前進・飛躍の年
前進・飛躍の年
前進・飛躍って何だろう
見直すことができない私
印刷 ⇒ 令和4年4月
◯年間テーマ
前進・飛躍の年
◯4月度テーマ
前進、飛躍って何だろう
見直すことができない私
今年も各実顕地から大潟実顕地へ、中高生男子とお父さん達が送り出され、育苗ハウスのビニール張りが進められてます。
2022年の米作りが始まりました。
前進・飛躍をテーマに数か月やってきた中で、今月は「見直すことができない私」という題材から考えてみてはどうでしょうか。
ゴミ集積場が古くなって、隣に新しいものを建てて、4月1日から使い始めることになった。毎日運研で伝えて、職場や仲良し班に伝えてもらう事になった。現場に表示もするし、あとは口コミでつたわるかな、と思っていたが、その事を知った人から、正式にお知らせしたのか?という話があった。村の中で、何かを伝えるときに、口コミで充分という人と、キチンと公式な文書?を見ないと納得出来ないという人がいることを知った。見直していくってどんなことだろう。
また、養鶏をやっている人たちの集まりがあった時、「ヤマギシ養鶏では鶏の一生を考えて入雛時には一羽ずつ丁寧に抱いてやって床に付けてからそっと放してやります」というのが話題になったそうです。その際に長いこと養鶏に携わった人から、楽園村が開催されるようになってからそういう話がでてきただけで、そんなことはやらなくても良いのではないか、またヒヨコの寝かせもいつも必ず徹底してやるみたいなものも必要ないのではないかということが出され、長年入雛時に大切だと考えてやってきた人にとっては、とても考えられないという話になったそうです。
「見直すことができない私」という事について、問われても出てこない。出てこないあたりが、見直しが出来ない自分そのものだと思う。毎日を暮らすにあたって、大方の事は、昨日と同じように、今日を過ごし明日も過ごす、と思っている。そんな自分だからこそ、研鑽会に出ていろいろな意見を聞いたり、出したり、同じ繰り返しに見える日々の中にこそ動きを作り合い「はっ」とする場面に出会ったことをチャンスにしていけそうです。
けれども、そのような見直し方・気づき方でさえ数十年の実顕地生活で積み上げたもの、当たり前のようにしてきた方式のひとつで、もっとあるかもしれない、全く異った次元での「見直し」というものがあるかもしれない、というところから探っていく、ということもやってみたいです。
そんな機会をとらえ、探り、共に進んでいきましょう。
「研鑽会で、自分のこんなこだわりに気がついた、とよく幸ちゃんは言うね。で、どうするのかって、聞かないね」と。
「こだわりを放して、繰り返さないと考えているよ」とわたし。
すると、「それって、常識的な従来の考え方、見直し方、じゃないか?」と。
これをキッカケに考えてみると。
研鑽会に出て、自分の我執が消えていくことで「ヤマギシズム社会」になっていくと思っていたけれど・・・本当はどうなんだろう?
目的達成の一本道にあるのかなぁ、見直してみたい。
村窓向かいの広場にイスとテーブルが置かれました。
始まりは村づくり研で、「愛和館や和楽から家への帰り道すがら、ちょっと座ってゆっくりしたいなぁ」という呟きから。
思いどおりの軽くて、白いイスとテーブル、緑のテントもついています。
その後の村づくり研から。
呟きを実現しようと動いてくれる人たちにふれて、日頃の自分の思いをどう考えているかを見直せた。
すぐやろう!と動いていくけれど、冷静に知的にすすめていく人があって自分の動きはどうだろうかと見直した。
イスに座って周囲を眺めてみると、普段、一方方向だけみて歩いているのに気が付いた。
さっそく、デイサービスから帰ってくる人とお茶しようと用意する人、周りの草引きをする人、雨模様となればサッと片付ける人、
寄ろうとラインがあればコーヒーやお菓子も寄ってくる、道行く人に声かけて腰かけて話を始める人、話題豊富で盛り上げてくれる人、ひと、ひと。
村づくり研も終わるころ、次は子ども広場の白い藤棚のしたに運ぼうか、と。
私はいろんな人の持ち味とこころを味わって、人と人の繋がりのなかにいる「自分」をほっこりと見直せた。
ちょっとした佇める空間があれば、もっと人と人がふれ合っていけるなぁ、そんな街並みや建物をデザインしてゆきたい。
「まったく異次元の見直し方」って、こんな辺りにあるのかも。
豊里実顕地の村窓前の広場に置かれた白い椅子とテーブル。内部川実顕地からやってきた。
あれは、もらったんじゃなくて、借りたんだってと言ったら、「借りるって、違和感を感じるなぁ。」と言われた。
「イヤ!もらったんじゃないの、借りてるの。」と私。
すると、「実顕地一つで、借りるとか、もらうとかないんじゃないかぁ。しっかり染みついているんだね。」と。
そうだなぁと頭の表面でわかったつもりなのだが、一生懸命言い訳をしたがっている私が可笑しかった。
『見直すことの出来ない私』を発見。
無所有など念頭にない日頃の暮らしぶりを誤魔化したい私。
全く異った次元での見直し が面白そうだ
見直しができない私 を探すのもそう
でも人がやっていくこと
イメージだけど 研学で初めてあった人に自分の生き方
について物申すかんじをきいたこと、あったなあ
世間じゃかんがえられなかった こんなこと
金曜日の村づくり研で、偉そうに言ってしまったかなぁ、と。 そうだ、見直してみよう!と浮かんだ。
ある人が自分を見直して、今度は「はい」と聞いてみようと思うという例題を言った。
ずっと同じテーマがあって、何とかしていきたいという願いが伝わってくる。
が、しっかり腹を立てていながら、形だけやっても見直しにならないだろうと思った。
聴いて、今までだと、その人の取り組むことと黙ってしまう、が、昨日は他人事ではなく私のことに思えた。
どんなことなのか分からないけど、全く異った次元での「見直し」を一緒に探ろうよ、と呼びかけたくなった。
今朝、顔を合わせたら、その人が「幸ちゃんに言ってもらって、考えているよ」と。
あるかもしれない、全く異った次元での「見直し」ってどんなんだろう?
今年も一志G公園に桜が咲き始めました。仲良し班2班では、ホルモン焼きの屋台を出したい人がいて、それに合わせて、粕汁、おでん等、出来るだけで、4/3にやろうとなったよう。
それを受けて、3班でもぜんさいをだそうかとなりました。ところが生活の出発研に出てた3班の人が、その時出された意見を聞いて思った事があり、他の3班の人とも相談して、2班がやる4/3ではなく、4/1にぜんざいは出そうとなった。
はじめそれを聞いた時はどちらでもいいけど。と言ったけど、何かモヤッとしたものも感じていた。それでまた3班で寄った時、ある人から、なんで、4/3じゃないんだ。という発言を聞いた時、思わず、4/1でもいいけど、2班と一緒の方がもっと楽しい。と言ってる自分がいた。
それで、結果的に4/3になったのだけど、何かな?どちらでも良いと思える自分の方がいいんじゃないかみたいな漠然とした考えが、何かこれがいいと思っている自分を縛っている感じがした。