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慶州仏国記


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韓国ノート(柳文夫の韓国実顕地交流・記録)

フォトを見る → 慶州仏国記(韓国ノート)
                    
(1)まえがき
 初めての韓国の旅。
 韓国通算240回目の特講の世話係を含めた、京畿道(キョンギド)実顕地での、夫婦そろっての約50日の交流である。
 日頃、世話をしている乳牛のこともあり、はじめはあまり気がすすまなかったが、韓国の特講に入ってみたかったし、京城の骨董の町仁寺洞(インサドン)、できれば慶州(キョンジュ)にある仏国寺というところに、かねてから、一度は行ってみたいと思っていたのである。

 遠い昔、国教を仏教にしていた高麗(こうらい)が滅(ほろ)んで、李朝に変わった。
 李朝の李成桂は、国教を仏教から儒教にかえた。
 仏教は弾圧され廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国で行われたとある。
 日本にも儒教は入っているのだが、神道あり、奈良仏教あり、密教あり、浄土宗あり、禅宗あり、儒教ありと、何でもありの日本とは大分趣(おもむき)が違うらしい。

 儒教による国家運営は、李朝の経済活動を阻(はば)み続け、1800年代後半まで、商人や商業活動は育たず、簡単な工業も発達しなかった。純粋な農村国家社会といえよう。
 同じ1800年代の日本は韓国と同じく鎖国をしていたが、江戸時代は海上交通も発達し、流通はきめ細やかになり、人の往来も盛んで、米、味噌、醤油、油、造り酒屋、綿織物、絹織物等々の生産は増大し、あらゆる商業や手工業「からくり」なども大いに発達し、治安の良い独自の文化を花開かせている。
 過去に江戸時代を封建社会と呼ぶ時代もあったが、江戸の文化の独自性を世界史の中で相対化することは難しく、江戸時代を一つの独立した文化とみる見方も起きている。
 明治維新以後の時代を開く基礎は、江戸時代にすでに醸成(じょうせい)されていたと見るべきである。

 さて、韓国の時代劇で、妓生(キーセン)がお坊さんに向かって「妓生(キーセン)と坊主は、同じ賤民(せんみん)なのに」と毒づく場面があった。
 そして、テレビでは李朝時代、僧はみんなネズミ色の粗末な服を着ていて、日本の僧侶が着ているキンキラの袈裟(けさ)など出ては来ない。
 李朝時代、仏教の僧侶は賤民に落とされ、僧侶自体に孤児(みなしご)も多くいたらしい。

 話は長くなってしまったが、そんな訳で、一度、仏国寺に行きたいと思っていたわけだ。
 李朝時代の530年の間に廃墟にもならずに、現代まで存続した仏国寺というものをこの目で、見てみたかったのである。

 都合の良いことに、韓国実顕地の若いハンギョルのお嫁さんのウンソンの出身地が、慶州(キョンジュ)であり、2月の中旬に里帰りするという予定である。
 車に同伴させてもらい、一緒に連れて行ってもらうことにした。
 今は1月の末、まだ、20日ほど後になる。

 さて、韓国の特講の中で、僕がモンゴルに行ったとき、ウランバートルの農業大学で、中年のおばさんに、モンゴル人に間違われた話をすると、受講生達から「ヤナギさんの顔立ちは、韓国にもたくさんいる」といわれた。
 日本人は、南方系の古モンゴロイド(狩猟採集民族のアイヌ、海洋民族の隼人、沖縄などの先住民族、彫りが深く、鼻が高く、目が二重、体毛が濃い)と、新モンゴロイド(ツングース(東胡)など、鼻が低く、目が一重、体毛が薄い)の交雑種である。

 モンゴル、韓国、日本人の顔がおおかた似ているのもうなずける。
 しかしながら、同じ人種でも、気候は長い間に、目、鼻、口などを変化させるらしい。

 モンゴル人は肉食のためか、男も女もキンニク(?)モリモリであり、寒さのため、目は細く一重であり、凍傷にならないように鼻は低く、発音は寒気を吸い込まないように、「ゴニョ、ゴニョ」と発音するようになったらしい。
 ちなみに、南の暑い東南アジアの人々は、暑いので大気を大量に吸い込む必要があるために、鼻は上を向いて、横に大きく開き、口も大きいと民俗学では定説らしい。
 まあ、本当のことは分からないし、僕の話は、聞きかじりである。

 韓国の女性は、肌が大変綺麗である。
 そして、かの日本女性は、000000のである。

 さて、韓国実顕地の良さは、ひとがみんなやさしいことである。
 次に、食事がおいしい。
 ごはんに、生野菜、大根のキムチ、エゴマの葉のキムチ、白菜のキムチ等々、チジミにナムル、後は適当に魚と肉。肉は赤身で朝鮮の赤い(茶色)韓牛、これもおいしい。

 日本の便秘に悩む、諸兄姉よ。よーく聞け。
 僕の体験上、この組み合わせはすごい。
 良くテレビのコマーシャルで、「ドッサリ」「本当にスゴイんです」と流れている。
 日本にいるときの僕の雲古は、最近、とみに堅くなってきて、なかなか出きらないのだ。
 ところが、この生野菜と発酵食品のキムチ、ごはんと魚、肉のバランス。
 朝晩、2回。まさにドッサリ。それも「一発、ドッと感」がたまらないのだ。

 便秘に悩む諸兄姉よ。韓国実顕地で、便秘治療の実際を学んではどうだろうか。
 当然、仕事つきだが、詳細は、ヤナギ ジュン女子に聞いていただければ、幸いである。
 「モー、余計なこと言って」と叱られそうだが、一体社会の幸福度を上げるためにも、おすすめする次第である。

(2)韓国のお正月−1
 さて、1月28日は、韓国のお正月である。つまり旧暦である。
 モンゴルも中国も韓国も旧暦である。
 以前は、日本が1月1日をお正月とした訳を知っていたように思うが、今は、忘れてしまった。

 昼は、チョゴリを着て、お写真。
 ちょっと、閉口だが、郷に入れば郷に従え。
 「着ないと、かえって目立つよ」のやさしいお言葉に従うことにした。

 僕は、朝に鶏の餌見を済ませ、着替えの部屋に着いた。
 僕は、この年になるまで、ピンクやオレンジの服は着たことがない。
 わが養牛部の「タボさん」「セノオさん」が韓国交流に来た時に、着せてもらったピンクのチョゴリ姿の写真は、何か、恥ずかしそうで、見ていられなかった。

 事前に貸してもらえるように頼んであった渋い伊(ユン)さんのチョゴリは背丈(せたけ)が、合わないので却下(きゃっか)。
 僕のチョゴリは、金色の刺繍の入ったオレンジの上着、下のズボン(?)はアッとおどろくピンク色。
 もう、ジタバタしない。時の過ぎるのを、ただ、待つばかりである。
 家内のジュンは「ワー、チットも、似合わない」とうれしそうに笑う。
 だいたい、「ハゲ」に「オレンジ」なんて、吉本(よしもとしんきげき)でもやらない。ハハッ。

