って座っている。業を煮やしたオヤジは、「おまえら、死んでも知らんぞ」とユンボを持ってきて、頭上に持ち上げる。時には砂利をパラパラと振りかける。それでも、みんな座っている。
「ほんに強情なやっちゃな。わしらも好きでやってるわけやないんや。これやらなわしらも食って行けんのや」。
最後には、「お願いだからどいてくれんか」と頭を下げる始末。
おばちゃんらも、「わたしらも好きでやってるわけやあらへん。焼却場に反対のわけでもあらへん。ただ、ここは人間も動物もたくさんおることやし、なんとかほかへ移してもらえへんかとお願いしているわけや」と言う。
最後は、両方が互いにお願いすることになった。その間、全国の実顯地や会員もやってきて、三市町村の町長や議員にも働きかけ、なんとかこの場所での焼却場建設を見合わせてくれるよう働きかけを続けた。
こうして焼却場は他へ移ることになったが、この反対運動を通して注目されたのが、反対とはいうけれども、ここには「反」や「対」の対立意識がほとんどなかったことである。ひたすらに「お願いする」という意識・行動に貫かれていた。その「お願い」の最も代表的な姿がおばちゃんの立居振舞の中に現れていた。抗議の声を上げるでもなく、プラカードを振り回すでもなく、俯向きかげんにただただじっと座っている。その姿は一度でも現場を見たことのある人の目には、深く焼き付いていることだろう。
建設会社の社長は、中止が決まった時、最後におばちゃんのところへ来て、
「わしも一時は腹が立ったが、お前らの熱意にはまいったよ。今度いつかおまんらのところへ遊びにいくからな」と言って別れていった。

 こうしたおばちゃんのエピソードを幾つか並べてみると、みんな冬の寒い日の出来事であったな、と気づく。しかもその寒さを底の方から温めるような話ばかりである。生涯にこのような人に出会えたことは本当に幸せであった。しかし、おばちゃんの元気なうちは、その幸せになかなか気づかなかった。少しでも気づいておれば、もっともっと話を聞き出し、自分たちの生き方にプラスするものを加えることができたと思う。

 もう一つ思うことは、長い付き合いの間に、一度も注意されたり、過ちを指摘されるようなことがなかったことである。過ちが無かったわけではない。自ら振り返っても、誤り多い生き方ばかりだったと思わされる自分だし、おばちゃんがそれに気づかなかったはずがないのである。しかし、いっさい批評・批判することはなく、何かを指摘することもなかった。ニコニコと、本人が気づくまでじっと待っている風情であった、と今にして思う。ここにおばちゃんの愛の本質があるように思う。
 最後にもう一つだけ思い出したことがある。それは、おばちゃんの独特の笑い声である。研鑽会が膠着したり行き詰った時に、突然おばちゃんが「あっ、はっ、はっ、はっ」と笑い出すことがあった。やや甲高い、柔らかいその声を聞くと、場の空気がいっぺんに融けて、みんなの考えが進展するのである。決して意図してできることではない、不思議なこの笑い声は、おばちゃんのどこから出てきたのだろうか。

 こうして書いていると、もっと聞いておきたいこと、確かめたいことがたくさんあった。しかし、おばちゃんの記憶を再び取り戻すことができない以上、おばちゃんという人の「無償の愛のカタチ」を私のかすかな記憶の断片をつなぎ合わせて記録に止めておきたいと思った。私自身の記憶が私から飛び去る前に。

2015年6月 内部川実顕地 吉田光男