私意尊重とは…
公意行とは…
春日山でやっているテーマを、5月から「むらネット」で紹介してきましたが、8月は次のようなテーマで研鑽していきたいと思います。
私意尊重とは・・・・・
○結局自分がよくなるためからすべて出発している
公意行とは・・・・・
○自由の定義 「個人の意思、考えを曲げないで、行動できる状態」
○もっとも窮屈・不自由だと思っていた中に、真の自由があった
「私意尊重公意行」・・・研鑽学校でも何回も学んできた感じがします。
先日の研鑽会で、
「やりたいと言った自分と、やらないとなった自分が、同じ延長線上でそうなっていくというのではなく、全く異うものなのではないか」
というのが出ました。
一人の人なのに、二重人格とも思えるような異いに焦点があたりました。
自分の中にも二通りあるような感じがします。何だか新しい感覚のような・・・。
右脳で考える私と、左脳で考える私というか・・・。
「最初の私意と、公意とは関係ないのではないかな・・?」
「自分自分と言っている自分とは何なのだろう・・?」
父と母とから生れてきた自分と、地球上の一個の細胞である自分。一個の歯車というか、そのような中で生かされている自分。ヤマギシズムの自然全人一体の見方で、考え行っていこうとするなら、どれが本当の自分なのだろう?
はっきりとは、まだわからないけれど、今までの私の中にあった「私意尊重」とは異った、新しい「私意尊重」が見えてくるような気がして楽しみです。
志方君と公意を見出している時のこと 「ヤマギシの豚について語れる人を送り出してください」ときいた。
そうかーあの人かな、この人かな?・・・待てよ、5月の研学で研鑽したテーマだ!
誰しも豚について語っているのではなく、自分の感じたことを語っているだけ、そこから、零位に立つのは難しいことではなくそのものについて語れないお互いが見出していく、見出し合う、そういうお互いでやっていく。
今まで零位に立つのは難しいと決め付けていた、しかしこの研鑽をやってみて、簡単なんかも?と思えた。
10月に湘南供給所で豚しゃぶ懇談会があります。
そのことで志方君と公意を見出してきました。
志方君とは初めて話しました。
職場では誰を送り出すか公意を見出していくのですが、そのときのそのままの状態を伝えることで(尊重)ひろがっていくなあと思いました。
豊里だけでなく関東の実顕地養豚部からも参加することになり、それも楽しみです。
堺供給所の食事懇談会(豚)は自分が行くことで味わいましたが今回のは、また別のものを味わいました。
一番は志方君とのキャッチボールだったかな。
昨日の基本研での中、私意尊重を出し合っている時、関口さんが前は無農薬にこだわってて、「自分はこう思う」って言ってた時と、今、「こう思うのですが・・・」と言う時の感じの違いを話してくれてたと思います。本人にしか分からない感じの違いだから、こんな感じと言うしかないけど、軽くて心地良い感じときこえました。自分しだいで、人とは愛を通わせ合うようなやりとりばかりになるのかな。そしたら愛ばかりの世界になるか。
尊重できなかった話を、たくさん基本研で出すより、関口さんのような話の方が、何かすすむかな?と思えて、よく耳をかたむけたくなったのです。きいてて気持ち良かったから。
具体的な詳しい辺りはよく分からないけど、「オッ☆」と思って、ふだんから私が時々思ってる辺りに響いてきました。
それは、「私は今はこう思うのですが、」というような出し方、というより、その人の生きる姿勢(無意識の奥にあるような)から涌いてくるものでしょうか。
そんな風に出された話は、膝を乗り出して聴きたくなってきたりしますよね。(はぁとマーク)
今日佐々木さんと「佐々木さん」について語り合いました。
私の感じたことを語っているだけ、佐々木さんについては何も語っていないんだよねー・・・
そんな感じで話ができました。すると今まで言わない方が良いとしていたことが、佐々木さんの口から出てきました。
そうそう私もそう感じていましたよと言いました。
公意を見出そうとしてやってみると、がっちりもっていると思っていたことがそれほどでもなかったんだー、へぇーそうなんだー、といった具合です。
昨日の基本研で「私意尊重」を研鑽した。
例題は高階さんの日曜市の折込チラシのこと。高階さんのコースの活用者さんの新聞店が折込チラシから外されていた。彼はそのことが納得できない。売上が下がる、折角できた繋がりが切れる?(そんなことで切れるのか、、、と言うさびしい思いもある)日曜市の広報担当の波田さんが単にそこが活用者さんのテリトリーだということを知らなかっただけのことで知ったら回復すると思っていたがそうはなりそうもない、、雲行き? 何故かすっきりしない。供給所と日曜市はともにやっていくのではないのか、、、? ざっとこんな話だったでしょうか。 きょうは僕がまな板に乗りましょう、という高階さんの話から始まりました。
高階さんの私意がはっきりしない、
担当者に言いっぱなしでその人の私意が聞けてないんじゃないか?
