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やさしい社会を作りたいのです


やさしい社会を作りたいのです

   分かり易く、夫婦という最低単位である複数の人間関係で、そこに社会が成り立っているか!身近な人との関係となると好きとか嫌いとかの感情面で捉えることはあっても、何でここで、社会云々が出てくるの?となってしまうのが普通です。

 ヤマギシズム学園の解体、世界中に広まりそうもない実顕地生活様式、提唱された山岸さんの描きとは、ピッタリと合はなくなった?昭和30年当時と時代・世相も違うから云々は当然ありますが、遅ればせながら、ズレがあれば修正し、今の自分たちの考え方・暮らし方も改めていくべきと思えてならないのです。最近、外部との接触機会が増え、話をしてみると、学者に限らず、普通の民間の人達の方が自分より、遥かに前を歩いているなと気付く場面に出くわします。自分もヤマギシ調正機関に参画してあっと言う間に20年を超えてしまいましたが、自分の頭の働きは静止したままだったように思えるのです。

 これからそれはおかしい!と非難の声も覚悟して、心しての問題提起です。(当然、真意が伝わらない場合もありです。)長い前置きその2ですが、決して夫婦の気持ちや意思疎通に類した事柄弁明ではありません。その3、研鑽態度や聴く態度の心理的姿勢と混線させ、あんたの言いたい事はこういうことだろう!と、早とちりしないで欲しいのです。いろんな場面でその実例を紹介し、解説してきたのですが、改めて再現すると、外出先から戻って、最後の坂を上る場面、勢いをつけ走っていると、「ここは20キロ!=体言止め用法」と助手席の妻から強い言葉があって、「そう言う言い方、ないだろう!」と、自覚なしに思わず声に出たが・・・これが紙芝居のストーリーです。

 皆さんがもれなく体験・習得した特請の怒り研を思い出して欲しいのです。果たして、その怒りは相手の言葉に反応したのか、それとも、それを聞いて、自分の頭の中で立ち上がった想念に反応したのか?・・・そうなんです。相手には関係ない自爆現象なんですね。

 どうか「腹の立たない人、云々」の横道に反れないで下さい。相手の言った言葉がそのまま自分の中に入ってくるわけではなく、耳から信号が送られ、その時までに自分に集積された知識経験で構成された頭脳・(観念)でその言語を瞬時に「自分の感覚」で翻訳するのです。それでは「こう言ったから、こう思っている」の物差しを当て、この事例を整理し直すとどうなるか?「ここは20キロ」と相手は言葉を発した後、こちらは勝手に「そう言う・・」と聴いている。「そう言う・・」と翻訳したのはこちらで、“責められている”と受ける側の誤訳です。聴いた言葉とは違う意味で、一方的な言語解釈なのに、なんでそういう言い方しか出来ないんだ。これは明らかに自爆です。相手は「こう・・・」とは言っていないのです。「こう言った・・・」は聞く側の勝手な受け止め方でしかないのです。まして「こう思っているハズ」まで行くと、大変です。 以上が聴くです。本当に聴けているか、表題のそこが社会として成り立っているか?日常的には何の支障もなくやれているのですが、ボタンの掛け違いで通過しているだけで、相手の真意をキチッと受け止める(受容)状態とは違う“やさしい社会”になっていないと思いますがどうですか。

 次に見るです。本当に実際・事実を私は見ているかを実顕地内の生活事例で調べたいのです。狙いはやさしい社会で、このやさしいは「Tender me」のやさしさの意味と少し違います。

 ある人Aさんが、「あなたは場内の一旦停止線で止まらず、そのまま通過した。」とBさんがいる集まりの場で、発言した。この事例で調べたいのは“人の非難中傷”の是非についてではありません。勿論「傷つけないように言葉を選んで云々」に焦点を当てているのでもありません。思い出して欲しいのは、前回つぶやきとされた「愛和館に食べに来ない人としているのは、その人自身の事なのか、捉える側の私が一方的にその人をそう捉えたのか?」の事例です。

 実際、その場面はBさんがそこを通過した。居合わせたAさんはBさんが通過するのを見た。その時Aさんは彼が停止しなかったと思った(判定)。・・・見て、思った(判定)。 果たして、Bさんが止まらなかったのは事実か、それとも止まらなかったと思った、判定したのはAさんの頭の中で起こったことか・・。間違いなく俺はこの目で、彼が停止線を無視して通過したのを見たんだ・・。見たとほとんど同時に判定しているので、愛和館の例より分かりにくいのですが、どうでしょうか。

