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北海道別海実顕地 交流記


北海道別海実顕地 交流記 ⑤

さて、別海実顕地の様子にも触れたい。
別海実顕地の牛は、一頭あたりの乳量も、乳頭のならびや体型も春日山に比べて、きわめてハイレベルだ。
それでも、母牛の系統的な評価を割り出し、ホルスタインとして残す牛と和牛の子を産ませる牛とをより分けする「ゲノミック評価(遺伝的能力評価)」も取り入れている。
結構一頭あたりの金額もかかるのだが、それはそれ、経営上手な別海実顕地は、経費としてうまく使っている。
ホルスタインにX精液を4割、残りの牛に和牛の移植や和牛の種をつけることで、子牛生産も順調に進んでいる。
また、別海実顕地の社員さんに、軽い知的障害のある人も見受けられるが、仕事の内容や組み合わせで、その人たちが、生き生きと働いているのが垣間見られる。
酪農部の壁に貼ってある、酪農部テーマ「人とともに 牛とともに」ということの現れではないかと思う。そして「地域社会の人と共に」の内容でもある。
西春別から、冨田夫妻が別海に移ってきた。奥さんの洋子さんは料理好きである。
今までに、3回、社員さんの昼食をつくったことがある。大好評であったらしい。
うどんなど、手の込んだものではナイらしいのだが、美味しいらしい。
何時やるか分からないので、ネーミングは「タマニ食堂」というのである。
そういえば「タニタ食堂」ってのが、あったよな。

別海実顕地は、現在、搾乳牛が1000頭、乾乳(分娩を控えて搾乳をしていない牛)が180頭、育成牛が1000頭、売却前の和牛の子牛が000頭、F1の子牛が000頭。牧草地が930haという規模である。
別海実顕地の前身である春別の「北海道試験場」は、
1959年6月、鶏舎建設から始まった。北海道第一回特講が春別駅前の徳心旅館で開催。
同年、7月、山岸会事件、周囲の白眼視の中でもメンバーは苦境に良く耐えた。
1960年5月ホルスタイン12頭ジャージ牛が導入され、32馬力のトラクターが導入された。この時期8世帯25人であった。
1961年1月、第一回北海道話し合い特講(2回目)開催、その後2回開催。
浅野盛治、洞口勇、門脇清信らが一体生活に参画。
1962年、佐貝貞夫、岩崎伴雄、井上勘蔵、菊池法道、金塚庄栄が参画。
営農指導所は、一体生活を認めず、4家族に離農勧告を行った。
1963年、オーストラリアより輸入したジャージ牛種によって伝播されたとする
ブルセラ病で、45頭の乳牛と1500羽の鶏を全部処分した。
1964年、男12名は芦別炭坑へ、女5名は、店員や家政婦として出稼ぎへ。
同年、7月牧草梱包(販売用)が始まる。
同年秋、処分した牛の保証金等でホルスタイン23頭を導入した。
1969年、寺田任、荒木靖、参画する。
中略
1979年度、新酪に移転する前の北海道試験場の規模は、
搾乳牛400頭、牧草地400haであったという。
当時の入植者の「開拓の碑」が春別の地に残っており、
そこには、佐貝貞夫、安井恒平、尾崎淳、吹田豊一、山鳥健一、浅野盛治、門脇清信、
洞口勇、金塚庄榮、菊池法道、岩崎伴雄、井上勘蔵の各氏の名前が刻まれてある。


安井さん、浅野さん、菊池さん以外は鬼籍に入ってしまった。
僕の先輩諸兄であり、その人々のその時代の気概といったものを感じさせてくれた人達である。
新酪は、一世帯あたり50ha、合わせて400haの牧草地から、新酪時代が始まるのである。
上記の人々の多くは内地の実顕地運動の広がりと共に請われて、全国各地の実顕地に配置された。
一例を挙げると、佐貝さんは豊里実顕地やブラジル実顕地にその足跡を残している。
洞口さんは大阪供給所、菊池さんは広島供給所などなど。
ヤマギシだから、個人の顕彰碑などは、あるべくもないが、参画者や会員の人々の心に深くその姿が焼き付けられているに違いない。

別海実顕地での、僕の作業は、草刈りがメインである。牛舎の仕事はGメンバーと社員、実習生でぬかりなく組まれており、治療なども、獣医などのメンバーが揃っている。
であるからして、環境美化とか草刈りなどが、僕のもっぱらの仕事になる。
建物の周囲には、材木だとか壊れた柵やタイヤ、石などが転がっている。
ここで暮らしている人達には「風景」になっているのだろうが、新参者の僕には、
「なぜ、これを片づけないのだろう」と見えるのが「風景になる前」の見え方である。
草を刈りながら、そういったものを片づけるのも僕の仕事である。
しかし、刈っても刈っても、草は限りない。
自由律俳句の俳人である「種田山頭火」の句に
「分け入っても分け入っても青い山」という句がある。
なにか、こころに滲みてくる句である。
「刈っても刈っても青い海」
マキタの4サイクル刈り払い機の燃料タンクに、午前3杯、午後2杯と決めて、
心が折れないように、体調を崩さないようにが、狙いである。
もっとも、風邪を引いてしまったので、失敗その1である。