 キ、スキャンさんの後ろに隠れて写真を撮ってもらおうとしたが、キン、サンボさんが「ヤナギさん、すこし右へ、そうそう、もうちょっと右、もうチョットね」流暢(りゅうちょう)な日本語で、指示を出してくる。
 どう考えても、もう逃げる訳にはいかない。10回連写を2回。
 カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
 ゼッタイ「日本のお土産には持って帰らないのだ」

 韓国の一般の正月料理がどのようなものかは知らない。
 韓国実顕地のお正月料理のメニューの一つは、キビで包(くる)んだチョードいい甘さのアンコ。もう一つは、米粉で包んだアンコ。要はお餅の一種。
 キビの餅は、キビの粉に水を加え、良く練って小さく丸めたものを伸ばし、たっぷりの油をしいてフライパンで焼く。熱々のキビの皮にアンコをのせて、真ん中で折って、手前に巻く。その際、皮の端を、素手ならぬ素指で、チョンチョンとつついて、餃子の形にする。
 この「チョン、チョン」がとにかく熱いのだ。しかし、熱いうちに「チョン、チョン」としなければ、餅とアンコは一体にならない。

 今回の特講受講生のテガン(20歳)は、「アッチ、アッチ(かんこくご)」といって、容易に餃子の形にならない。
 見るに見かねて、僕はその「チョン、チョン」をフランスから来て滞在している女の子と一緒になって、「チョン、チョン、チョン」と100ヶばかりつくった。
 かのフランス娘はつよい。「アッチ」とも言わない。
 僕は、はじめに「アッチチッ」と声をあげたが、あとはひたすら我慢。
 ハルモニ(おばあさん)に「ヤナギさん、ジョーズねー」とほめられて、やめられなくなった。
 こういうときは、ニコニコと、楽しげにやるのが亡くなった母の教えです。
 最後まで、「チョン、チョン」やれ「チョン、チョン、チョン」と「アー、熱かった」

 お正月の挨拶は、なぜか僕に回ってきた。
 伊(ユン)さんが、日本に交流にいって不在のためか。理由は、良く分からない。ともかく「華」を持たせてくれたということ。
 「エー、前もって、言ってくれたら、少しは考えたのに」と思ったが、待ったなしである。急には、言葉にならないし、韓国のお正月の挨拶がどんなものなのかを知らない。
 「日本から交流に来ているヤナギです。おめでとうございます」といって、後が続かなかった。まあ、いいか。とした。

(3)韓国のお正月−2
 話は戻る。
 お正月の料理だが、韓牛肉と豚肉と烏賊(いか)のハンバーグ。
 肉と野菜を交互に刺した彩りの良い揚げ物。等々。
 チョゴリを着たまま、里帰りした伊さんの2番目の息子と四方山(よもやま)話をしながら、タップリといただいた。とってもおいしかった。
 韓国実顕地の交流は、お正月がおすすめ。
 お正月の夜は、絶品のイイダコと野菜の炒め物。
 ハルモニが、「イイダコは高いから、お正月しか食べないよ」と教えてくれた。
 イイダコ(おおきめ)のぶつ切りにニンジン、ねぎ、ニンジン、000を辛いみそで、テーブルで焼きながら、熱々を食べる。
 頭のテッペンから汗が吹き出すが、食べ始めると止まらない。
 那須実顕地から交流に来ている増田申子さんは、オデコに汗を浮かべて食べている。
 僕は、右手にステンの箸、左手にティシュの束をもって、オデコをフキフキ。
 「ヤメラレナイ、トマラナイ」という古いコマーシャルを思い出している。

 後日、仁寺洞(インサドン)にいったときに、真っ赤なスープの麺を食べた。
 頭から滴り落ちる汗が、麺の汁にポタポタと落ちる。
 ハゲだから落ちやすいのかは分からないが、ともかくポタポタ落ちる。
 持ち前の貧乏性を発揮して「もったいないから、ともかく食べる」と。「ヒー、辛い」自分の汗を食べたのは、この歳になるまで、初めてである。
 最近は、東南アジアから値段の安い、辛いだけで、質の悪い唐辛子がたくさん輸入されているのだそうで、韓国の社会も、国産の食品か、輸入食品であるのかが、大事な問題になっているのだ。

 また、数年前、樹木希林と元日本民芸館館長・尾久彰三がテレビで紹介した「仁寺洞・骨董の町」は、跡形もなく消えていた。どこか裏の路地にあるのではないかと探したが、短時間では見つからなかった。伊(ユン)さん曰く「あってもみんな偽物だよ」と素っ気ない。
 もともと、骨董を買うお金などないのだから、美術館に行って「国宝級」をみて、目を肥やす以外にないのだと悟ったのである。悟りとは知ること。ただ、知るの中身は深いのだ。

 夜の8時から、お楽しみ会だという。
 部屋で、時間の来るのを待っていると。
 トントンと部屋のドアをたたく音がする。
 開けると、ハンギョルとウンソン夫妻が立っていて、「いいですか」と部屋に入ってきた。
 韓国には、正月には年長の人の部屋に行って、挨拶をする習慣があるのだという。さすが、儒教の国である。
 2人は、正座して前のめりにベターと挨拶してから、立ち上がり、もう一度挨拶をした。
 そして、「一言、頂きたい」ときた。
 今様に云えば、サプライズである。
 「えー、そんな、急に言われたって」と思ったが、それはそれ。
 「今年も、一緒に元気にやりましょう」みたいなことを言った。

 次にキョンスとスイス人のセレナ(美人である)の恋人同士のカップルである。
 キョンスは、この2月に研鑽学校に参加して、村人になりたいという願いを持っている。
 実に初々しい二人である。実はセレナに見とれて、何を話したかを覚えていない。
 たぶん「日本で会いましょう」てなことを言ったとおもう。

 3番目は、一緒に特講の世話係をしたオクヂン(女性)と、一ヶ月前から交際を始めたボーイフレンドの二人。そしてキョンスの妹を合せて3人。
 キョンスの妹に、「僕の挨拶は短くて良かったでしょう」というと、「挨拶はナガーーィ方がいいです」
 「へー、長い方がいいのか」料理が冷めちゃうのにナー。
 「文化って面白いなー」と変に感心した。

 だいたい日本では,挨拶が長いと嫌われる傾向にある。
 たまに、みんなの前で話をすることになると、ほとんどの場合は進行の人から、「短く、短かーく、お願いします」といわれるのだ。
 しかし、若い人が、「一言、お話を」「一言、お言葉を」なんて。
 なんて、いい習慣だろう。うれしくなっちゃう。儒教バンザイである。

 お楽しみ会は、人間双六(すごろく)。全員参加である。
 広間に座布団を四角く並べて、四隅から中心に向けて、さらに座布団を置く。
 裏表で色の違う大きな枕を4つ、サイコロに見立てて、空中に放り投げる。
 出た数で、前に行ったり、戻ったり、オンブしたり、立ったまま相手と手を突き合ったり。実に愉快で、面白い。
 韓国人もスイス人もフランス人もカンボジア人も、そして、子供達も。
 白、黄、黒と人種も入り交じっての人間スゴロク。大いに笑ったのでした。