 自分の中に「自分の判断は正しい、間違っていない」とする強いものを持ったままだとこの事例は分かりにくくなるようです。何も持たない心状態で、冷静にこの場面を振り返ると・・・①目の前をスーと通過するBさんを見た。②ここは一旦停止線を引いた所で止まらなくてはいけない場所、と判断する頭脳の働きがあった。 ③止まらなかったBさんを見たと(思った)。 事実、実際のAさんの行為(現象)として私は①Bさんを見た。②Aさんの頭の中で見たことで反応=頭脳の働きがあった。・・・ここまでの①②と③の止まらなかった“Bさんを見た”が①②と〃実際の事実側のことなのか、Aさんの感覚領域の働きなのか・・・。

 念押しになりますが,ここでは「人間の判断能力の不確かさ」を持ち出さないで、見たのは事実なのか、一方的な感覚領域判断なのかを厳密に整理したいのです。一歩進めて、どこまで見たのか、それは見たと思っただけの事ではないのか・・・です。

 人間の行為、見たり、聴いたり”の実質は耳や目のセンサー反応のことではなく、頭の働き、蓄積された知識などによる頭脳判断=頭で聞いている、見ているのではないでしょうか。

 ここで言うやさしいは、自分の身についていない、外のものを引っ張りださないで、シンプルに分かり易く、ありのまま実際の状態、本当の自分だけ、そのものでやっていく、やれる社会のことです。よくそんな時どうすれば?方法に意識が飛んでいく人が居ますが、そんな無駄なことを考える必要のない社会、法で縛らなくてもよい、敢えて言えば、法では縛れないのが本当の人間で、誰でもそれを願っているのです。やさしい社会はどこにあるのかと問われれば、ここにあると答えたいのです。

鈴木英二 一志実顕地

私にとって、「研鑽の一致点」とは何か

 私にとって、「研鑽の一致点」とは何か最近の事例、一志実顕地で行われた「安全研」に参加しその場の経験から、果たしてこれが「事故のない絶対安全」に繋がっていくのだろうか?と疑問に思えてならない。一般社会で泥沼化している現象、強まるばかりの取締り的な要素、山岸さんの言うハエたたき現象になっていないか、ドンドン罰則的裏面が見え隠れしてきて、うんざり、ガッカリと言った心境です。お断りしますが制度のことではなく、運用についての発言です。 近々、実顕地メンバー対象で予定される安全講習会についてのみんなの“正直な反応”やバンパー擦り傷事故の届出について、押し黙ってしまい、軽く自己申告していく望ましい空気とは違う、裏腹のように変わってきている様に自分は受け取っています。    ここまで書くと、実際に実顕地組織の運営に直接関わっている人への反駁・批判ととられることは当然覚悟しています。その推進する真剣さを理解すればするほど、弁明しても理解されないと思いますが、「どんな実顕地社会にしたいか」を具体的に明言していく材料としては外せないと思うので続けます。

 メンバーの事故に伴う修理費負担について報告した事例で、どこまで行っても①責任の追及ではなく、②本人の自覚を促すことの違いを力説したのですが、焦点は合わないまま曖昧になってしまったのが残念です、青本にある「法で縛らぬ社会へ」、真意は縛れるが縛らないではなく、実際、人間を法で縛ることは本当に出来ないんだ・・という根本がブレていないか・・・です。みんなの事故を減らしていこうとする思いのあまり、・・・・。

 自分が同席した人の事故原因を探っている場面で、「あなたが事故した原因はこれです。」と明言され、「多分そうだと思います」検察庁の自白させられた事例を言っているのではありません、「本人の自覚のないまま」事柄結果についてこうだったとしてしまっては・・・・。

 安全研の真価は「どこまで行っても本人自覚が不可欠です」 本題である表題の「研鑽の一致点」についてです。今まで説明に使わしてもらった安全運転に関する事例の通り、一方的にこうだ・・「正しいのは」これだ。・・・○○と言われたと受け取られない実質、「自ら、これからはここを改善して行こう!」になって初めて研鑽になる。何に一致するのか?みんなの考えや、出された線ではなく、自分に向き合って、本当に自分の本心はどうなって行きたいか?を探って、一致する、納得するです。