新聞店の奥さんの私意は?
その人に近づく 添っていくことがなければ、、、
自分の私意と他のひとの私意と同列にならべて、、、
色々出していくうちに出している人の「私意像」が浮かび上がってくる。私ももうひとつはっきりしない。なにか、現場と経営サイドの確執をみているような、、なんて最初は高見の見物でした。
自分の私意と他人(ひと)の私意を同列に並べることができるのだろうか?
尊重ってなんだろう? このまま行くと高階さん苦しそう、、、
そんな中で関口さんが「僕は自分の考えはこうですってだすのが私意尊重だと思っていたけど今はこんなんですがどうですか、、、?みたいな感じかな~」って言ったの。「それってまわりを見回して言ってない?」という声もあったけど、私には変化していく自分を尊重しているように聞こえた。「これってその人が掴む感じだから、、」とすかさず言った京子ちゃんに『ヒット』と思った私。理屈でもなく、理念でもなくなにか解けないものか?
東部養豚部で分娩舎のお母さん豚を見ました 乳が16あって仔豚は14頭育てています
乳腺がきれいにできていて裾の乳も前のほうと同じような大きさです 乳頭も大きい
生時体重は中9頭・小6頭ですがほぼ揃って育っています このお母さん豚について出し合いました
「14頭は多い」「16乳があるからまだ2頭育てられる」
「この日令にしては体重がのってない・小さい」・・・
種豚場を離れて東部できくと全く異う感じが新鮮でした
豚について公意を見出していく拡がりを味わいました
種豚場での飼育が楽しみです
先日Aさんと話して「Bさんとは公意が見い出せないんだねー」と言ってもらった。
そこをやろう!と行動し始めた。やってみると自分がやりたいことがどんどん実現出来ていって行動がまるっきり変わってきた。
Bさんに対してもってるなーと思っていたが「公意を見出す」をやり続けると軽く放せていった。放すとすごく楽!ほんと楽だわBさんの話に耳を傾けるのも実践中、そうしようとする自分が心地よい。
先日会食の間 和(なごみ)で食事しました。
自分なんかが・・とか、昔の経験とかいろいろでてきたけど、ただただ尊重でやってみようと思いました。
食の人に声かけたら「使ってくれるんだね」と。
丁寧に使い方も伝えてもらいました。
やってみて楽しいひとときを過ごせました。
自分なんかが・・そこを放して先ずやってみようとなったのが大きいかな。
結局自分のためにやったのね。
『私意尊重とは、結局自分がよくなるためからすべて出発している』基本研で、この例は?と出した。
食生活からワゴンの修理提案があった。どうやるかなあと眺めているうちに時間経過。恵理ちゃんから「早く直して、使いたいんだから」「うーん、ちょっと難しいんだ」「早く、和みの間で使うの」よーし、やってみるかと気が入ってきて「恵理ちゃんの私意を尊重しよう」と言った。
基本研では、ワゴンが修理されることも、幸ちゃんが難しいと私意が出せたこともよくなるため、それ以上にやりたい気持ちが引き出されたことが大きいとか出された。確かに私意尊重って結局自分がよくなるためかも、と納得。
が、実は「恵理ちゃんの私意を尊重しよう」と言ったら「で、いつ公意行になるの」とタタミかけ、ズシっと。やっぱ自信ないなあ~、どうしよう。ホ!(^^)!私はこの私意を尊重しよう。明日、建設の建築部門で公意を見出そう。で、私のやれる方法が見つかる。
結果、とんとんとん。今朝、ワゴンは恵理ちゃんのもとへ。研鑽会から3日目。
恵理ちゃんの徹底した「自己中」、私もあきらめずに私意を尊重し続けた。爽快だあ。
自分は恵理ちゃんの食を思う徹底した「自己中」に賛同というか、研鑽になっていく大きな要素でないかと注目している。
何故か、まず、自分の私意を捉えるってなかなかであり、更にそれを尊重するってことは自分から眼を逸らさないってことに思う。
先日、窓口に入ってほしいと言われた。へ、私?という思いがよぎったのだけど、ま、ちょっと頑張ったらやれないこともないし~
「いいよ」と答えてから、さて、私の私意は何かなと考えが向いてきた。 担当部門でもっと仲良く話し合ってほしいな、というのが本意。今までは、しょうがないなあ、頼まれ易い私だし、私が入って済むならイイかと曲げてきた。