(4)鳥インフルエンザ
 さて、日本にいる時、韓国の鳥インフルエンザの発生を心配したが、まだ、韓国の実顕地では、発生していない。
 聞くところでは、発生しているのは、ウインドレスの「他の鳥」が入ることが出来ない、隔絶、密閉型鶏舎に発生が多く、平飼いなどの自然に近い鶏舎のところは、現在までは、一件だけの発生らしい。また、韓国の35%の鶏はすでに処分されたという。
 ハンギョルが言うには、「ウインドレスの鶏は、免疫力がなく、体が弱く、インフルエンザに、罹(かか)りやすいのではないか」
 韓国や日本の実顕地でも、発生を聞かないので、「ヤマギシ養鶏の真価が」発揮されたのではないか。「やっぱり、すごい」などと思ってしまう心情があるが、しかし、「他の悲しみを自分の悲しみと思い、自分の喜びが他の喜びになる心境にならない限り・・・」と、すぐに言葉が返ってくる。「ウーム」ということである。

(5)韓国の歴史観
 古いヤマギシの男性会員とお酒を飲む機会があった。
 韓国と日本の歴史について、話が及んだ。
 彼は、「ナラは韓国では国(クニ)」という意味であるとか、伊勢神宮は、渡来人による造営だとかいうことにもふれ、百済や新羅の渡来人が日本をつくったと力説する。
 僕も少し、歴史の勉強をしたので、特に否定もないのだが、どうも、「韓国は、日本の兄貴だぞ」と言いたげである。
 ああ、これが韓国の国民感情の一端なのかと思った。
 「そうです。韓国は兄貴、日本は弟です。仲良くしましょう」
 これで、彼は得心がいったのか、古代史の話は終わってしまった。

 また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の中、誰が本当の英雄かと聞かれ、はたと困った。
 日本という国は、絶対的な英雄というものはいない。
 坂本竜馬もやはり相対的な感じがするのである。

 韓国はどうかと聞くと「高麗をつくった王建、李朝をつくった李成桂です」
 しかし、この王朝を建国した二人は、北から来た遊牧民であると聞いているし、百済の創設者も北の方から来た民族であるという。
 いってみれば侵略者ではないか。となると。
 まあ、「みんな、そうだったのかー。兄弟だったのか−」くらいの歴史認識の方が、すべてに渡って、平和でよろしい。

(6)韓国の市場
 さて、話が前後して、恐縮だが、1月25日。
 この日、朝の作業が終わってから、キ・スキャンさんに、近くの市場に連れて行ってもらった。
 昔の市場は、たくさんの商人とお正月の買い物をするお客でごった返していたが、最近は、店を出す露天商も減っているそうである。
 スーパーで買い物をする人も増えているとのこと。
 正月と秋だけに露店を開くことを許可されている事情では、商売が成り立たなくなってきていることも理由らしい。

 スキャンさんは、僕のはいているズボンは寒そうだと、防寒ズボンを買ってくれた。内側にボアの着いたしっかりした防寒ズボンである。15,000ウオン、日本円にして、ざっと1,500円。「アッ、安い」
 しかし、日常着には、すこし、がさばる。朝の餌見(とっても寒い)の時に履いたら、実に暖かく大助かりである。スキャンさん。ありがとう。
 交流が終わったら、次の人へと韓国実顕地に置いていく所存です。

 話はもどる。
 市場に積まれている魚は、ほとんど冷凍である。
 大きな鉈(なた)みたいな包丁で、振り上げて「ドン、ドン」と切る。
 腹は抜いてあって、お客さんは塊(かたまり)のまま、買っていく。
 魚の種類は分からないが、赤いのやら、青いのやら、黒いのやら。
 また、縦横1,5m位の板状につくった豆菓子を、切れのいい包丁と物差しを使って、
一気に綺麗に同じ大きさに切る。見事である。
 いろいろな豆やゴマ、ピーナッツ、アーモンドを飴でからめてあるのだ。
 僕が味見をして、「美味しい」といったためか、スキャンさんは、おもむろに、大きな袋に、入れ始めた。お店のきれいなオネエサンは、「はい、00000ウオンよ」
 「ハイ、オマケ」とばかりに、ふたつかみほどスキャンさんのビニール袋に入れてくれた。こういうのがなんかうれしい。市場なのだ。

 あたりの屋台は、あん入りお餅、お膳、李朝風の机、おでん、キムチ、たい焼き等々。
 スキャンさんは、「なにか食べる?」声をかけてくれた。
 「ニッポンのオデンと同じよ」
 それではと、なんか肉っぽい。ホルモンかスジ肉みたいに見えておいしいそうである。
 タレをつけて食べるらしい。
 タレをつけて、さあ、「ウッ、なんだコレ、アゲではないか」「アゲのおでんか」
 「ヤナギさん、オイシイですか?」
 「ハー、おいしいです」味はともかく、アッタカイのがごちそうなのである。
 後で知ったが、韓国でオデンといえば、これなのだ。
 そして口直しと行っては、なんだが。
 中に野菜の入った蒸し餃子。なんか旨そうである。「赤い方は辛いよ」とスキャンさん。
 緑色の野菜の入った餃子を食べることにした。
 7つで200円。まずは、一つずつ食べた。「オイシイ。おいしい、美味しーい」
 もう1つはスキャンさん、もう1つはヤナギさん。
 そして、あと残りの2つはヤッパリ、ジュンさんでした。

 さて、なじみのスーパーに入ったスキャンさんは、ワゴンにどんどん食材やら日用品を入れだした。正月に訪問してくる人達の分も含めて、肉やら、何やら、何やら。
 買った品物が多く、スキャンさんの後ろに行列が出来だした。
 エッ、この荷物を3人で分担して、担(かつ)いで、バスに乗って帰るのか。と思ったら。
 「配達シテクレルのよ」と一言。本当に良かった。

 スキャンさんによれば、この市場周辺は、最近、中国から帰ってきた朝鮮族(様々な事情でいろいろな時期に中国に渡った人々)が多くなって、中国食品の店が多くなってきたそうである。
 確かに、中国食品の店が多い。
 市場の中は、雑然として、路地が多く、入り組んでいるし、駐車スペースがない。
 ハングル文字が読めない僕には、洋として、その実態は分からない。
 想像を膨(ふく)らませるも、想像の域を出ないのだ。
 しかし、その想像は面白い。

 昼食は、中国料理店。お店の自慢のチャンジャンミン麺(ジャージャー麺)。
 日本のジャージャー麺とは違い、黒いタレに肉や野菜海鮮食材が入って、とっても美味しい。
 後で聞いた話だが、バレンタインデーに、チョコレートをもらえなかった人が食べるのだともいう。ブラックデーということらしい。

 スキャンさんは、人柄が良い上に、饒舌(じょうぜつ)である。
 バスに乗り合わせた、近所のおばさん、タクシーの運転手、そして僕たち夫婦に、いろいろな話をしてくれる。
 韓国の諸事情が、ナマに入ってくるのが、楽しい。

