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令和、新時代への幕開け


令和、新時代への幕開け

 

新任で新しくスタート

共にやる

 

印刷 ⇒ 令和2年7月、新時代12
年間テーマ

○令和、新時代への幕開け

 

7月度テーマ

〇新任で新しくスタート

〇共にやる

 

今日から七月、新任に就き新しくスタートです。
先月は、内部川で開催された研鑽学校ⅠSの話題で持ちきりでした。
毎日、村ネットを通して発信される様子を楽しみにしたり、また、それがそれぞれの場で題材となり、研鑽が深まっていく味わいをした人もいるでしょう。村ネットに寄せられた一節を紹介します。

13日のHさんのコメントの『黙っていようか、どうしようかと随分考えて、思い切って出した。』という言葉と、続いて15日の「共にやるってどんな感じかな」のテーマの日に『ふと~~と浮かんで来た。思いを出した事で不思議と自分の中が変わった。硬いものが溶けていくみたいだ。こんな事ってあるんだな。』という感想が心に残った。こうやって一致していくんだ。一つになりあっていくんだなと感じた。そして、迷っていたのにどうして《思い切って出した》のかなと考えてみた。何がそうさせたのか?(中略)
でも出すことによって放すことに繋がり、誰かに味わってもらうことで、その思いが変化する。そして《硬いものが溶けていくみたいだ》に繋がるのではないだろうか?今月のテーマ解説の後半に《「放す」というあたりでもテーマに繋がっていきそうです》とあるが、どんな思いも出してみる、聴いてもらう、味わってもらう。それが放す事に繋がり、そして「一つ」になって行くのでは無いだろうか・・

「共にやるってどんな感じですか?」相手に寄っていこうとする心、通じていこうとするもの、その人の心になってみようとする等、ふとした場面で出てくるどこか潜在的なもの。そんな心の動きを大切にしていきたい反面、それで良しでもなく「共にやる」ってもっともっとないだろうか?と探っていきたいです。「苦手で話ができない人がいる」ということが研鑚会で話題になり、話ができれば共にやれているのか、反対に話ができなければ共にやれていないのだろうか、一つでやるということと関係あるのだろうか。そんな意見も出てきたそうです。
例えば、先ほどの研鑽学校の実例でも出てきた、自分から見て強い人が身近にいる時に「共にやる」とはどんな感じでしょうか。そもそも実顕地や職場に強い人、柱になっている人がいることをどんなふうに捉え観ていくのでしょうか。ある人からは実顕地らしく見えない場合もあるでしょうし、ある人からは頼りに見えることもあるでしょう。今まであまり焦点が当たってこなかった、こんな角度から考えてみても面白いのではないでしょうか。

自動解任中の、銓衡委員会や研鑽会では、今まで持ってきたものを出すことで、新しい自分を発見するような体験をした人もいたそうです。
実顕地の配置を変わって来た人が、大きな実顕地は部門部門で動いているのかなと思っていたが、全然違った。自分の職場は置いてでも急がれている場や適期作業に人が寄っていくことが、日々やれていることに、そこに流れているものを感じた。それが当たり前に思ってきた人にとってもお互いに新鮮な感動を覚えたという話もありました。
職場で、豊富な経験と技術があり長くやってきた人が、配置が変わることがあって、どうなっていくのだろうと思っていたが、新たな動きを作っていくことで新しい職場になっていったという話もあります。
そんな新しい自分、新しい職場、実顕地で今期もスタートしていきたいです。共に村づくりを進めましょう。

実顕地研鑽部