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実顕地が伸展するには 【2】


私の中のヤマギシズム

実顕地が進展するには 【2】

 それでは、どこが間違っているのか、人は何故今日まで斯くも永きに亘って間違いを正し得なかったのか。
 今日では、最後の革命とされるヤマギシズムが見出され、全人の求めて止まない幸福の姿やその在り方まで解明されてあるが、このヤマギシズムから見ると、今日までの人間社会の間違いやその間違いを生み出す元の考え方の間違いが判然とし、如何に無知であったか、無知から抜け出せないようにしてきたかが観えてくる。

 それは、人間の知能の働きの元となる、ものの見方考え方に決定的な間違いがあることに起因する。ものを見て観察し、認識する、或いは考えて結果を出す。この自分の五感や知識、経験などから感じ、また、考えたことを「こうだ」とするか「こういうことかな」という捉え方をするかで天国に行くか、地獄をさ迷うかに分かれるということです。
そんなバカな!と即応した人は地獄(現世)行きです(笑)。
 この瞬時に決め付けて反応するのはその人の考え方からくるものです。
検べてみるとこんな些細などっちでもいいじゃないかと思われるようなキメツケが因になって様々な間違いに発展していくことが解ります。自分から見てこう見えるから「こうだ」と決め付ける見方考え方をするか、「こうかな」とどこまでいっても人間の考えで決めつけられない理を知って、どこまでも研鑽の余地が残されてあるかどうかが明暗の分かれ目、幸・不幸の分水嶺になっているのです。
 
 山岸さんは、宗教・信仰は百害あって一利なし、と断じていますが、何かをこうと「決め付ける」所から対立が生まれ、自他を別つことになるのです。
「決め付ける考え方」を持ったばっかりに、せっかく人間に備わっている優れた頭脳を幸福に逆行する方向に用いて自らの中に煩悩を生じさせ、社会を混乱させて「百鬼夜行の陰惨な混濁世界」を造りだしているのです。
 今日までの思想や革命で幸福社会を成し得なかったのは、この「決め付け」て持つ考え方や、そこから派生する個々人主義を基盤とした上に築かれたことによる必然の成り行きだったのです。
 「物事を為すには成るように為すことで」と先にも記しましたが、ものの見方考え方の根本にある間違いに気付かないために、成らないように、成らないようにと為していることにも気付かないのでしょう。

 参画者なら誰もが「決め付け」は間違いと考えると思うが、なぜ間違いとするのかといえば、それは理に反した考え方だからといえるのではないだろうか。何かについて反応するのは、それについて自分が思ったこと考えたことであって、事実とは全く別のことである。五感や知識、記憶などを元に思い考えることは推論であり想像であって、それを本当だとするには無理があるのではないだろうか。
 究明するうえで紛らわしいのは、結果が思った通りだったから間違いともいえないと考えがちだが、これは結果がどうかという問題ではなく、思いの段階のものを人間の考えでこうだと決めつけられるものかどうかということである。
 思ったことを「こうだ」と決め付けることは、これが本当だということであり、本当というのは偽りや見せかけでなく、真実・実際のことだから、その物事の一端を自分なりに捉えたことを、ましてや事実と別物の心の中の推論を、これが事実だと有り得ない理に合わないことを言っているということではないだろうか。10人居れば十色の捉え方考え方があるわけで、一つの事実に対して夫々にこれが本当だなどと考えること自体が理に反することではないだろうか。
私にはこう見えた、私はこう思う、私の考えはこうだが本当はどうなのだろうか。のような表現になるのではないだろうか。表現はともかくとして、その思いの中にキメツケがあるかどうかである。
決め付ける考え方を肯定して考えや物事を進めることが種々の間違いを生じる根源の間違いではないだろうか。
 日常の様々なことを進める上で思い違いがあるかも知れないことをこうだと決めて、それを前提にして自分の思ったこと考えたことを本当だとして事に当たるから、思い通りでないことにムッとしたり、カッとして腹を立てたり、嘆いたり、ひとを責めたりと幸福に逆行することを自ら実演して、そういう人達で共演して、百鬼夜行の・・・・・となっていくのです。
 決め付けるから我執が生じ、所有観念や個々人主義が生まれて、元もと一体で成り立っている世界に個別世界を構築し、個々が暴走しないように法律をと発展していくのです。そして新たな問題が起こる毎に新しい囲いを増やして法律で固め、道を通るにも、仕事をするにも、夫婦親子の間でさえも法律の入り込む世の中になっている。
 一体社会なら、どうしようか、こうしようかとどんな時でも心を寄せ合って自分も含めたみんなが良くなるようにとの一点でシンプルに考えてどこまでも心一つでいけるが、法律の要る社会では人の心よりも法律が優先されて、その事柄だけでなく人の心をも分断して、何のために何を為そうとしているのか、考えてみると不思議な世界です。
 ものの見方考え方の元に決め付ける考え方が一つ組み込まれた結果が今日の世界の有様になっているのです。そして、それはそういう見方考え方を持ち続けている私がつくっている世界なのです。