(7)韓国実顕地の生活
 特講が終わると、痛めていた腰がうずいた。
 一日、休みをもらって、腰に楽な仕事を見つけてもらう。
 「餌見」「選卵」である。
 もうすぐ、産卵に入る大きな雛の当日分の餌見を含めた16棟約270連(部屋)分。
 ハンギョルに20分ほど、餌見の要領を教わった。朝のその時間に残りの餌を見てから、10時半に餌が切れている状態を想像して、量を出す。
 雛は当日、その他は、明日の分である。昨日、今日の分の餌量を決定し、その餌を今日与えたら、明日はどうなっているかを見極めるのだ。
 鶏舎をのぞき、一瞬で決める。面白い。面白いがトッテモ寒い。
 −12℃である。
 手袋の上にもう一枚手袋をしても、ジンジンと冷えてくる。
 左手はA4サイズの書き込み帳、右手はエンピツ。
 防寒服で身体を包んで、防寒靴でドタドタと歩きながら、記帳していく。
 気を許せば、エンピツが手から滑り落ちて、芯が「ポキッ」と折れる。
 折れると事務のところまで行って、「カラカラ」とエンピツ削りをする訳だ。
 何日かして、「そうだ。2本もっていればいいのだ」と気がついた。
 比較的、温暖な日本の冬でも、冬はゼンゼン頭が回らないのだ。
 まして、−12℃の京畿道(キョンギド)。(この日は特別に寒かった)
 僕の頭は、思考停止状態とあいなっているのだ。これは大発見である。
 凍って滑る道を、「アー、また、やってしまった」といいながら、決して、寒さにも、自分の不手際にも腹を立てたりはしない。
 「インデァン、ウソツカナイ」ならぬ「ヤマギシ、ハラタタナイ」である。
 午前8時半、休憩所に入ると、手のしびれがゆるんでくる。
 「ひとの声がする」「温かいインスタントのショウガ湯」が待っていてくれる。
 「ああ、一人ではない。みんながいる」などなど、一人、幸福感にひたる。
 「朝の幸福度、ファースト」

 心がけるのは「餌見のプロ」。3月2日までに、餌見を極めるのだ。僕は。

(9)「アンニョンハセヨー」
 さて、社員の選卵の人達との挨拶は「アンニョンハセヨー」
 僕にはほとんど「ハセヨー」としか聞こえない。
 訳すると「安寧(あんねい)でしたか」=「すこやかでしたか」
 なんと爽(さわ)やかな挨拶ではないか。「ハセヨ−」と聞こえれば「ハセヨー」と答える。

 韓国で放送されたBSのNHKで、どこかのファミレスで始めた挨拶を紹介していた。
 店に入ってきたお客さんに「シアワセー」
 帰りのお客さんには「シアワセニー」だか「シアワセヲ−」と言うのである。
 たぶん韓国籍の人か、韓国で「アンニョンハセヨ−」を聞いた僕みたいな日本人が始めたのではないかと想像すると楽しくなってくる。
 日本に帰る一日前に、たまたま伊(ユン)さんの孫の入学式に参加した。
 校長先生の挨拶は、「初めまして」「こんにちは」でなしに「幸いなれ」「幸せにねー」である。
 子供達の作文からヒントを得て、こういう挨拶にしたという説明もあった。

 韓国の学校は、自主運営でやるところもあちこちにあって、校長先生も父兄達で選ぶ場合もあるという。以上、聞き書きである。
 あまり、日本の教育事情は知らないけれど、日本より民主的ではないのか。
 校長先生から「シアワセニねー」なんていわれたら、幸せになろうと頭にインプットされるのではないか。
 そして、本当の幸せは何かと、ヤマギシの門を敲(たた)くこどもが出るのではないかと、独り「うれしくなったり」するのである。

 話は戻る。
 しかし、休息時間は一変する。
 なにか、ケンカでもしているかのように、声高に、口を尖らせて、「ワー、◇●◇○・・・・・・ミダ」などと、いい出したら止まらない。
 一人が口を開けば、次々に勝手にしゃべり出す。
 まず、主張ありきである。
 「ハンギョル氏(さんの意味)、どうなっているのよ。そんなこといわれたって、わたしたちだって、たいへんなのよ・・・・・」なんて、いっているんだか、いないんだか。
 ともかく、その威勢で、たじたじになってしまう。
 当のハンギョルは、よく話を聞いて、「これでやりましょう」みたいなことをいうと、シュンと静まり、それは、それで、収まるのである。
 まあ、儀式みたいなものであるのか。毎日のように四方から「ワーワー」いっている。

 日本人の典子さんが横に座って通訳してくれるときは、何のことはない、普通の会話であることが分かる。
 まあ、どこの国でも、おばちゃん達は口やかましいのかも知れない。
 エッ、そうです。
 「知れない」で「そうである」とは決して申しておりませんです。ハイ。

(10)トイレと特講
 1月31日、京城の南、水原華城(スオンカソン)という城郭に行った。
 日本の城とは違い、城郭の中に市民の住居がある。中国の城と同じ造りである。
 東西南北に立派な門があり、門の外には市場がある。
 伊さんが、市場の一角に案内した。豚の頭がショウケースに並んでいる。
 以前、藤原新也の「東洋街道」かなにかで、写真を見たことがある。
 その時も、「ゲッ」としたが、今回はナマである。
 「ワッ、オイシソウ」なんて、本当に思うんだろうか。
 家を建てたりするおめでたいときには、豚の頭(ツルツルである)を飾るという。
 口に花をを挿(さ)したりするらしい。これを食うのかと思ったら、当然のごとくに食欲がわかない。
 豚の腸詰めには血を入れるというし、犬の肉が大好きという御仁(ごじん)も韓国には多いという。
 もっとも、中国の南街村ではサソリを頂いたこともあるし、中国人が四つ足で食べないのは椅子だけというし、食文化というのは、僕の想像を超えるのだ。

 話は変わって、この水原(スオン)は、韓国で一番にトイレの近代化、いや現代化に取り組んだところらしい。
 伊さんは、何時になったら韓国は日本みたいなキレイな「トイレ」になるんだろうと思っていた時期があるという。
 水原(スオン)市の時の市長さんが、公衆トイレをきれいにし、かつ音楽をながして、「トイレを清潔に」を掲げて美化啓蒙(けいもう)運動を高らかに歌い上げた。

 公衆トイレのキレイなのにビックリした市民は、こぞって自分の家のトイレを掃除し始めたらしい。
 いろいろな旅行記を読むと、だいたいトイレが汚いとか壊れていたなどの体験記が多い。
 ロンドンの紳士、淑女の傘は、雨のためよりは、窓から放り投げる糞尿を防ぐためだったとか、パリのベルサイユ宮殿にトイレがなかったとか、マ、いろいろであるが、トイレはきれいに越したことはない。
 先日のテレビで、インドの北の奥地で、最近便所がつくられ、女性達が喜んでいる風景が報道された。一部とはいえ、まだ、トイレのない国があるのだと驚いた。

 その昔、韓国で特講が始まって46回目。まだまだ、日本人に対する反感が激しかった頃。
 特講の世話係で来韓した「奥村きみゑさん」は日本から持ってきた、たくさんの雑巾で、特講会場のトイレを、素手で掃除し始めたという。
 ビックリした韓国の特講参加者の日本人の世話係に対する「反感」が「好感」に変わる一瞬であったと書かれてある。
 意図的にやってもこうはならない。きみゑさんの「一体」がそうさせる。
 そして、奥村のおばあちゃんに、近くの巡査が特講会場へ、差し入れに来たともいう。
 また、韓国の特講受講者に、過去に日本人が行った侵略行為を謝ってからでないと、特講が始まらなかった場合もあったという。