また、山頭火の名言に「新は必ずしも真ではあるまい。しかし真には常に新がある」
ほんとうのことは、あらたな側面をいつも用意しているのだ。ということかな。
ゆきづまりのない生き方とは、真理、真実に基づいているからとも。
ほんと、ヤマギシズムみたいだ。

種田山頭火といえば、1989年、テレビドラマで「故フランキー堺」が、山頭火を演じた。渥美清の代役であったが、好演し、なかなかの内容だった。
第30回モンテカルロ、テレビ蔡で最優秀男優賞を受賞している。

また、1957年フランキー堺は川島雄三監督の代表作である「幕末太陽傳」に出演し、
この監督の下、精力的な演技で好評を博した。
2009年、「映画人が選ぶオールタイムベスト100」キネマ旬報90周記念で
第4位に選ばれたとある。
池袋の文芸地下(映画館)の暗闇。その頃、まだ、僕は高校生。
ラストシーンで、喀血する主人公が「地獄も極楽もあるもんけえ。おれは、まだまだ生きるんでえ」と走る去る映像を、今でも忘れることが出来ない。
フランキー堺を語るには、この2作かな。
話は草刈りであったはずだが。山頭火の句が出来過ぎなのだ。


9月1日、オーシャンに、美原にあった北試を案内して貰った。
あの「佐貝のおじいちゃん」の囲炉裏(いろり)があったところはどの辺。
食堂は何処、学育は何処、ともう廃墟もなくなった牧草畑を指さすオーシャン。
ボロボロになって、残っているのは、100頭牛舎と子牛の保育舎。

その昔、3月、東京からの夜行列車で青森駅に着き、青函連絡船に乗船し、
北海道の厚床を経て、春別の駅に降り立った自分がいた。
たしか、トラックで迎えに来てくれたが、外灯はなく、真っ黒な闇の中をトラックは走る。
砂利の道は、トラックの助手席の僕の頭を、車の天井にぶつけさせた。
ぼくは、異郷というか異次元空間に飛び込んだように、身を固くした。
建物の前に裸電球がぶら下がり、人が数人見えたとき、「ホッ」としたのを憶えている。

もう、別海交流も終わりに近づいた。今一度、知床半島の突端の車が行けるところまで、
行ってみたいと、オーシャンに頼んだ。
知床岬からみえる羅臼岳、知床五湖の天空の回廊、カムイワッカ滝の景観もいい。

知床半島の西側である。
この滝の先の道路は閉鎖されている。落石が危ない、ヒグマが出没する。
しかし、その先にはテレビで「こら、あっちいけ」と熊を叱る有名なおじさんがいるらしい。


落石の原因は、写真にもある柱状節理、この岩肌を、ワイヤーなどで覆ってあるのは、崩れ出す可能性が高いということだろう。管理の叔父さんに聞くと、全部を覆うには23億円かかるということで、「北海道には、そんな金ないしょ」とおっしゃる。

次は東の突端というか、行けるところまで、「相泊」である。漁港もある。
漁港というのは、なぜか哀愁があって好きなのだ。先日、厚岸でサンマ漁に向かう青く点灯した大型の漁船を観た、もう心が震えてくるのだ。
「とっていいのは写真だけ」「キケン 道なし」この看板の前で写真を撮って貰った。
この先は、昆布の乾し場があるのだという。もう夕暮れ、ここでおしまい
「この男、キケンにつき、触れるべからず」とか書いてあったら面白いのに。

この写真の河の河口には、今、サクラマスが産卵のためにウジャウジャいるそうである
雨が降らないので、水量が足りない、河を遡るタイミングを待っているのだそうだ。
「何でそんなことが、魚に分かるんだろうね」
「ソリャー、もう本能だべさ」とオーシャン。
「9月の10日頃、もう、スゲーのナンのって、また、来たらいいべさ」
と元漁師のおじさんでした。


帰りは温泉、450円に入った。きれいで塩の味はしない。
刺青をしたお客さんが3人いた。なぜか、青く絵は彫ってあるのだが色は入っていない。
「刺青をした人は、ご遠慮願います」なんて貼ってない。
中途なのか、痛いから止めたのか、お金の問題か、聞くわけにも行かないから、そっと絵柄を遠目に見ていた。その昔、どこかの海洋族は、鮫に食べられないように刺青をしたとか、読んだことがある。
「漁師町 000000 クリカラさんと 0000」メモを無くした。
適当に埋めてください。
この日、走行距離325キロ、ぶっとばしのオーシャンでした。

先に書いた知床五湖の天空の回廊、28,1キロまっすぐな天国への道。
北海道ならではの景観である。

北海道別海実顕地 交流記 ④

③のエゾフウロは漢字で書くと「蝦夷風露」というと美和ちゃんが教えてくれた。
風の露とはなかなかのネーミングである。
「ツリガネニンジン」の根はニンジンの形をしているとのこと。
食べられるかどうかは、美和ちゃんも知らないという。
またこの季節は太平洋からの暖かい風をうけて、広い範囲で朝から朝霧になる。
このキリを、「海霧」ウミギリ、カイム、土地の人は「ジリ」と呼ぶという。
別海は昼には晴れるが、釧路は一日中、海霧に覆われることが多いのである