今日はそのまま私意を出してみた。「も少し話合ってみて」ついでに「そこが一番やりたいことなんでないの。」ポンと肩をたたいてしまった。 聞いた彼女は研学Ⅲの二つのこころを私に感じたらしい。実は私も似た感触があった。
日頃は軽く出して受けて、流れるような暮らしがしたい、これは「心情」かな。それと異って、みんなが(自分が)よくなるためから湧いてくるようなものを「私意」と呼びたくなってきた。それを尊重するには徹底して「自己中」自分から眼を逸らさないことかな。
先日ある研鑽会で、食生活部のなな瀬さんが「今年は鰻は出さへんから。」と言いました。
その時迄すっかり鰻のことを忘れていたのに、それを聞いた途端「えっ、何で~?」という言葉が私の口から出ました。
決済は食生活部に任せていましたが、どこか「夏の終わりには鰻は出るだろう・・」と、自分の中で決めていたのですね。でも考えてみたら、「おいしい鰻を食べたい」という私の私意は充分出してあったし、尊重してもらった感じもしています。
私意の延長線上に公意は存在しないとしたら、「あ、今年は鰻は出ないのだな」てなもんです。(^-^)v
たかが鰻だから、こんなにすっきりいけるのかもしれないな・・・ほかの事だったらどうなんだろう・・・?
ただただ「尊重」・・・4年程前の研学、花ちゃん、よしえちゃん、いくちゃん達との出会い、温泉と研鑽会が同列?衝撃的な研鑽だったわ。
私意尊重公意行というのは一番幸せな状態なんだと思います。
この感覚を他の人に伝えるときに「結婚」の話をすることがあります。
法律上は成人なら当人同士の意志が有れば結婚はできますが
双方の家族を初め、まわりの人たち(できればすべての人!)から祝福される
ことがベストだと思うのではないでしょうか。
そして私意尊重公意行が窮屈な感じがするという感覚は
ある意味仕方がないことなのではないかと思っています。
今の世の中があまりにも「自由に」行動できるからです。
地球上に70億もの人が暮らしているのですから
その一人一人の行動も本当はいろいろな制約が有って然るべきだと思います。
社会としてみんなが幸せに暮らしていける、
しかも子々孫々まで永続性がある暮らしというものを考えれば
今は普通にできてしまうことも本当は制限が有った方がいいことがあると思っています。
どこかの部族では何かを決める時に七代先のことまで考えて決めるという話もありますし、
日本でも江戸時代には一人で持てる服の数まで決められていたそうです。
もちろん法や規則で縛り合う世界を望んではいませんが
無規範状態ではどうしようもない気がします。
自分の方から見ていると私意尊重公意行は窮屈な感じかもしれませんが
全人の方から見れば愛に基づいた節度ある行為行動の指針なのかもしれません。
平山さんの観点に賛同です。喩えの、みんなから祝福される結婚の話
も、的を得ていますね。
この観点を、どう実顕地で、実践・行動に移すか。
その手始めに わたしは、お互いよく知り合うことからと想って、
こころ研に参加してます。
このお盆に、十数年前から名古屋の方へ出ている息子が帰ってきていう。最近携帯をスマートフォンに替えてから仕事の合間に「村ネット」を見るようになった。そこではじめて「お父うがヤマギシで何を考えてやっているのか知って嬉しかった」という。
たまには「村ネット」にコメントを発信するのもいいものですね。
さて発信といえば、今回の「私意尊重公意行」のテーマこそあらゆる争いを根こそぎ解消する具現方式として、今ほど世界中の人々から切実に求められているものは他にないのではなかろうか。この「村ネット」からそうした実態が刻銘に次々発信され、世界中の人々の参考に供することができる、そんな時代が来る予感がする。
だって「私意尊重公意行」のテーマぐらい当の自分らにとっても取っつきにくい、できれば避けて通りたいトラウマそのものといっても過言ではないのだから。「やめときましょうか」に代表される不自由・窮屈の代名詞みたいな代物だから……。今頃そんなものを発信したら、世界中に害毒をまき散らすようなものではないのか?