 最近の木曜日研で話題になったのが参画請願にある「最も正しくヤマギシズム生活を」としたが、年数経過し、果たして今自分たちはこの「最も正しく」を、如何に運用しているか?になった。  事実の世界では、出来もしない「責任追及と受け取られる」様な動き(正法ではなく逆法)や○○研と称して本人自覚のない=私意尊重されないまま、研鑽の一致点を押し付けることになっていないか・・・さらに常に自分への問い(自分を調べる回路)があるか?これを謙虚に進めていける「見る、聴く」状態になっているか・・・です。3枚目の「見る」の段でも言及したのですが、「研鑽の一致点」や「提案と調整」を運営上不可欠な仕組みとしてやり続けるか、便宜上の仮の姿か質が問われているのではないでしょうか。「鎧」はもう要らない社会にしたいと願っています。

鈴木英二 一志実顕地

 

愛和館に食べに来ない人・・・そんな人は実際にはいないのでは?

 ヤマギシズム生活者にとって愛和館の暮らしは大事な場面であり、できるだけ皆と一緒に食べるべきで、食べに来て欲しいと思っていると、暮らしのあり方に沿わない人で、「食べに来ない人」と一方的に捉え易いのですが、実際の、その人自身は「食べに来ない人」ではなく、家で食事をしている人なのではないでしょうか。そんなの当たり前でしょ!としないで、はっきりさせたいのは、実際のこと=事実なのかです、ほとんど無意識にやっている事ですが、それは事実ではなく、私の捉えた感覚判断領域のことなのではないかを是非もう一度考え、はっきりさせたいのです。

 冷静になって、愛和館以外の他の場面例で、日常的に私達の人の見方・捉え方・判断がいったいどうなっているかを調べてみてはいかがでしょうか?

 例えば①扉を開けっ放しにする人や、②約束時間に遅れてくる人を見て「きちっと戸を閉めない人、遅れてきた人」と決め勝ちですが、愛和館の例と同じで、一方的に判定を下している。その人の実際の事ではなく、私から観たその人の言動ではないかと言うことです。

 その人の実際の「立ち居振る舞い=行為」を事実側の事とすると、①その戸を少し開いた状態にした人であったり、②何かの不都合があって、所定の時間ではない時間に着いたが事実であって、「閉まっていないとか、遅れたとしているのは」私の反応(頭の中で立ち上がった事実とは無関係な認識・感覚でしかない)・・・ここはどうでしょうか。

 

 さて研学に行ってもいないのにと反応されることは覚悟しての発言です。

 研鑽学校Ⅲの狙いになっているようですが、「私自身の中身状態を調べる」ことの大事さを“私の原風景”や“私の中のヤマギシズム”をテーマにし、ヤマギシを妄信する状態になっていないか?を調べ始めています。その成果かどうか、最近、一志の研鑽会の空気も、一人一人の感覚で捉えられた認識・判断を大事にしようとなり始めているように思えます。

 そこでもう一歩を前に進めて、私の中、実際がどうなっているかどうかを探ることが、山岸さんが提唱している研鑽の実質なのではないでしょうか?本当はどうかと・・・先ず私の大本を調べる事なしに、事柄の良し悪しの検討会を続けても、前提が今の私の考えのまま、私の考えは正しいとする物差しのままだとすると、本当はどうか?にならないのではないでしょうか?

 前述の自分の頭の中で立ち上がっただけの内容(感覚認識)を事実として、時には人をこれを根拠に評価したり、妄信しているだけの「ヤマギシズムのあり方」で攻め立てたりしていないだろうか・・・。豊里の高等部男子部の建物が鉄骨むき出し状態にまで解体され、一つの時代の終焉を迎えています。形・現象面は無現象界の顕われにしか過ぎません。

 今、この段階で「ヤマギシズム学園」や「やがて世界中に広がる筈の実顕地」の真価を再考できる資質を持ちえているかどうか問われているのではないでしょうか。

 さあ、皆で愛和館で食べましょうと音頭とっても、それは一時的な現象でしかなく、車の修理提案はきちっと・・・等が脅迫社会、監視社会にしないためにも・・・。

【一志実顕地 鈴木英二】