8月21日、本州からの応援を得て、2番草収穫が始まった。
収量は一番草の2分の1という。
牧草収穫には縁がないと思っていたが、加藤晃くんに誘って貰って、
大きな600馬力のハーベスターの運転をする岸上正樹さんに同乗した。
地上から3メートルの高さから見ると、縞状になっている牧草は、
ハーベスターの取り込み口の先に、蛇のように長く伸びている、
6トンのトラックを併走して、集めた牧草をダンプトラックに、
長いシュートをつかいながら、巧みにダンプにおとしいれる。見事である。
お天気に恵まれて、スピードが上がる。目標は550ヘクタール。
後楽園球場のグラウンドの550倍という面積ということになる。
一日、50ヘクタールが目標である。
お天気が良ければ、10日で終わるが、10日続けては身体が持たないという。

集め終わった牧草地に、カラスが群れをなして舞い降りる。
野ねずみやミミズ、モグラなどなど、食べ物をみつけにくるのだ。
牧草畑の隅で、立派な雄のエゾシカを見つけた。


昼のロビーで新聞を読もうとしたら、ヤッサンが、僕の別海交流記②を読んでいて、
「面白いね、これ」この中に会津藩のことが書いてある。
ヤッサンは、福島の生まれである。
「標津に「福住」ってそば屋があるんだけど、そこのニシン蕎麦が美味しい」
「ニシン蕎麦は、京都が本場じゃないの」
「京都守護職の会津藩がニシン蕎麦を広めたの」
「エー、会津って、山の中じゃない」
江戸末期、蝦夷地を幕府は松前藩から取り上げた。
アイヌの人々から搾取していた実態に憂慮し、幕府直轄(ちょっかつ)にしたのである。
その時、ロシアの南下に対応するべく、
野付半島の防備を親藩の会津藩に命じたのではないか。
日本海の北前船から新潟を通って、格安のタンパク源、身欠きニシンが手に入り、
福島県名産の「身欠きニシンの山椒漬け」が出来たのだ。
また、蕎麦の名産地である福島は、熱い蕎麦の上に身欠きニシンを、
のせるという快挙をしたのである。
これは、大発見である。食にこだわる京都人にして、名物になったということになる。
また福島内陸部の名産に「氷頭なます」がある。
サケの頭を「酢〆」にしたなますの一種である。
まあ、実に生活の知恵がうかがわれて、嬉しくなる。
また、海なし県の栃木県に「しもつかれ・下野家礼」という食品がある。
サケの頭を砕いて、それ専用の竹の荒い目の大根おろしで、
荒くおろした大根と混ぜたものをコトコト煮るのか煮ないのか、
「一見、ゲッと胃からもどした食物」のようであるが、
食べ慣れると、食べたくなってしょうがない。
余談である。
またまた、余談。
京都のニシン蕎麦を調べてみると、明治15年「松葉」二代目が考案して売り出したとある。北海道のニシン蕎麦は、遡ること江戸時代に北海道は江差に横山家というニシン漁を生業(なりわい)とする網元が始めたとある。
このニシン蕎麦は、甘く煮付けたニシンというから、京都のニシン蕎麦は、
この系譜らしいのだ、
福島のニシン蕎麦は、先に触れた「山椒漬け」を蕎麦に乗せる。
このことだけを判断すれば、京都のニシン蕎麦のルーツは、江差となる。
幕末の文久6年(1862年)会津藩主:松平容保(かたもり)は京都守護職に就任した。浦賀、エゾ地の警備に当たっていたため、財政は厳しく、任を固辞したが、
家訓に「将軍家を護る」という文面があることを引き合いに出され、
泣く泣く受諾したとある。
「これで、会津は滅びる」と君臣共に肩を抱き合って、慟哭(どうこく)したとある。
この後、京都の警備の為に、新撰組を雇い入れ、蛤御門の変、鳥羽伏見の戦い、
会津戦争・白虎隊の戦い等。
その後、明治2年再興された下北の斗南藩の辛酸へと続くのである。

戊辰戦争(1868年1月~1869年6月)が終わって、15年の月日が流れた。
この時期に、ニシン蕎麦を発案したという「松葉」は京都祇園の南座の隣、
鴨川の河畔にその店を構える。大きな「にしんそば」の看板が河畔からみえる。
うがった見方をすれば、松葉2代目は、会津の人々の蕎麦の食べ方を知っていて、
戊辰戦争のほとぼりが冷めた頃をねらって、「新発売」とやったのではないか。
そして、京都の人々に受け入れやすい味の「江差の味付け」を選んだということではなかろうかと、かってに、実に勝手に推論するのでありました。
調べたが、ヤッサンの京都のニシン蕎麦、会津ルーツ説が見つからない。
誰か知っていたら、教えてね。
そして、標津の「福住」という「蕎麦屋」に、必ず、行きたいとする自分でした。

数日後、やむにやまれず、「標津の福住」に飛び込んだ。
みんな、「ソーメンを食べている」と思ったが、真っ白な蕎麦は「更級(さらしな)風」ということらしい。
ニシン蕎麦のメニューは、見つからない。
番外とおぼしきところに、「にしんそば」の名前を見つけた。
ニシン蕎麦は、熱い汁に蕎麦、そしてニシンの甘露煮という定番である。
「ニシンの甘露煮がどこかしみじみとしていて、郷愁といったものを感じたのでありました」