そうだろうか。あの私意から見て納得できない公意を行おうとする時の、愚劣さ、苦々しさ、どうしても肯定できない矛盾、息苦しさ、自己欺瞞性にほとんどの村人は翻弄されたことがあるのではなかろうか。だからこそ検討に課するわけだ。
どこでどう思い違い・錯綜しているのか。ここがみんなで目を背けないでリアルに超えられたら即世界中の宝物に「私意尊重公意行」のあり方が変華するはず。
この間私自身は勝手に以下のような項目を公言しています。
○私意(自分の思い考え)の延長線上に、公意は存在しない。要は次元が異うということ。私意で公意の是非は計れないということ。ここが区別できたら、悩みは霧消する はず。
○その次元が異う私意と公意行を一つの方向に結びつけるのは、ただただ「尊重」そのものに秘められてある。
○それ故、ヨチヨチ歩きでも普段着のけんさん、普段着の「私意尊重公意行」の実践・実証につきる、と。
8月テーマ私意尊重・公意行を読んでみて。私がやれること。(村外の住人より)
私意尊重・公意行って、村の中でやれること? どこにいてもやれること?
研鑽学校指で数えるほど行っててこのレベルですが。
はっきりわかりませんが、傍からみていて、村の生活暮らしは漠然とちょっとおっかない?部分と、充実していて豊かな暮らしに見えたりする部分がある。住むところは違えど全人幸福社会づくりが趣味(勝手に)の仲間同志としては、一人ひとりが本当に幸せに生きているのかなというのは、一番気になるところ。もちろん自分も含めて。
日常の生活の中で思い通りに行かなかったり、傷ついたり言いようのない不幸感を時として持つことがある自分。そんな時は私意尊重の真逆かな。
相手がいるからそんな自分を知ることできる。相手のせいでそうなるのではなく、自分の裡にあるからひっかかるわけで、そこで自分の何がそうさせるのか調べてみる。あっこれかと気づくことがある。自分で自分を苦しめてごめんなさい。ゆるしてください。きづかせてくれてありがとう。愛しています。の回路が自分のなかで作られようとしている。そんな自分を出しながら。
自分という縦糸と愛という横糸を繋いで、黄昏時刻々と変化する無限の美しさを持つ空にはかなわないけれどそのように紡いでいけたらしあわせ。湘南に住んでいて海と空と山の景色の美しさは表現できませんが。ずーと残していきたい自然の風景。そして原発の要らない暮らしづくりをしないとね。
そろそろ黄昏時今日も昨日とまったく違うすばらしい空の景色を見にお散歩。亡くなったばかりの義父の慈愛に満ちた笑顔を胸に。
追伸;ヤマギシの堆肥米コシヒカリ今年も丸々としたおいしいお米に育っています。農家の方のメッセージも届きました。新米キャンペーンしていますのでプレゼントにいかがですか?
湘南食生活友の会 会員より。
どうもおじゃまさまでした。
朝、佐々木さんと谷畑さんをいつ日和佐G・観音寺Gに送り出すか話し合った。
行きたい日と送り出したい日が合わず、かつてないほど徹底的に出し合った。
今までは行きたい日にだけ合わせていたが、送り出す人(豊里養豚部)の気持ちまでも含めて考えてもらいたかった。
夜、真理ちゃんから六川交流に行かない?と声かかった。出張の日と重なっていた。その時公意を見出そうとしている自分と朝の自分は全く異う実感があった。
今日も公意を見出していくのだけれど、その時その時に出てくる自分がどんな自分か、面白いとしか言い様がない。
久江ちゃん
朝の自分と夜の自分のに違いってなーに?