 話は変わる。
 この水原華城は、かつて日本で一声を風靡したあの「大長今(チャングム)」のロケ地である。
 武将姿のキャスト達が、一緒に写真に入ってくれる。また、「イ・サン」李朝22代目の王様の建てた別宮であり、祖父に、米びつに入れられて死んだ王、21代目の父親の無念の場所でもある。
 死んだ王の手の10本の指は血だらけで、爪はすべてはがれていたというから悲惨である。

(11)国境と南北対立
 2月9日、北朝鮮との国境にある烏頭山(オドウサン)展望台に、伊(ユン)さんとスキャンさんが一緒に連れて行ってくれた。
 イムジン川を挟んで、国境となっている地域である。河の土手には鉄のフェンスに、鉄条網がぐるぐると巻き付けてあり、所々に迷彩色の見張りの小屋が建っている。
 川岸に沿(そ)っている道路は、広く、いざというときには、戦闘態勢がとれるように
設計されていると聞いた。

 展望台の入り口には、一見、守衛さんのように見えるが、同じ服を着た男達が、緊張した面持ちで僕らを見ている。顔つきは厳しく、緊張感が走る。
 この日は、天気も良く、対岸は手に取るように見える。
 展望台の望遠鏡(無料)から見る対岸の北朝鮮の家々は白亜の3階建てか4階建て、「結構、いい家じゃないか」と思った。対岸の山々は、赤茶けて、木が生えていない。
 説明を受けると、白亜の建物は屋根のないものも多く、韓国側に見せるために作られた建物という。人も住んでいないらしい。
 冬のためか、人影はない。寒さをしのぐために、山の木は、すべて炊き木になったのだろう。

 かつて、ベルリンの壁とこの38度線は、同じ民族が思想上の対立から分断を余儀なくされた双璧として、語られることがあったが、ベルリンの壁は1989年11月に解放された。
 そして、1990年、ドイツは統一された。
 このときの、世界中の喜びとその映像は、今も忘れることが出来ない。
 あれから、27年。
 未だに、この半島の民族統一の悲願は達成されない。

 遠い昔、まだ、僕が少年で東京に住んでいた頃は、政治の季節であった。
 「イムジン川」という歌を、自分たちの未来の社会を思って歌った時代があった。
 「イムジン川 水清く とうとうと流れ 水鳥自由に 群がり 飛び交うよ 我が祖国 南の地 思いは 遙か・・・・・・」
 この歌詞の中に、北朝鮮から南に渡る水鳥が「自由の使者」だという歌詞がある。
 かつて、北朝鮮を「理想の国家」と信じた若者達がいた。
 もう、誰もこの歌を、歌う人はいない。

 この展望台に、展示館がある。北朝鮮の美しい文化遺産、町並みなどが、3Dで見られる。
 また、統一を願って行われた様々な取り組みなどが、映像や文書でわかりやすく展示されている。
 対立する国家が、同民族の相手を非難する展示だろうと思っていた僕は、衝撃をうけた。
 批判の批(ひ)の字もない。豊かな感性を感じたのだ。
 しかし、聞くと、批判の展示から、この展示に変わったには理由があるというのだ。
 朝鮮戦争から65年以上の歳月が流れた。
 最近の韓国の若い人達は、「北朝鮮が統一されたら、あの貧しい人々の面倒をみなければならないとしたら、大変だから、今のままでいいのじゃないか。統一なんかしなくてもいい」と思うらしい。
 時間は、記憶を風化させてしまうのか。
 自分の都合が優先してしまうのか。
 思想信条というものの欠落。

 イムジン閣
 開城(ケソン)につながる鉄橋は、途中まで造られたが、南北統一の象徴となりつつあった開城工業団地が、南北の政府の行き違いからか閉鎖されるのに伴い、工事は中断された。

 李朝時代の女性達のつくった刺繍の美しさは、世界に例をみないといわれている。
 その色使いと繊細さは、様々な日常の品々に生かされている。
 この工場団地でつくられた北朝鮮の女性達がつくる刺繍は伝統的な美しさに満ちていたという。
 工業団地が閉鎖されると、韓国の刺繍の値段は跳ね上がった。
 「セッカク、ハジマッタノニネエ、ザンネンです」とスキャンさんは嘆くのであった。

 そのすぐ横に、かつて南北をつないでいた鉄道の橋桁(はしげた)がある。

 河にかけられた廃墟となった鉄橋
 レンガで作られた橋桁(げた)の上の展示場
 さびてボロボロの機関車
 鉄砲の弾痕が無数に空いている
 流れるのは哀切な演歌
 南北に引き裂かれた家族を思う歌
 かつて1063人の南北の家族が出会えた
 そのときに流れた歌であるという
 さまざまな色に願いをこめて書かれた布
 風雨にさらされ字も読めなくなった布たち
 無数の哀しみが橋の上で風に舞う

 思想はもともとでっち上げである
 宗教ももともとでっち上げである

 人の俗性がでっち上げの中でうごめいている
 早く戦争を終結させるためにつくったものが
 毒ガスやダイナマイト
 そして、増え続ける、行き場のない使用済み核燃料
 なんのために
 なんのために

 1950年、朝鮮戦争のとき、伊さんのおばあさんは平壌(ピョンヤン)に残った。
 そののち、一度も会えなかった。消息も分からない。
 伊さんは、この地に立ち、おばあさんを思って、何度も涙を流したという。

(12)旧正月
 2月14日。本日は旧暦のお正月。
 5穀(こく)ごはん(米、きび、あずき、まめ、もち米)。
 9種類の野菜のナムル(わらび、大根、ずいき、サツマイモのつる、しらやまぎく、干した大根の茎と葉っぱ、ほうれん草、ぺんぺん草、リチッーナを丸く切って干したもの)を、韓国海苔に包んでいただく。
 無病息災を願う昔からの慣習である。
 色の違った野菜を5種類以上いただくというのは、陰陽五行説から来ている。
 ごはんは豆の味を吸って大変美味しい。そして、ナムル。
 この中に最近、春日山愛和館に登場する。リッチーナというカボチャがある。
 ぼくは、てっきり、イタリアあたりの野菜だと思い込んでいたが、韓国の伝統野菜だ。
 ごま油を塗って軽く焼いた「韓国海苔」に、このごはんと9種類のナムルを順番に包んで食べる。
 なにか、スゴイ贅沢をしているように思えてならない。いや、贅沢なのだ。
 それぞれのナムルの味、歯触りがたまらない。ついつい食べてしまう。

 スシローなんかで、皿にのった寿司を食べて「美味しい」などといっているのとは文化の質が全然違うと思ってしまうのだが、でも、しかし、日本に帰ったら、ニッポンの現代食文化、握った寿司でなく、型に入れた米の上に乗せたネタを食べに行くのだ。そうだ。回転寿司、スシローに行くのだ。
 コレはコレ、アレはアレである。