標津から尾岱沼に向かった。


「尾岱沼の打瀬船」環境保護のため、今でもこの帆掛け船で漁をする。

別海に8月1日に着いて、10日目に窓を開けて寝て、風邪を引いた。
葛根湯、パブロンと飲んでみたが、一向に治らない。
その内、例の軽いぜんそくの状態になった。いつもこのパターンに陥(おちい)る。
咳が止まらない。断続的に咳がでる。鼻水や淡も続いている。
25日(火)別海病院に行った。ぜんそくの吸入薬を処方して貰おうと思ったのである。
受付は3番、受付が終わると、「車で待機してください」といわれた。
それから、1時間半、じっと車で待った。
すると、重装備(コロナ対策)の格好をした看護師さんが来て、体温と血圧を調べた。
PCR検査をされるかとおもったが、別海町には「検査キッド」はないと後で聞いた。
「エッ、モウ三回目だよ」体温36,3度、血圧140。
では、どうぞと通された部屋は、いつもは使っていないという感じ。
窓は、大きく開かれていて、医師一人、重装備の看護師一人。
医師は、おもむろに問診を始めた。
「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
かの、与謝野晶子の短歌である。
「みえけんの風邪のヤナギにふれも見でただひたすらに問診する医師」字余り。
触りたくないんだ。風邪なのに聴診器も使わない、身体の状態をパソコンに入力するのみ
もしや、三重県の風邪引き男が「コロナ」だったら、大変だ。
釧路のコロナも転勤者が持ってきたのだ。
「こんな時期に、他府県のものが風邪でお伺いするなんて、誠に申し訳ありません」
と、ただ、ひたすらに、ごめんなさいをする僕でした。
問診だけした医師は、処方を看護師さんに伝え、「では、無理をしないように」
処方箋も駐車場、会計も駐車場。
「おっかなかったんじゃないのー」田舎町だもの、「お騒がせしました」。
写真のきのこは「たもぎ茸」みそ汁の具に最適。法人前の林のホダ木に生えている。

 

 

 

北海道別海実顕地 交流記 ③

14日(金)、朝の8時集合。別海実顕地のメンバー井上正春さんと6人の女性。
黒坂富子、井口末子、岸上智子、冨田洋子、井上裕美、実習生の土井あさみの各面々。
ついでに誘って貰ったヤナギと合計8人で、ホエール・ウオッチング、 イン羅臼である。


出発時、温度も低く、曇っていた空も、30分もすると「カラッ」と晴れた。
別海実顕地から、海岸線の尾岱だい沼(おだいとう)へ向かい、
海岸線を一路、車で北に2時間程走ると、羅臼ということになる。
天気も良く。絶好の日だと8人は胸を期待にふくらませている。会話も弾む。
羅臼の町が近づいてきた。 正春さんが「今日は、波が高いなー」とつぶやいた。

ふと「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。
天気晴朗なれども、波高し」という一文を思い出した。
日露戦争、対馬沖会戦、作戦参謀・秋山真之(さねゆき)の有名な電文である。

「ルルルルルツ」「ハイ。そうですか。分かりました」「プチ」
「お父さん」「アー、やっぱり」観光船は波が高いので欠航しますとの連絡。
羅臼の案内所に入ってみると、「昼」「午後」の出航はありと出ている。
よくよく聞いてみると、もっと波が高くなるらしい。要するに欠航ということ。


「アッソ、しょうがないわね、さて、どうしましょう」と切り替えが早いのが、
実顕地女子の真骨頂。山を越えて、斜里の方向に行くことになった。
途中の知床峠は、キリで何も見えない、乗用車やオートバイに乗ってきた人達がいる。
這松(はいまつ・背の低い灌木)の群生だけが見える。
ここから、クナシリが見えるはずだが、残念なことになった。


ウトロで美味しい食事を済ませ。網走の方向に走る。
途中、小清水に「Lily・Park」という観光農園があるということで寄ってみた。
入場料500円、案内のおじさんの熱心な勧誘に乗せられ、ゴーカート2台に分乗。
僕と同乗した3人の女性陣、智ちゃん、富ちゃん、末ちゃんが、
おじさんの話に「ククッ」「アハハ」「アハハハ」と応えるものだから、
おじさんは、調子に乗って、
「俺は6人の女と付き合ったが、3番目、25才の時の女がサイコーだったなー」
「今の奥さん」
「そーじゃねーよ、いまのかーちゃんは6番目」
「ネー、この百合は、今、18才くらいだよ、一番、きれいだよ」
「女は18ぐらいが一番きれいだ。ネー、お父さん」
「ソーダ、ソーダ」
「ホラ、お父さんも。そういってるよ」
「この百合は、25才、あぶらがのってきて、イイねー、色っぽいネー」
「ホントウだ、おじさん、キレイダネー」
おじさん、僕たちの「応対」がよっぽど嬉しかったとみえて、
百合の花の花粉「パッパッ」と取って、紫の縞の二輪と、
小さなスコップで、球根のついた苗を「ササッ」と掘って泥を落とし、5本くれた。
「おじさん、モウ5本サービスだ」と言ったら、
入り口近くで、ゴーカートを待っているお客を尻目に、
僕たちを乗せたまま、ゴーカートを走らせて行って、
丘の上の苗の所へ行って、モウ5本くれた。
「ナイショだよ、誰にも言っちゃいけないよ」
「ねえ、お父さん、前にも来たことない。始めてのような気がしないんだ」
「初めてだってば」
「そうかなー、前に会った気がするんだけど」