久江ちゃんと私、基本研が違うから、、、。
ほんとは直接研鑽会で聞きたいところですが、、、。
う~ん、なんか興味あります、どう研鑽して展開するんだろうかな~。
六川に行くのかな~
私は色々重なった時が、ここだ!ってここなんだよね~と思うんですが
よ~く考えたら、普通でも色々重なっているんだよねって。
私の場合、実際に韓国に来てみて、今思います。
その時その時、自分の気持ちを素直に見て、職場研鑽に出して、やってみて
また、出して、簡単に考えて、自分を職場から送り出す研鑽したつもりだけど。
今思うと、もっと簡単に皆で考えられたかも?っと思う、交流中です。
基本研で「私意尊重」結局、自分がよくなるためからすべて出発しているを研鑽した。
○ 後で「何でこうしたの」と私が言われるのはかなわないなあと思って、自分本位のところから「どうだろうか」と皆に出したんだけど・・・それって「私意尊重?」
うーん、後から言われるかもしれないって不安?というか懸念というか、それを持ち続けるより、出しておいたら楽やな。それに後で言われた時でも受け止め方が異う。そうすることで明るく軽い心境が醸し出されたら、周りの気風もいいし何より自分が仕合せ。自分本位!それで結構。
○ 職場が寝枠になるようにしていきたいと私意を出して出発した今期の建設部。役所の届出に思わぬ(失礼しました)実力を発揮するひと、木工で消火器ボックス100個作成に掛ろうと試作品を作るひと、バルコニーの隔壁つくりに立ちあがってくれるひと、社員、業者のリストをまとめて安全管理を進める人。又、この人にこれをと気を置いている人。 元々そうなってあったのかもしれないけど、そこが嬉しく心に映る私になっている。
「私意尊重」って徹底した「自己中」かも、と研鑽がすすんでいきました。 自分がよくなるってどういうことかな。
今、種豚場で中楽の子を受け入れています。
子供達と公意をみいだしたいと思い、どの道を歩いてくるかについて話し合いました。その前に、A君の意見をきいていたのと、テーマとして、
「伝えたいことを伝わるように言う」を一緒にやりたいと思っていました。
A君が何度も言いかけるのですが、なかなか伝わらなくてやめそうになりました。私は、
「A君の通訳はしないよ」
と出してみて、気づきました。
子供が父親や係さんに言う時、通訳していたわ・・・・
言ってもらうのもあるけど、自分で気づくおもしろさ ワクワクドキドキな毎日です。
49KG級レスリングの小原日登美選手が金メダルをとった時、「みんなの応援が、力になって、マットにあがっても、一人じゃないと思った。」と言っていました。
決勝の試合の間、「ひ、と、み。」、「ひ、と、み。」とコールが聞こえていたので、そのインタビューの答えに
胸が熱くなりました。
私意尊重公意行って、こんな感じじゃないでしょうか。一体のみんなに応援されて、愛に溢れる感じ。
ちょっと前までは、私意尊重公意行って、窮屈な固いイメージに思ってたけど。漢字が多いせいか・・?
ロンドン・オリンピックは、日本はチームでとったメダルが多く、選手のコメントには感動しますね。
みんなでやって、良かったって、響いてきます。
京子ちゃん
ありがとうー。「私意尊重公意行」のイメージがよりはっきり、浮かんできました。
8/12の研鑽学校受け入れ交流会でも「私意尊重公意行」の言葉が学生の話によく出てきました。
「愛」をいっぱい感じている中で考える「私意尊重公意行」からスタートしたいなー。
今回の交流研で諸国の人何人かが『さぁーどこから始めよう―?』って言ってたの。
印象的でした。
ヒラシマさんの提案もこんな風にならないかなー
今回のロンドン五輪での日本選手の活躍ぶりがじつに興味深い。
サッカー、体操、卓球、アーチェリー、フェンシング、水泳などでのチームでのメダル獲得が続いて、「全員で戦った結果」とか「個を高め合うチーム力」「団結力」「絆」といった文言が新聞紙面を大きく飾っている。
たまたま春日山の今月のテーマ「私意尊重とは…… 公意行とは……」とも重なって、そんな観点から眺めていると切れ切れの思いが次々わいてきた。
一方で銀や銅のメダルを勝ち取りながらも、暗い顔して「申し訳ない」「いたらなかった」とうなだれる柔道などの選手がいる。他方、なでしこジャパンに代表される「最上の舞台で、最強の相手と、最高の試合を最良の仲間たちと一緒にできる」(澤穂希)ことのよろこびから出発している選手たちがいる。
どこがどう異うのだろう?