 2月15日。
 極めつきは、日本でいう「福は内、鬼は外」だ。日本で撒くのは煎った大豆。
 そして、年の数だけ豆を食べる。
 韓国では、栗、クルミ、ピーナッツの殻付きを食べる。
 これを歯で「ガリッ」とやって、鬼を驚かして退散させる。
 ただし、栗はナマである。一日、三つナマで食べると健康になるといわれているらしい。
 「栗はナマで食べてはいけない」と日本では言い伝えられているし、食べない。
 そして、食べてみたが美味しくない。ノブ子さんとジュンとヤナギは同意見。
 やっぱり、ホカホカの栗が良いのだ。
 韓国実顕地の人達は、生の栗を美味しそうに食べる。
 文化と味覚は国境を越えるというが、越えない場合もあるのである。
 ちなみに、日本の鬼は2本の角があるが、韓国の鬼は一本。
 そして日本の鬼と違って、韓国の鬼は、可愛いのだとおっしゃるのだ。

(13)キムチチム
 2月18日。
 本日の夕食は、キムチ・チム。ムは発音しないというからチで良いのかと思うが、発音しない「ム」があるというのだから難しいものだ。
 そのキムチ・チム。真っ赤な唐辛子スープの中に、豚肉の角切りと白菜の長いままのキムチ。
 キ・スキャンさん「スープの中の白菜のキムチは長さによって味が違うのよ。
 ごはんに白菜を巻いて食べるのよ。そうそう、ネ、おいしいでしょ」
 白菜のたての繊維のところに赤い唐辛子の筋が入り、白菜はほんのり赤く色づいている。
 LEDの光を受けて、怪しげになまめかしく見える。
 「アッ、オイシイ」辛みと酸味が混ざって、白菜の中のごはんが口の中で一体になって、絶妙な味になるのである。「アー、韓国交流に来て良かった」なんて思うのである。

(14)韓国の実習生
 さて、?・杓(ミン・ピョウ)君、あだ名を木、通称ナム君(春日山でおなじみの男子)が、明日、実顕地をに出発する。
 1年間は専門学校で溶接を学び、その次ぎに兵役に2年行く。
 その後、韓国実顕地で1年実習して、インドに戻り、荒廃した農村でお母さんや妹と養鶏をやりたいのだそうだ。ご多分にもれず、インドの青年も農村を離れる。
 彼の切なる願いは「インドの農村復興」である。
 この日、韓国実顕地の実習生は7人、1月の特講を受けた3人と最近来た韓国の女の子。以前に特講を受けた青年2人、そして、フランス人(黒人)のダニエル。特講を受けていないのは、17歳の女の子とダニエル。
 夜は遅くまで歌ったり、テレビで映画を見たり、懇談したり、お酒を飲んだり。
 実に賑やかで、楽しそうである。
 また、この青年達は、きちんと挨拶が出来るのも好ましい。
 この7人の中で、3月から一人は兵役で、北朝鮮との国境に配属になる。
 また、先日、兵役になると挨拶に来た青年は、海軍であるという。
 今回特講を受けたテガンは、試験がまだであり、卒業と時期が重なるので、応募者が多く、この春は軍隊に入隊出来ないかも知れない。
 また、今回の特講に入って、現在は実習中のセロヨン(男)は、以前、入隊試験を受けたが体重が足りず、不合格になってしまった。
 韓国の社会では就職などで、「君はどこの軍隊であったか」と聞かれるのが常であり、セロヨンは特講の中で「落ちましたというのが、いやだ」と言っていたのを思い出した。
 セロヨンは、痩せてもいるし、華奢(きしゃ)である。
 しかし、細くて、きれいな、長い指をしている。
 素人ながら勉強もしていて、聞く人が5人までなら、上気(あ)がらないらしい。
 彼のピアノは、人柄がでて、優しく繊細である。
 北朝鮮と国境を接し、有事がいつも隣り合わせにある危機感を背に生きていく人々。
 2年という歳月が、韓国の青年達に、どのような心を植え付けていくのか。
 この国のことを、ほとんど知らない僕が、意見をいうのは、憚(はば)かられるのだが、なぜ、この国が中国の一部に組み込まれなかったのかという疑問が僕にはある。

(15)古モンゴロイドと古代文化 
 以前、「アメリカ原住民の一万年前の記憶」という本を読んだ。
 切れ切れになりながらも、なんとか陸地としてつながっていたベーリング海峡の島々を、古モンゴロイドが危険な目に遭いながら、ようやく渡って、カナダの西岸に到着した。
 それから、長い年月をかけて、古モンゴロイドが、カナダからアメリカ大陸を南下した歴史がある。膨大な記憶を口承(こうしょう)し続け、その物語を伝承した。
 一族の中から記憶力の優れた子供を選んで伝承したとある。

 文字を持たなかったアメリカ原住民(インディアン)の一大叙事詩である。
 この手法は、モンゴル民族が「元朝秘史」(口承で約7日はかかるという)を子孫から子孫へと伝承し続けたことともなぜか同じである。

 ベーリング海峡を渡った古モンゴロイドは、その後、北米から南進し、メキシコのアステカ文明、そして、アンデスのインカ帝国を樹立した。一方、太平洋の西の大陸では、モンゴル帝国が現在のロシアや中近東にまで範図を広げた時期でもある。

 「モンゴル帝国をもって、初めて世界史の誕生といえる」
 「ギリシャやエジプトは地方史の域をでない」
 と、最近は、いろいろな先生方がおっしゃる。
 13世紀の地球を俯瞰(ふかん)すれば、環太平洋は、モンゴロイド一色。
 まさに、モンゴロイドの文化が大きく華ひらいていたことになる。
 そして、どれをとっても「人間と自然との調和」を願った文化であることを知ったのである。
 本来、平城京の仏教(南都六宗)は、葬式とは関係がなかったというし、仏教は在来(古モンゴロイド)の土着信仰(シャーマニズム)と融合して発展したという。
 大体、お盆に先祖の魂(たましい)が帰ってくるなどというのは仏教にはない。
 それでも、お盆にお墓参りをして、お施餓鬼(せがき)と称して、お寺で檀家衆が檀家に食事を振る舞ったりする。
 施餓鬼の意味は、「飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会(広辞苑)」つまり、そこで食事を頂く人々は鬼衆であり亡者であることになる。
 ちょと、理屈っぽいか。
 キュウリやナスなどに足をつけたりして、落雁(らくがん)などを仏壇にあげ、数日間、ご焼香をあげる。
 「ご先祖様、また来年お会いしましょう」などといって、いろいろ仏壇に飾ったものを燃やして「あの世」に送るのである。
 うちの宗派は違うという場合もあるかも知れないが、まあ、ご勘弁。

 いろいろ省くと、日本の仏教は、日本古来のシャーマニズムを受け入れて、今の葬式仏教ができあがったといわれている。
 一方、この時代、日本は地方の開拓地主でもあった武士が政権を樹立した鎌倉室町時代である。
 この時代の関東の武士団は、土豪の武装化であり、貴族の荘園制度との軋轢(あつれき)の中で生まれた。彼らは、もともと新羅や高句麗からの渡来人の子孫であり、ある時期まで、名字は一文字(李、韓、朴)であったと書かれてある。

 モンゴルにも韓国にも日本にもシャーマン文化があり、それぞれに、現代社会の中でも生き続けている。そういえば、アメリカ原住民文明、アステカ文明、インカの文明にも、シャーマンは存在していたではないか。なんか面白くなってきたなー。
 今回、訪問した慶州(キョンジュ)の古い町並みにも、家の前に真竹を二本立て、卍のマークを玄関に張っている占い師の家を二軒見た。どのような占いかはわからないが、今も生き続けている。これなども、シャーマンの系譜を物語っているのではなかろうか。