そーそれは、僕の顔は、何処にもあるような顔ということなのだ。

ちなみに、「イングリッド・バークマン」の「カサブランカ」の開花は、お盆が過ぎてから。
花は未だ蕾(つぼみ)で、真っ白である。

また、おじさんが花粉をつまんで取った理由が、車に乗ってから解った。
花粉を取った百合の花の芳香に、僕のくしゃみが止まらない。
こういう人が、どんなパーセントか知らないが、確実にいるに違いない。

16日、午後、草を刈っていると、オーシャンが、参観に行こうと声をかけてくれた。
まずは、D牛舎と広大な牧草畑、離農した農家が残した廃屋、250町の使えない所有地。
次は、オーシャンの奥さんの美和ちゃんが、
奨(すす)めてくれた根室半島西和田の「和田屯田兵」の資料館である。
根室の屯田兵は、明治19年、第一次220戸、明治21年第二次100戸、
続いて、明治22年120戸。合計440戸2、208人の入植である。
鳥取82,福岡78,石川71,新潟53、、、、、とつづいて、東京1,静岡1,京都1,三重1。とある。明治維新と共に職を失った士族が応募した。

さて、裏日本からの屯田兵の入植が多かったのは、雪や寒さを良く知るからか。
3年間は、玄米が現物支給されたが、その後はなし。
つまり、「3年の間に開墾して、作物をつくり、生計を立てられるようにしなさい」
ということ。
生活用品と簡単な鍬(くわ)、のこぎりなど。
住宅は「木造平屋建て土間と四畳半と六畳のみ。
米には必ずジャガイモを入れて炊くように指導したとある。
屯田兵なので、兵役もあり、軍事訓練も義務づけられた。
管理する役所が移転し、明治28年の日清戦争、同37年、38年の日露の戦争で、
働き手が出征すると、たちまち150戸に減ったとある。
要は、畑作に向かない土地に、肉体労働をしたことがないであろう人々を、
国防の先兵として、根室の地に縛り付けようとした国家戦略ということになる。

開墾のために、森を伐採したが、吹き付ける潮風に作物は育ちが悪いし、肥料もない。
国の奨励した品種は、ことごとく、失敗したとある。
しかし、石川県出身の松浦忠順という人は、本部長の和田正浩に交渉し、牛を5頭入手。艱難辛苦の上、その後の、根室の酪農の基礎をつくったという。
つまり、きちんと事前に、調査して、はっきりとした目的、目標をもって行動する。
こういったことは、すべてに謂えると思う。

このあと、オーシャンは、走古潭(はしりこたん)風蓮湖・春国岱(しゅんくにたい)、茨散沼(ばらさんとう)と盛りだくさんのスケジュールを、時速80キロで走破した。
夕暮れの根室半島、とくと写真をご覧あれ。


さて、夕暮れともなれば、かねて約束の、尾台岱(おだいとう)の温泉「浜の湯」。
これが、極め付きの温泉である。
入浴料、大人450円、中人170円、小人70円
見るからにボロボロ。
中に入ると、石けんなし、シャンプーなし、ボディソープなし、扇風機なし、
キッタネーのだ。
水風呂と温泉の二本立て、温泉は熱いので、お客が水を入れて湯加減を調整する。
「ときどき、水を出シッパナシで、帰る旅行者もいるから、水をかきだして、
温度を調整するのもお客さんだよ」とオーシャン。
オーシャンも、たまに「ほんとに、しょうがない」とか、ぼやきながら、
ぬるいお湯をかきだしているんじゃないかと想像した。
鏡の周囲は、すべて、真っ黒に禿げている。
野天風呂の庭は野生の蕗(ふき)がいっぱい。
ことわり書きに、「台風で道路側の塀が壊れていますが、修理していません」
「エッ、見えちゃうじゃない」
見るからに常連のお客が、風呂桶を片づけたり、
お湯の「コックの締め忘れ」をしめたりする。
ここまでくると、モウ楽しくなっちゃうのだ。
「つげ義春」の漫画を、思い出している。
オーシャンは、回数券までもっていて、特別に、ご愛用の温泉なのだ。
かけ流しで、常時、温泉があふれて、浴室の床はお湯だらけ。これが一番の理由かな。

帰りの車は、近くの「セイコマート」止まる。
オーシャンは、セブンイレブンには決して入らない。
セイコマートは北海道のコンビニなのだ。
北海道を愛するオーシャンは、コンビニはセイコマート、ビールはサッポロ。
外食は、ソバかラーメン。
昼食時、「ヤナギさん、ラーメン食うか」
夕食時、「ヤナギさん、そば食うか」
こういうオーシャンが、好きである。

