ある日の「新しい実顕地像を自分が描く」研鑽会で
その夜は毎日研皆勤賞ものの渡辺老夫妻がお休みでした。
階段の手すりにつかまってそろりそろりとのぼってきて、5・6m余りを這ってゆかれます。「這ってまであの年で毎晩出るなんてすごいことだ…」と称賛の声をきき乍ら、少し複雑な気持ちになりました。
車迄、2本の杖をついて豊里の基本研へ、また歩けなくなれば、廊下や畳を這っての研鑽会参加に以前から接していました。しかし、四ツン這いの姿には、身内に感ずるような恥ずかしさに似た思いを抱く時がありました。
「研鑽会が生命なのは判るけど、」そこ迄してまでもは、執心・我執に思える時がある」と感じはじめていたので、一寸整理したくなって、そのままを出しました。
その事に反応しての重山光子さんの話に移っていった時、「非難めいてきこえたかな…でもどう受け取られてもいいや」と、そのことは止めたくなりました。その時、杉本光子さんが「次々と話を派生させないで、和枝さんの話をもう少し聞こうよ」と言い、私も続きを出してゆきました。
他の人が次々と意見を出してくれて「あ、そうか!」とか「やり残したことを伝えたかったのか…」とどんどん入ってきて、思いが変わってゆきました。そして渡辺さん夫妻への自分の見方を見直してゆこうと思えました。出してみて、皆で考えてゆくと、重かったものが、軽く楽になっていました。老蘇交流研での、川口兵衛さんの軽い心境で居られるのが心に残ったと出してみて、言いたかったことがよりはっきりしました。「頑張りでなく、若い者にすべてを委ねてしまう楽さ」だったのだと気づきました。
すると、渡辺さん達へのもろもろの思いが少し白紙に、零位に近づいた様に思えました。終り頃、佐藤元泰さんが入ってきて「自分は研鑽するにはまず零位に立たなくてはと思い込んでいた」を聞いて、そんな風に思ったことはなかったが、素直に思ったことから出し始めたら、皆で考えてゆくうちに零位に近づいてゆくのだなあと思えました。
(春日山実顕地 筒井和枝)
毎日やっている「新しい実顕地像を自分が描く」研鑽会、そして「むら-net」。いろいろな場で自分をあらわす場が用意されてきました。自分がやりやすいところで、出していくことで何か今まで自分と思っていたものが、だいぶ違うように見えてきそうです。出してしまった自分はもう今の自分ではない自分ですし・・・。
思っていることを、素直にそのまま出すことは、今までの私は易しいようで中々出来ませんでした。本人を前にしては勿論、又研鑽の場にいない人に対しても関係する人もあるからとか、そこそこにまとめて出していました。そのくせ、人に対してはあんなふうにイズムに合う様にとまとめなくともいい、そのまま感じたことを出して欲しい、と思うことしばしばでした。
研鑽学校では、係りさんもるし、お互いも、関係面をあまり気にしなくとも良いので、出しやすいと思います。でも、G地内だと身近な毎日なので思うことそのまま出すのにはやはり勇気も居る時があります。木の花ミーチングの中継を時々見ますが、自分の問題点などを話し、それに対して近い人が感じていることそのままをアドバイス?します。私たちも「研鑽」と言う世界に唯一つの素晴らしい心磨きを持っています。 この宝物をもっともっと自由に使いこなせるように練習したいとおもいます。それには、まず思うことを素直にだすことからと思います。
同志 和枝さんへ
集いあって、語り合い 聴きあって こころの世界を、出し合って、いきます。
読んで見てそうだよね。私のそうだよねと100パーセント同じ人はきっといないかも。が最近思うこと。
私のヤマギシズムにとらわれたつもりで考えてる私。
まず零位に立とうとしなければならない私が変じゃとも思う近頃。頭の中の妄想に縛られてるのかな~?
最近の研鑽会楽しそう。私には人が必要なのか。
人と人との間で無我執を味わえる暮らしでありたいです。
研鑽会3に参加します。ルンルン!
ひろ子さん
研学Ⅲに参加ってこと?大勢参加するみたいですね。楽しみです。待ってまあす!
はいそうです。3月7日からの。
待ってていただける人がいるなんて超嬉しいね。
これを読んだら、やっぱり一言でも発しないわけには・・・。
さすが、春日山の毎日研(のことだよね?これはいわゆる。正式名はこれなのですね?)おそるべし。ひとりひとりがなかなかしたたか?だね。そこまで出しあって、更にもう一歩と掘り下げて・・・。
ほんとに、思っていることを素直にそのまま出して、その場にいる人と一緒に考える。それだけのことなんだが、でも奥が深いね。
私も少しは実践しているつもりだけど、ほんとにまだこれからだ。毎日研に先ず毎日出ることも課題だし、日頃の暮らしのなかでも意識していると自分の中に「宿題」はいっぱい出てくる。先ずはそれを場に出すだけでも意味はあると思うが、出しっ放しでなくて、更にどうだろうと、みんなの頭で自分も一緒に考える。それが面白い。まだ始まったばかりだ。これからが楽しみだ。
江田さん 杉です。ご無沙汰してます。
研鑽会で掘り下げていくのは、自分の こころ を開いていく事から始まる
ように想っています。
こころ は 繋がりたくて 繋がりたくて うずうずしているようです。
それを解き放ってやれば、こころの理に沿って研鑽会は本流に向かって、流れ
て行くと想います。
いづれ こころの研鑽会で、見(まめ)えたいですね。
>こころ は 繋がりたくて 繋がりたくて うずうずしているようです。
きっとそうなのでしょうね。それを解き放ってやりさえすればいいのだったら、それなら誰にでもできますね。
ヤマギシズムは何も難しいことはないはずですね。そうでなかったら、全人幸福社会なんて夢のまた夢ですからね。
あと必要なのは、みんなと共にそれをやっていこうとする、私の意志と心だけ、でしょうか?
ん!! そうだと、想う!
そうしてそれは、「愛和の誓いの詩」の精神に
に通じると想います。
日常生活の中で思ったこと感じたことが素直に出せたら楽だろうな。もし、何かがその思いを止めているものがあるとしたらなんだろうか。探ってみると面白いものが見えてくるかも。