 韓国の宗教信者の内、キリスト教は3割を占める。
 そのうちカソリックが1/3,あとの2/3はプロテスタントであるという。
 調べてみると韓国のプロテスタントは、土着のシャーマニズムを取り入れた構造になっており、韓国の巫堂(ふぞく)(ムーダン)との関係をいう人もいる。
 確かなことは、儒教には生きている間の教えはあっても、死んだあとのことは教えがないので葬式はシャーマニズムで行うとある。葬列の前を行く「泣き女」もこの流れによるものらしい。

 「死んだあとの世界」を持つ宗教と、現世でお祈りをすれば願いが叶えられるといった「現世利益」を併用するプロテスタントは、韓国国民にとって、実に現実的で便利な宗教といえる。
 韓国の何処を走っても、プロテスタントの教会があちこちに建っている。
 現世利益でお願いする度、お布施、いや、献金というのか何というのか、税金のかからないお金が途切れなく入ってくるのだから、実に立派な聖堂が全国に建つのは当然のことである。
 エッ、それがキリスト教などというのはナンセンス。何でもありらしいのだ宗教は。
 コレも、うちは違うという宗派の方には、ご勘弁。
 現世利益は、どこでも流行るのだ。日本にもお金儲けの神様はいっぱいいるじゃありませんか。
 まあ、こういうことが、どこまで本当かは、読者の勉強にまちたいです。

(16)韓国の特講受講者達
 話はかわって、韓国のプロテスタントの神父さんや仏教(禅宗)のお坊さんの指導層が特講を受けに来るのも、現実的に使い物になる考え方や思想がヤマギシズムにあるからで、教会やお寺の立場から、実際の暮らしや考え方を考えていくとヤマギシズムに到着するらしい。

 ヤマギシズムの考えを使って自分たちの布教や実践に使うという構造に韓国社会がなってきている。
 そして、韓国の心ある部分の人々が、特講や研鑽学校を、すでにたくさん受けている事実がある。
 何も、真似しなくたっていいのにとも思うが、見方を変えれば、ヤマギシズムの「一体の考え方」が韓国社会に着々と根付いているとみる見方の方が適切なように思えるのだ。
 だから、もっと特講を磨いて、研鑽学校を磨いて、韓国社会に貢献するのだと考えるのがよろしいのではないか、なんて思ってしまうのだ。

(17)慶州(キョンジュ)
 2月22日、南の慶州(キョンジュ)1000年続いた新羅(シルラ)の都。BC57年〜AD918年。今、1000年“愛”というキャンペーンをやっている。
 今回は、伊(ユン)、スキャン夫妻とヤナギ、ジュン夫婦が一緒に旅することになった。
 以前から、念願であった曹渓宗(華厳宗)「仏国寺(プルグッサ)、石窟庵(ソックラム)」を訪ねる旅だ。予定していたハンギョルの奥さんがつわりのために行けなくなって、急遽(きゅうきょ)お願いして、ご同行を願った。

 伊さんは育ったところが韓国の南の大邸(テグ)。
 高校の先生をしていたときは修学旅行でも、度々訪れた古えの都市(慶州)である。
 季(キ)・スキャンさんは、高校の修学旅行以来、初めてという次第だ。
 伊さんは74歳。運転を交代してあげたいが、国際免許を持たない僕は運転できない。
 いや、有っても、左ハンドルと信号の違いに、すぐにも事故を起こしてしまうに違いない。
 僕は、反射神経が鈍く、頭の動きも年相応に遅いのだ。
 「マー、休み休みしながら、行きましょう」と伊さん。
 韓国諸事情を聞きながら、韓国に根付いた日本文化の話など、いろいろと面白い。
 「高速道路」などなど、そのまま、カーナビやニュースに流れてくる。
 季・スキャンさんは、スマホの辞書を使いながら、伊さんの記憶違いなどをフォローする。
 絶妙のタイミング。その昔、大学の助手をしていたというから手際もいいのかと。
 「オイシイモノ、タベマショウネ」とスキャンの言葉。期待に胸が膨らむ。
 慶州名物は、たくさんのおかずのついた食事。さて、どうなりますか。

(18)慶州博物館
 慶州博物館は、下草をキレイに管理してある丘の手前、朝の9時から夕方の6時まで開館。
 手入れの行き届いた本当にきれいな良く出来た博物館で、入場料は無料である。
 日本は、1,000円に近い金額をとる博物館、美術館が多くなったように思う。
 無料だから、内容がないとか施設が貧弱だとか、そういうモノではない。
 この慶州博物館は、一日いても飽きないのだ。伊さんとは馬が合うのか、ゆっくりと文物を見ながら「アーでもない。コーでもない」と、お互いの知識を合せて、楽しむのだ。
 ところが、ご婦人達は、颯々(さっさ)と見て回り、椅子にちょこんと座ってお待ちかねである。
 伊さんという強い味方がいるので、そう易々(やすやす)とは、足をお二人さんの方には向けないのだ。ヒヒッ。
 慶州で有名な鐘は、ヒビが入っていて、今は敲(たた)けないということであった。
 聖徳大王神鐘(別名エミレの鐘)の下は、半円形の穴が空いている。
 鐘の上には龍に巻かれた円筒があり、鐘を敲くと音は鐘の下の空間にこもる。そして、音は上に向かって流れる。この円筒を抜ける時「音」は、実に優雅に鳴り響くのである。

 このエミレ(おかあさん)の鐘のいわれは、鋳造に何回も失敗した鐘職人の夢枕に仙人が現れ、「幼い少女を生け贄にすれば鐘は完成出来る」と告げた。
 お坊さんが、鐘の寄付を集めているとき、一人の母親が寄付するものが、何もないといって、娘をさしだした。お坊さんは少女を、鐘職人のところへ連れていった。
 鐘職人は、心を鬼にして、少女を、青銅を溶かしている窯の中に入れた。
 鐘は立派につくられたが、その鐘を打ったとき、「エミレ!!(おかあさん)」と悲しい音が鳴ったと言い伝えられている。それ以来、「エミレの鐘」と呼ばれている。
 この謂われは、誤解を恐れてか、博物館の中では、来訪者に知らされていない。
 ただし、韓国の小学生の教科書にはのっていると、日本に帰ってから知った。

 僕は、日本でも鐘の音はずいぶん聞いたように思うが、このような「音」は聴かない。
 こんな鐘の造りは、日本にあるのかどうかは知らないけれど。(この鐘の音は録音で聴いた)
 鐘の装飾に3人の飛天が浮かし彫りになっている。実に優美である。
 顔はたくさんの人々になぜられてか、すでに顔の凹凸はとれて、つるんとしているのだが、全体からその顔の美しさは想像できるのだ。
 また、飛天の姿態の美しさも、これもまたスゴイ。四肢は長くふっくらとしていて品がある。
 鐘の裳裾に鋳造された模様の美しさは譬(たと)えようもない。さすが韓国一といえる鐘である。