「浜中の方は、海がきれいだよ」と教えてくれる人がいて、晴れた日をねらって、
朝の草刈りの後、厚床方面に車を走らせた。まず、根室方面に走って、落石方面へ、

その昔、ぼくは、当時の北海道試験場(北試・美原)に、研鑽学校に来ていた。

浅野の盛ちゃんが、一緒に世話係をしてくれたが、研鑽学生の作業時間に、
あちこち、連れ出してくれた。
そのとき、花咲港で、花咲蟹が確か1杯400円だったのを憶えている。
「美味しかった」
今は、料理屋で、半分で3000円ぐらいと聞いた。
「オイ、ヤナギくん、幻の魚・イトーを釣りに行こう」
釣りは、小学生の時、兄と電車に乗って、埼玉まで行った。
そのとき、何が原因か「けんかをして」、それ以来、釣りはやっていない。
釣果は、アメマス一尾。夜、刺身にして一杯やったが、
「鱒は寄生虫がいるんじゃあないの」と
盛ちゃんにいったが、「ワハハ」といって、取り合わなかった。

北海道の川の色は、どんよりとしている。周辺の草の色もモンゴルの川に似ている。
オーシャンは、スコットランドの風景に似ているという人もいる。という。
地球の風景は、緯度によって、似通うということでもある
地図をみると、ピタッと一致するわけではないが、海流やなにかの関係で
そうなるのかもしれないなどと思ったりする。
落石のあとは、初田牛にもどって、浜中をめざす。喉がかわいて、腹も減った。
しかし、頭の中で、どこかにあるはずのセイコマートはどこにもない。
自動販売機を見かけたが、倒れかかっている。
エー、どこにもない。霧多布まで、飲まず、食わずであった。
この日、太平洋岸は、キリが立ちこめ、海岸線のショットはキリがかりである。
食事を済ませ、霧多布岬に入る。辺りは霧に包まれ、何も見えない。


突端の手前に、キャンプ場、バンガローは満室。
3密を防ぎ、家族だけという人達には、うってつけなのかもしれない。
突端につくと、急に晴れて、ツーショット。ウーむ、絵になりますな。
北海道にも、たくさんの灯台があるが、みんな無人、灯火なし、
通信機器の発達で、灯台に位置を知らせて貰う用事がなくなったのである。
「おいら、岬の灯台守よ」の歌も、「なんのこと」といわれる時代になったのである。
しかし、例のモーリシャスのタンカー事故だが、Wi・Fiが入らないからといって
陸にタンカーを近づけたらしいというから、なんとお粗末な話である。

霧多布湿原センターから霧多布方面を遠望すると、湿原を隔ててみえる霧多布岬とそれに連なる2島に、雲がかかっている。「あれは、キリだ」「フーム、なるほど」
キリの多い霧多布は、正式名を「湯沸岬」という。
いつどこで「きりたっぷ」になったか、調べが足りないのか解らなかった。
霧多布湿原は日本で5番目に大きい湿原。
このセンターから、霧多布湿原がどのようなものなのかが、おおよそ分かるのだ。
5月から9月まで、さまざまな花が咲き、「花の湿原」とも呼ばれる。
(ご注意)霧多布湿原センターの2Fのアイスコーヒーの不味かったこと。
なんでも、北海道は美味しいらしいが、これだけはいただけない。
厚岸まで、車を走らせる。海岸線はホントウにきれいである。
厚岸の湿地、琵琶瀬の木道もなかなかのものだ。
写真のピンクは、エゾフウロ。紫はツリガネニンジンである。

根室の牧草地に丸々と太った馬の群れを見た。
趣味で飼っている人もいるというが、大いに太らして、熊本あたりの馬肉になるという。
馬肉といえば長野の馬肉は九州産であるというし、熊本の馬肉の一部は、北海道産ということになる。何かよく分からない。
その昔、東京の荒川区・三ノ輪橋に、馬肉専門店があり、
「さくら肉」の看板が掛けてあった。刺身とすき焼きで食べた記憶がある。
また、かつて、福島の会津坂下というところも、馬肉の産地であった。
新潟の供給の帰りに山盛りで格安の馬刺身定食を食べた記憶がある。
まあ、どうでもいいことなのだけれど。
もう、二番草の牧草収穫が始まる。
三重から応援に、中井伸一・のり子夫妻、遠藤庄一、田名網君のメンバーが別海に来た。

 

 

北海道別海実顕地 交流記 ② 

7月の初旬に、用件、数件を含めての「別海実顕地交流一ヶ月」と声をかけられた。
乳牛の治療やブドウ、梨のこともあったが、「行くと決まれば」「成り立つように」と、さっと動き出すのが、実顕地の特長でもあり、美点でもある。
夏の北海道なんて、夢のようである。
高齢のオーシャンや任ちゃんに会えることを思うと、すごく嬉しくなった。
他にも、顔を見たい人が何人もいるのだ。
7月も後半になって、用件は、「片づいちゃった」と正樹さんから連絡が入った。
「アー、パアになっちゃった」と一瞬思ったが、
「折角の機会だから、行けるようにならないかな」と思い提案した。
「ダメかナー」とも思っていたが、数日後、願いが叶って、行けることになった。

今年の梅雨は長く、7月の31日までずれ込んだ。
果樹の作業は、長雨の晴れ間を狙ってやっていたが、
今年の「仲良し果樹園」の表土はいつもビショビショであった。
ブドウは紫玉、シャインマスカット、ベリーA。梨は愛甘水、幸水、豊水。
幸いに病気にもならず、たわわに実をつけている。
「天気のせいにしない」というのがモットーである。
川添さんが、二宮尊徳は「「明日の天気は、雨か嵐か、知らねども、今日の務めの田草とるかな」と、いっているのだ」」と、よくいっていた。