 それでは、この「決め付け」がこの世の明暗を分ける元だとして、これを解決するには、決め付ける考え方を取り除くにはどうするか。方法は色々あるだろうが、方法の前にまず大事なことは、自分自身が「決め付け」を無くしたいかどうか、その必要性をどれだけ感じているかが気付いていく上で大事な要素としてあると思う。それは、実顕地が進展しないのも根本問題である「本当の研鑽」の必要性や「決め付け」を外す必要性を余り感じずに常識観念での「ケンサン」に甘んじていることが大きな原因ではないかと思うからです。
 成るように為すには、成る理を見出して、その必要性や価値の大きさを感じてこそ自らやろうとする気持ちも湧いてきて面白さや成果にもつながる訳で、方法が明示されてあっても自分なりの解釈でやってダメだったで諦めるようでは目的地には行きつかないでしょう。
 
 難解と諦めたり、他の道を求めるということは「ヤマギシズム」の真価を未だ知らないということだと思います。
 また、今の実顕地はダメだという見方もありますが、それもそのはずで、これまで個別社会で生きてきた凡夫の寄り集まりでかつてないものを造ろうということですから、初めから思うように進まないのも想定内としておきましょう。
 イズム生活はどんな段階からでも気付いた時から始めたら、そこから先は事毎により良きを積み重ねて、伸展合適していくだけのいき方になっていくわけですから、過程の現象面に惑わされずに、その真価を探り、これしかない道との確信をもって臨むことだと思います。
 「ヤマギシズム」の急所を捉えるには、養鶏書や実践の書を研鑽会で輪読会を開いて、お互い同志が、徹底的に研鑽し合うことが効果的な方法と思います。これまでも行われてはきましたが、余り成果が上がらないのは、時間的制約や夫々が思いを出し切れないために徹底を欠くことと、研鑽会の進め方が的に向かう進め方になっていないために目的のない話し合いに終始しがちなことがあげられると思う。
 「研鑽」をするには目的があり、また、「研鑽」が成り立つための研鑽態度を必要とします。
研鑽会は、互いに自説を主張して議論するものではなく、囲いのない一体の人となり、相手の言うことも自分の意見も一つになって本当はどうかと検べていくもので、自他の囲いがないからどんな些細なことも心置きなく出し合って、充足感とともに一つの成果を生み出すものだと思う。  

ヤマギシズム生活は研鑽が基本。研鑽が生命線ともいわれる。この研鑽によって日々伸展合適して進んで止まない幸福生活が打ち続く理になっているはずだが、今日の実顕地は停滞が続いて既成観念が相当入り込んでいると思う。
日々生み出される様々な問題は、イズム生活では、共に研鑽して合適するものを見出し、みんなが快適に暮らせる社会をつくり上げていく喜びの元種になるものだと思うのだが、その種を喜びの実りに育て上げていく「研鑽」が機能していないように思う。
 山岸さんは「自分が仕合せになるために、自分の幸せでなしにみんなの幸せを願って、そういう気持ちになって囲いのない一体で繁栄していく社会をつくろう」というようなことを云っていますが、この「研鑽」は、みんなの幸せを願う気持ち、囲いのない一体の中で使われてこそ機能を発揮するものであり、一体の心境になければ本当の研鑽にはならないものだと思う。
 「研鑽」は一体社会用の生活必需用具ではあるが、既成観念では使いこなせないもの。
研鑽する人自身の中に「こうするのが正しい」とするキメツケや「このことは絶対こうしたい」とか「これだけは放したくない」などとらわれや執着心の無いことが肝心で、これがあると自ら研鑽を止めてしまって正しい方向へ進まないばかりか、自他を隔てる囲いが生じて一つに融け合えなくなり、相手の言うことが素直に聴けなかったり、思いを率直に出せないなど、本当を検べる態勢に入れなくなる。
 そして、研鑽会そのものが生気を欠いた形ばかりのものになって、新しいものを見つけ出し伸展していく本来の機能を発揮できず仕舞になると思う。
 また、キメツケや囲いがあると相手の悪い所に目がいきがちで、悪いと思うならそれをみんなの前に出して共に検べて一体の質を高めていったらよいものを、囲いがあるばっかりにその方向へも進めず、研鑽会は面白くないなどとひとのせいにして、自らを省みようとしないのもキメツケ病のせいでしょう。
 
 「ヤマギシズムではこうだ」「いや山岸さんはこう言ってる」「ヤマギシをいう前に本人がどうしたいかだ」等々、「これが本当だ」のオンパレード。既成観念の中に研鑽を取り入れても効果の乏しいことを自覚すべきではないだろうか。
 「研鑽会が生命線」とまで云われる「研鑽」が軽視されているように思う。
 学園育ちの若人に研鑽会は面白くないと言わしめ、研鑽会嫌いになる「研鑽会」を先達の私達が造ってきたことを自覚して、自らの進んできた道を見直し、本当の研鑽会の面白さ、楽しさ、清々しさを手にして次代に引き継いでいきたいものです。 

【豊里実顕地 御所野茂雄】