 話は変わる。
 慶州は文禄(1952〜1953)・慶長(1957〜1598)の役(豊臣秀吉の遠征)で、壊滅的な破壊を受けた。仏国寺なども、みんな焼かれたらしい。
 残ったのは、礎石と焼けた瓦と何かしらの金属という次第である。
 また、戦争は略奪も生み、朝鮮の陶工は、薩摩、唐津、萩などへ連れ去られ、日本各地の窯業の生みの親となっていくのである。
 このことは、司馬遼太郎の「故郷忘れじがたく候」などの小説にもなっている。
 「朴」姓から「東郷」姓に苗字を変更した家から出た東郷茂徳は、大日本帝国最後の外務大臣であるという。西郷軍に参加した「朴」姓の武人もいたという。
 同じ朴姓の朴・正熙(チャンヒ)は、日本の士官学校を出ているというし、もっとも、朴という姓は、韓国にはゴマンといるから・・・。

 何を言いたいのか分からなくなった。あーそうだ。
 朴・チャンヒは、慶州の出身であり、紀元前57年、新羅のはじめのはじめは6つの村の合議制から生まれたとされる。6人の代表の内の一人は「朴」姓であり。彼は、その子孫であるという。
 伊さんの話では、韓国は同じ名字が多く、「本貫・出身地」によって、その人の系譜が分かるという。
 伊さんの書棚には、伊氏の系図の辞典がある。伊さんは17代前までの先祖が分かるという。
 それぞれの家に、16代前だとか、12代前だとかいう系図があるのだというのは驚きである。
 まして、朴・チャンヒの祖先が、紀元前から分かっているなどというのは世界でも希有である。
 日本では、皇族や神社などの例外を除いて、4代くらい前は分かっている場合もあるが、あまり先祖には関心がない。また、先祖のことを誇れば、疎ましく思われかねないのが現実である。

(19)慶州−1
 さて、話は慶州にもどる。1000年続いた王国。歴代の王の墓は円墳である。
 日本のように堀をつくり、墓守が常時配置されていたという記録はないらしい。
 この円墳は、日本の各地に残る豪族の墓に影響を与えているという。
 日本の各地に残る新羅系の渡来民の族長の墓が小ぶりな円墳であっても不思議はないのである。
 慶州の円墳は、平野の至る所にあり、宮殿の近くにもたくさんある。
 盗掘が出来ないように石を積み上げているのだが、それでも、盗掘は至る所でされているという。
 日本の古墳に比べると、小ぶりであるのも、統治する国の大きさ、人民の多寡、経済力によるのかとも思うが、くるっと回れる程度であるのが好ましい。
 秦の始皇帝陵や明の13陵のような巨大を越えたものは、労働力だけからみても「馬鹿げている」というほかはない。

 アレッ、配布されている韓国語の案内文と日本語の案内文と内容が違うのに気がついた。
 日本の案内文には、慶長の役で消失したとあるが、韓国語は、日本の羽柴秀吉の軍勢によって、すべて焼かれてしまったとある。日本人に対する配慮と、キチンと韓国人に史実を伝えようとする韓国の国内事情が、こんなところにも現れている。
 「そっちはどう書いてあるの?」なんて聞きながら「なールほど」逐一、納得。
 伊さんによれば、朝鮮は外国から過去に900回に及ぶ侵略を受けたという。
 どれをさして、何回目と数えるのか不明だが、北は満州の女真族、契丹、渤海、西は前漢、隋、唐、元、清、日本からの白村江への派兵、文禄、慶長の役等々、中国と日本の朝鮮への侵略は続く、そして、日本の明治政府から始まる富国強兵政策。列強への仲間入りと帝国主義の台頭と朝鮮への侵略。
 アメリカ艦隊とフランスの艦隊からの攻撃等々、朝鮮半島は、様々な歴史の舞台で悲劇の半島となったのである。
 しかし、こういったことは、別のところで触れる。

(19)慶州−2
 慶州の仏国寺の寺院のたたずまい、石組みの華麗さ、三重石塔の美しさ、他に例を見ない多宝塔の姿。
 この仏国寺の三重石塔の姿は、滋賀県近江市の石塔(いしどう)寺で、同型の大きな塔を見ることが出来る。
 初めてこの塔を見たとき、別世界の塔のように思えて、呆然として、しばらく動けなくなって、立ちすくんでしまった。
 あの大きさは、この仏国寺の塔と比べても遜色がない。見事なものである。
 近江は渡来人の多いところだから、近江にあっても不思議はない。それは、渡来人が運んできたのか、どこからか、石を切り出して、韓国から渡来した石工がつくったのか。
 そして、遠い故郷を思う人々が、その集団の心のよりどころとしたのかも知れない。
 石の色も仏国寺の塔と同じように思った。

 また、湖東に百済寺(ひゃくさいじ)という美しい寺があるが、これなども、百済から渡来した人々が寄進して、心のよりどころにしていたと見る方が自然のように思われる。
 
 この仏国寺に2点、日本から返還された石塔などが同じ敷地内に置いてあった。
 どのような経過かは分からないが、返還をするにも、それ相応のご苦労があっただろうに、同胞の行いとして、とてもうれしく思えた。

 さて、韓国で多くの石像の鼻が欠けているのに出会うので、不思議に思っていた。
 「朝鮮では、石像の鼻を削って飲むと「子が授かる」という迷信があるんです」と伊さん
 ふと、中国では、頭のない仏像がたくさんあったことを思い出した。
 時代によって、観念によって、つくられたり、壊されたり、削られたり。
 不妊の女性の必死さを否定する気はもとよりないが、「石像の鼻を削って飲んだら子供が出来る」と、広めた御仁が、鼻を削られた石像をみて、石像彫った彫刻者の心をどう思うのかと。
 複雑な思いをしてしまうのだった。

 長くなった。
 仏国寺といえば、奥の山に石窟庵がある。774年荒い花崗岩を絹のように彫ったといわれ、韓国の仏像の白眉である。
 朝早くに入場した我々4人は、周囲の人を気兼ねすることもなく、じっくりとその姿を拝んだ。
 慶長2年、豊臣秀吉の軍は、この石仏を日本に持ち帰ろうとしたが、その重量に断念したといわれている。
 さてさて、まだまだ、書きたいことはあるのだが、一度、ここで筆を置きたい。

(20)最後に
 韓国実顕地が、第2次世界大戦以降の南北に分断された朝鮮半島の難しい時代を生き抜き、韓国の地で市民権を持って運営されていることがすごいことに思われてきた。
 鳥インフルエンザが蔓延する中、韓国の国家が鳥インフルエンザの防疫の重要拠点として、24時間体制で、実顕地に出入りする車の消毒を実施している事実。
 韓国で平飼い養鶏の先駆者として存在し続けていること。
 今もその心は、韓国の平飼い養鶏の精神や経営の指針として、また技術として、養鶏家の中に活用されている事実。
 特講を含めたヤマギシの考え方が、韓国の社会に少なからず浸透してきている事実を見せてもらった。
 そして、少ない構成メンバーの一人一人が、ヤマギシの考え方の普及に熱い心を持ち続けている姿。
 外国人を含めた実習生を、まるで、我が子のように慈しんでいる姿に心が動くのである。
韓国のみなさん、韓国実顕地のみなさん、ありがとう。
 新たなエネルギーを貰って、これからのヤマギシズム人生を豊かにしていきます。
                              (2017年3月24日)