8月1日、梅雨は明けて、中部国際空港、セントレアは快晴である。
ただし、空港のカウンターは、コロナのためにガラガラである。
僕ひとりに、ジャルのスタッフが三人がかりである。
それでも、釧路行きのジャルは、半数程度の座席は埋まっていた。
8月3日(火)別海は30度の暑さ。別海実顕地の人達は「暑い、暑い」を連発する。
僕の体感温度は、まあ、この程度は当たり前。
三重の春日山は、35度とも36度ともいう。
8日のゆかりちゃんからの電話では、牛の熱中症が発生しているとの報である。
今日は、9日(日)。それ以来、別海には暑い日は来ない。
「もう、暑い日は、あれでお終いかなー」という人がいる、別海の気候風土である。

さて、もともと方向音痴の自分が、この北海道の酪農地帯で、
一人で地図もなしに車で走るという暴挙をしてしまい。
別海町から中標津の方向に走ると6キロ先に別海の看板があるはずと思いこんだ。
3度、標津方面に走ったが、「ナイ、ないのだ」
暗くなって来るし、携帯は電池切れ目前で3%の表示である。オーシャンも出ないし、
裕子さんも出ない。COOPの前の電話ボックスには、電話帳がない。
慌てて、COOPの中に入ると電話帳があった。
しかし、法人の電話は誰もでない。
とうとう、携帯の画面は、電池が切れて、真っ黒になってしまった。
そこで、駐車場にいた近隣に住むと思われる奥さんに
「中標津の方向にあるヤマギシって知っていますか」と聞いた。
すると「根室の方向なら、アルワよ」とおっしゃる。
「ソりゃーちがう、チガウ」「中標津のホウコウです」なんともラチがあかない。
もう、辺りはすっかり、日没、今晩は受け入れの研鑽会もあるし。
そのとき、目に入ってきたのが、タクシーの番号。タクシーなら知っているはず。
「もう、しょうがない。タクシーに先導して貰おう」
「お客さん。根室のホウコウならあるよ」
「エッ、そうなのか。じゃあ、おじさん、ありがとう。もう帰っていいから」
なんて言えない。タクシーに先導して貰って「ハイ、2400円」くやしかったなー。
馬鹿とは思っていたが、「ヤハリ、馬鹿なのでした」

話は変わって、野付半島に車を走らせた。
昔から気になっていた変な形の土地だ。
そして、目の前に、国後島(クナシリ)が確かに見えるはずだ。
そこには、ロシアの人々の生活があるはずなのだ。

曲がった形の半島の内側は潟である。
快晴に、青い海面が映えて、キラキラと語りかけるように見事に美しい。
北の海は晴れ上がって、海面が息づいてみえる。
廃屋や陸に上がった漁船もあって、なんというか、哀愁のある風景なのだ。
電柱が物寂しげに、ズーと並んでいて、
走電線が半島の端から端まで、走っているのだ。

ふと、モンゴルの草原。度々、停電するという、
過去に、赤色ソビエトのつくった一直線の電柱の列を思い出した。

冬は、この海の色は灰色にくすんで、さびれた風景になるだろうと想像を膨らませた。
野付半島の写真は、先の村ネットに送ったので、ごらんあれ。

 

齢(よわい)70才。「好きにしていいよ」といわれたが、そういうわけにはいかない。
朝の4時起床、4時半に富田泰夫さんに車に乗せて貰って、繋ぎ牛舎の別海A牛舎へ。
5時になると、放牧場のロープを外して、待っている牛たちを牛舎に招き入れる。
牛たちは、それぞれに、自分のベッドに向かう。
泰夫(ヤッサン)さんは「みんな、自分のベッドを憶えているから」というが、
実際の牛たちは、ほとんど間違うのだ。
東西を間違う牛もいるので、全頭が無事に収まるには、時間がかかる。
しかし、「お前、こっちじゃないでしょ」と話しかけたりしながらの誘導は面白い。
牛のそば行ったら、足を踏まれないように、後ろ向きになって、鎖につなぐ。
雨の日以外は、夕方に放牧地に出すので、
ほとんど、毎日「ここじゃないでしょ」とやっているわけ。
毎日のように、「あれ、何処に置いたっけ」とやっている自分がいる。
「そうそう、ここに置いたんだった」
乳牛の智恵は3才というから、僕の頭も3才ということになる。

牛の誘導が終わったら、僕だけ、コーヒーを飲んで草刈り。
マー、すごく伸びているのだ。
「何年ぶりかだよ、スラリーを造ってから、刈ったことナイから」とヤッサン。
社員さんに聞いて、使いやすそうな草刈り機を調達した。
草だらけの別海A牛舎は、僕の手で3日かけて、「ブルン、ブルン、チョンチョン」と
実に、きれいになったのである。
あとで知ったが、刈り終えた2メートル先に、スズメ蜂の巣があったと
ヤッサンから聞いた。危なかった。

 

