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なぜヤマギシズム実顕地なのか (3)


    ○未熟未熟の鈍愚生の自分を知る。

    ○受けるばかりのおんぶに抱っこの生活。

    ○実顕地に居りさえすればよい。

    ○それ以外に何もいらないし何もすることはない。

    ○一体観に立つということ。一体とは無我。

    ○その位置から万人と繋がる橋を架ける全人幸福運動

 今、春日山では上のテーマでやっています。
 3月になってこのテーマを研鑽し始めた時に、「なんて温かくて気持ちのよいテーマだろう」と、温泉につかっているような心地よさを感じたのですが、5段目にくると急にお湯から水に変わったような感じで、「この段がなかったらいいのに・・・」と思っていました。

 それを研鑽会で出すと、
「無我になれないと思っているんじゃないの」
とか、
「みんなと共にやりたいというのがあったら、それは無我なんじゃない?」

などと言ってもらって、自分の中の決めつけからテーマをみていると、改めて気づかせてもらいました。

 でも、まだなんとなく残っているものがあったので、基本研でも同じことを出しました。

 そうしたら、ある人が
「僕の中では、無我っていうのは天真爛漫ていう感じだけどなあ。」
と言ったのをきいて、私の中で「無我」のイメージがガラッとと変わりました。

 「研鑽会って、おもしろいなあ」と思います。研鑽会の度に、自分の考えが変わったり、広がったりしていきます。

 このテーマは、私にとっては今のそのままというか、実際そうだというか・・・。

 参画して丸25年が経とうとしていますが、ずっと実顕地にいて、まわりの総てから見守ってもらってきたなあ。特に2段目の「受けるばかりのおんぶに抱っこの生活」というのは、全くそのとおりで、これは私自身が感じるだけではなく、周りの人たちから私をみても、きっとそのままだと言うにちがいありません。

 一昨年の11月に、養鶏法研鑽会の中である人から強く責められたことがありました。辛い時間だったけれど、その人と結んだ心の手は、私からは決して離れなかった実感がありました。「その位置から万人と繋がる橋を架ける全人幸福運動」というのは、そういう一人一人と結んだ心の手が繋がっていくことのような気が今はしていて、このことも、私の中でどんなふうに広がっていくのか楽しみです。

【春日山実顕地 柳順 ・ イラスト諏訪花】