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公意行と水戸黄門


研学Ⅱのあと、公意行について考えています。
他から聞いたことを鵜呑みにするだけでなく、理念についても自分で考えられるところまで考えてみようと思って、やってみています。

うちのリッタさんに聞いてみても公意行という言葉はまだ翻訳できてないそうで、確かに公意行の「公」を辞書通りに「public」とすると何かが大きく抜け落ちる気がします。

なにが抜け落ちるかと言うと、水戸黄門の印籠。
「公意であるぞ!」「へへぇ〜」
と言ってみたくなる気分かな。

梶山作

もともと「公(おおやけ)」とは天皇の関係者が公家だったり、幕府が公儀というように「お上」という意味の言葉であったものが、「public」という概念が輸入されたときに「公共」と翻訳された事で、二つの別の概念が私たちの頭の中でくっついてしまっているのではないでしょうか。

もし分けて考えることが可能なら公意行の「公」とはどんな意味でしょう?

そこに権威の後ろ盾を恃む気持ちが混入していては本当の生き方になっていかないのでは?
公共=全人のためであれば「おおやけ」の意味はいらないのか?
しかし、公意行という言葉を初めて知ったときの気持ち、晴れがましく堂々と胸を張って生きていける気持ちは、それなしでは生まれない気がするし・・・。

【豊里実顕地 梶山修】