網走に行く用事があるというので、オーシャンと正樹さん、ヤナギの3人で出かけた。
帰りに、監獄博物館に行った。たぶん、廃墟みたいなものだろうと思っていたが、
それは、それは、立派な博物館であった。
もちろん、withコロナのこの時期、マスクと消毒液、3蜜をさけ、人との距離をとりながら、何にも触れず、何にも食べない。

1890年、ロシアの南下政策に備え、北海道の開拓整備を科せられた北海道各地の刑務所は、全国から政治犯、思想犯などの重罪人を集めて、この難局をのり越えようとした。
金子堅太郎、伊藤博文に、「死んだら、米を食べる口が減る」とまでいわれた人達。
クリカラモンモン(刺青)の重罪人も多く、1200人の囚人が網走、旭川間を開削した。
この工事で、網走だけで囚人211人、看守1名が死んだ。

白鳥由栄の脱獄記録もある。緒方拳主演の映画「破獄」はこの人がモデルである。

ベルギーのルーヴァン監獄を真似た構造の獄舎は一カ所の監視所から、
放射状につくられた5棟の監獄棟を、監視できる画期的な構造である。

後に、この道路開削に関わって殉死した人々を、
囚人、看守等の区別なく、埋葬し直し、碑を建てたとある。

また、走る車の中で、硫黄山の硫黄採掘に囚人が狩り出され、硫黄の毒気にあたって、
たくさんの囚人が死んだとオーシャンが教えてくれた。
いやいや、この3人の組み合わせは、空気のようで、無理がないのだ。
しかし、そおと思っているのは。僕だけかも知れないのだが、
吉本隆明のいうところの「関係の絶対性」の理想型。
つまりは「仲良しなのだ」とか言っちゃって。

 

この網走の先、能取(のとろ)岬の西岸は、流氷が押し寄せることで有名である。
阿部さんが、「アノ、ドドーンとくる大波をミナイなんて、アアもったいない」
とおっしゃるので、観に行ったが「ドドーン」ではなくて、
「ザー、ドップン」くらいだった。
季節にもよるし、引き潮、天気にもよる。そりゃそうだナー。
そして、この海の向こう全体の広がりをオホーツク海というのである。

 

8月12日、任ちゃんに中標津の家畜市場につれていってもらった。
その昔、釧路の大楽毛(おたのしげ)の家畜市場に行ったことがある。

「今日は、少なくて2頭だけだよ」といって、
和牛子牛のしっぽのウンコをブラシでけずり、ザッとブラシをかけて、いざ出発。
任ちゃんとのつきあいは古いが、トラックに同乗したのは、始めてだ。
春日山の乳牛が、自家育成を始めて、軌道に乗るまで、
北海道から孕み(妊娠した牛)を長年、運んでくれた。
任ちゃんの酪農の四方山話に、心をうばわれたことを憶えている。

家畜市場に、だんだんに、牛が各地から集められて、所定の場所につながれる。
道東は昨日、33、5度、本日も33度、記録的な暑さだ。

ツナギ姿の任ちゃんは、汗をダラダラと流しながら、競りを待っている。
なじみの酪農家や買い付けの牧場主及び代理人に挨拶をうける。
ニコニコと応対する任ちゃんは「81才」気力旺盛である。
先年、脳梗塞を起こしたが、必死のリハビリで、復帰した。
すこし、右足を引くが、座るより立って居る方が楽なのだと、ズーッと立っている。

10時、市場の開始、特にラッパなど吹かない。子牛が驚くもんね。
子牛市場は、ホルスタインの雌から始まり、次が和牛の子牛。
別海の和牛は60日未満、80キロ、82キロとちょうど良いサイズらしい。
コロナ、お盆。いろいろあって、今の相場は、安いらしい。
「背をまたいで、真ん中にアンテナある道具」が子牛に乗る。発信器である。
皆、競りのボタンをにぎる。
値段が上がり始めて、最後までボタンを押していた人の手に落ちる。
別海の和牛の番が回ってきた。316番。
農協の手落ちで、電光掲示板に子牛の親の名前が出ない。40万円。
317番,どんどん上がる。45万円、ダントツの値段である。
任ちゃんがニヤッと笑う。
和牛の競りがあと数頭のところで、42万円を越える牛が出てきた。
グイグイ上がる。
抜かれるかなと思った。「アー、ととと、44万9千円」
「ウワー、勝った」なんか嬉しくなった。
まあ、買値がついただけのことかも知れないが、なんか気分がいいのだ。
いろいろ面白かったが、長くなるので、あとは、割愛。

 

写真のうち、モノクロの写真は、井口さんが撮ってくれた「僕の顔」
「ヘミングウエイみたい」なんていう人もいて、
そう「老人と海」そーかー、ぼくは老人なのだ。ホッホ。

交流期間は半分過ぎた。今日は、別海の人と一緒にwhalewatchinngなのだ。

羅臼にいくのだ。乞う、ご期待。

 

 

 

 

 

北海道別海実顕地 交流記①

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ずーと、気になっていた野付半島。

哀愁があって、いいです。

冬だったら、さびれた、荒涼としたところってなことを書いたりするのだけれど、

今の季節、送電線も一本だけ、モンゴルの草原の送電線を突如、おもいだしました。

ともかくキレイ。

廃屋も景色。

いいですねー。

春日山実顕地 柳 文夫