みんなが気になる実顕地運営
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家族とは? 血の繋がった家族と一体の仲良し家族
軽さ気軽さ子どもの世界 子ども子どもして遊ぼうよ
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「一体生活とはどんなものだろうか」と、この間テーマにしてくる中から「家族」ということも話題になってきました。
例えば暮らしの中では、お互いに介護をしたり、介護を受けたりすることも増えてきました。介護といっても今までの暮らしがあっての延長にあるわけですから、介護がいる人、介護をする人と線を引けるものでもないでしょう。その人にしかできない一役があり、それぞれの持ち味を引き出し足し合い、発揮しながら共につくっていく暮らしでしょう。
以前から実顕地では「仲良し家族」「大きな家族」「一体家族」などと表現してきました。介護のことに限らず、「家族だったら」「家族としてやっているのだから」というように見たり考えたりすることも一度や二度のことではないでしょう。
ところで、社会との繋がりの中でのいろいろな場面では、その人と血縁の繋がった家族が決めていくことや、手続きしていくことが多いでしょう。また、高齢の親のこととなれば、子どもが親のこれからをどんなふうに考えているか、ということも大きな要素となってくるでしょう。
家族って何だろう。血縁で繋がっている家族と一体の仲良し家族。「家族」とはどのようなことを指していっているのでしょうか。
この生き方へ参画したのは私の自発的自由意志からでした。そんな一人ひとりは、多くの場合それまでは何の繋がりもないまさに「他人同士」ともいえるお互いでした。参画したからといって、お互いに家制度など法で繋がったわけでも、まして血縁で繋がったわけでもないでしょう。
それでもなお「家族」として表現したくなるもの、その言葉へ重ねたいもの、描くものがあるとすれば、私たちはそこに何を見ているのでしょうか。
先月の北条での60.70代研や、50代タイ視察団の様子が、村ネットや各研鑽会から伝わってきます。身軽に気軽に動いては寄って、寄っては動く、そんな流れの中から芽生え育ち始めているものが感じられます。
どこまで研鑽したとしても、知恵でも知識でも本当の本当はわからない私。軽さ気軽さ子どもの世界。子ども子どもして遊ボーヨ。
今年の夏も、楽園村などで多くの子どもたちがこの村にやってきます。
子どもたちも私たち大人も、一緒に明るく元気に夏の暮らし・村の暮らしを味わっていきましょう。
昨日あの「万引き家族」の映画を観てきました。
それこそ血の繫っていない疑似家族(ひとりは血縁のない孫なのかな?)
彼等が家族という形態をとって身を寄せ合って生きている。<万引き>を生業として。
家長のおばあさんの年金と家があってこそ成り立っているのかな?
色濃い情愛とそれぞれが持っている古傷をそっと気遣いながら。
見終わって、なんとなく私の中に違和感が生じた。これってなんだろう?
「家族」って何だろう?そして私達が無造作に使って言い表そうとしている「家族」って何が言いたくって、使っているのだろう?
映画から投げかけられている「家族って?」と私がここで暮らし、日々育んでいる「家族観?」とちょっと違うような気がする。
根底に流れる<金と法律から逃れられない世界>とヤマギシズムの違い?
自分の言葉では言い表せないけど、なんか違うと感じる私の実は何だろう?と考え続けます。
劇中で服役中の彼女が
「おつりがくるくらい、楽しかったから、いいって」というセリフ印象的でした。
私は久々感動したよ。いまだに心に温かいものが残るよ。少しは優しくなれる私がいまだにいるよ。
心の絆が自然と結ばれる喜びが心地良いです。
母さんは81才から84才まで豊里でくらしました
血のつながってない娘に随分愛されていました
けいこちゃんあけみちゃんえりちゃんじゅんこちゃんえっちゃん
なおちゃん、、、、
おわりよければすべてよしと母さんの兄がいっていましたが
その通りだなと思いました
金曜日の村づくり研で、「家族とは?」を出し合っているうちに。
「自分たちの暮らしのなかに、こんな『研鑽会』があることが家族と表現したいことの一つ、かな」みたいに言うひとが。
そうだなぁ~、研鑽会で言いたいことを気兼ねなく出し合って、終わっても、ほのぼのとした気分で、又、寄っていきたくなる。
血の繋がった家族でも、こんな場をつくるのって、なかなか。
どんな人ととも、手をつないで一つの環につなぎ合わされ、溶け合っていける具現方式なんだなぁ、と