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みんなが気になる実顕地運営


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      当たり前に繰り返していることの見直し

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〇当たり前に繰り返していることの見直し

先月のテーマでは、一志での愛和館のメニュー板を無しでやってみての話題で盛りあがりました。しばらくして、やってみてを出し合うといろいろな意見がでたそうで、一週間もすると今まで通りの場所へメニュー板が置かれるように戻っていたそうです。見直してみたが、やっぱりメニュー板があったほうが良い、というところに落ち着いたということでしょうか。

ほとんどの人が、実顕地に来た時点で、メニュー板があって当たり前の暮らしからスタートし、数十年間続けてきたことになります。1週間無しでやってみたところで、今までの方が良かったとなるのは、この例に限らないのではないでしょうか。色々な声があったとしても、そこから更に1週間、1ヶ月と続けてやってみたらどんな感じになっていくのでしょうか。「見直し」といっても、事柄の見直しや、事の良し悪しではないでしょう。まずやってみたことで、感じたことなどから広がっていくこともあるでしょう。それでも、あえてこの実例で考えていきたいところは、変えてみたことが当たり前になるくらいまでやってみることで、初めてみえてくるものがあるのではないか?ということではないでしょうか。

豊里では、生ごみの出し方が話題になっているそうで、そのことに対してのいろいろな意見が、文化展に紹介されています。

その中に「そろそろ『循環』というのも見直したらいいと思う。とりあえず『循環』という言葉をやめたらどうか」という意見があります。

今まで「ヤマギシでの暮らし=循環」といえるくらいに、暮らしの中や私達の意識の中に「循環」ということが大きく、そして当たり前のようにあったのではないでしょうか。「捨てるものは何もありません。全てのものが次へと活かされていきます」という、愛和館の循環コーナーの案内が、ヤマギシとの出会いだった。という人もいることでしょう。

日頃の暮らしの中で、自分が着られなくなった服を衣生活へリサイクルとして出したり、使わなくなったものを豊里の展示場へ運んだりしてきたことも、私は、なぜそうしているのでしょうか。

「循環」「放す」としてやってきたことの中にも、たんに、私が捨てることができなくて先延ばししていることや、人任せにしていること、または、そうするものとしてやっていることもあるのではないでしょうか。自分では捨てることができずに、リサイクルとして出したら結局衣生活の人が処分した話や、展示場が物であふれ返っているという話も聞こえてきます。いつの間にか「循環」や「活かす」ということに、こだわりしばられているのでしょうか?

例えば循環コーナーをゴミステーションへ、愛和館の循環コーナーを残飯コーナーへと名称を変えてみたらどんなふうになっていくのでしょうか??

この間続けて紹介してきた豊里での新しい動きですが、今まで春日山で開催されてきたぴよっこ合宿も11月から豊里でやっていこう、と動き始めました。会員さん達と寄ったり、乳幼児を持つ若いお母さんたちで寄ったりしながら描いているそうです。新しいことを新しい人たちでやっていく姿はたのもしくもあり、楽しみでもあり、暖かく見守りつつも、一緒につくっていきたいです。

また、先月の60.70代研では、参加した人たちから、観音寺の人たちの迎え入れてくれた心意気が伝わってくるものでした。観音寺へ向かうバスの中から楽しく、人に会って嬉しく、寄って楽しく、心がはずみ、満ちていくような1泊2日だったようです。

新しい動きを共につくりながら、実り多き秋にしていきたいです。

実顕地研鑽部