「私意尊重公意行」の「みんなでやる」の本家本元、我が実顕地メンバーもここはひとつ真面目に振りかえざるを得ない。
自分らも「心一つの人たちと共に考え共に行う一体生活を一ヶ所に寄って各々専門分業の一員としてやっていく、そんな生活がどんなにか素晴らしいことだろうかと夢ふくらむ思い」から出発した。そしてこの間「みんなでやる」ことの素晴らしさと重圧・苦悩の両面を味わってきたのだなぁと振りかえる。
自分は数年前から、私意尊重とは徹底した「自己中」のことではないだろうか? そこまで尊重、徹底することではじめて全ての人にある私意に共通する「自己」が見いだされ、出会い、そんな「自己」が公意行と一つになって構成される「自己より発し、自己に還る」社会を自問自答しながら描いてきた。だから従来の、利己主義でも個人主義でもない。みんなのためでも自分のためでもない。すべてのことを自分のこととして為し、自分の生き方として生き、他に対して不平不満がなくなる、を指標にしてきた。
あのなでしこジャパンのフランス戦での神がかり的なチームプレー。一個人の体力、技術力、精神力を超え出たものに世界は驚いているという。足し算ではなくかけ算・核分裂として顕れる世界がある。自分らの合い言葉、一体の「もっとも相合うお互いを生かし合う世界」とも重なってきて、なんだかわくわく愉しくなる。
「公意を見出し愛を感じる趣味の会」が生まれ出たのは、五月の研鑽学校Ⅱでのことです。
自分たちは、「一体」を好きでやってる。もう、趣味でいこうと、なりました。
(あくまで、私がそう思ったことなので、同期の人もコメント足してくださいな。)
どんな感じかといえば、私はアメーバーのように、行く先々でそこに居る人と一体になって、公意を見出しているイメージがあります。
一体に立ってないか、零位に立ってないかの時は、愛を感じないかもしれません。
自分の公意を、人に見出してもらう時、私はまだドキドキしますが、佐々木久江さんはワクワクするそうです。
久江ちゃん、コメントしてくださいな。
このテーマを見るたびに、数年前の出来事を思いだします。
一緒に仕事をしているAさんから、「これをYさんにFAXしますか」と聞かれ、私は「しなくていいよ」と答えました。
ところが、その後Aさんが私に言わないでYさんにFAXしたのを知って、「私にどうするか聞いて、しなくていいと言ったのに、何故やったのか。もし、FAXした方がいいと思ったのであれば、もう一度私に確認してくれてもいいじゃないか」と厳しく言いました。
Aさんは、「貴方(私)の言うことは、スジが通っているけど、何故、敢えて私が貴方に再度確認しないでFAXしたのか、私の気持ちを考えようとしましたか。」と言われ、大きなハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
その時から、「聞かないで勝手にやったことは、公意行でないからダメ」と決めつけないで、「何故その人は敢えて聞かないでやったのか」 、そのように考える回路になりたいと思っていますが・・・、でも、すぐに「勝手にやって・・・」という感情が出てくる今の私です。
「公意を見出し愛を感じる趣味の会」の心境で、やりたいですね。
「公意を見出し愛を感じる趣味の会」の生まれ出た辺りを聴かせてくれませんか。
「公意を見出し愛を感じる趣味の会」て、なんか軽い感じだな~
勝手に入会しようっと!!
今日(8/9付)伊勢新聞に、震災がれきの広域処理について、「住民の合意が取れない状況で受け入れる必要は全くない」などとする緊急申し入れ書を、NPO法人「廃棄物処理ネットワーク三重」が鈴木知事宛てに提出したと報じられていました。
その中で行政の「ガイドラインにそって安全に処理するから問題は起こらないと考えている」といった説明対して、「もし何かあった場合、どう責任を取ってくれるのか」との質問が出たとありました。
日常よくくり返されるやり取りだなぁと、記憶に残りました。一般社会ではこうしたやり取りの後、後は多数決で決を採って粛々と実行段階に移りますが、我がヤマギシズムの私意尊重公意行による運営と行動ではどのようになるのだろうか? とふと思いました。
ヒラシマさんの夢
今期ヒラシマさんは新任提案書に『西野流呼吸法の道場』へ通ってみたいと出していた。
彼は10年以上前から西野さんに憧れて?著書をかったぱしから読みあさりDVDも見て日夜研究し(はては由美かおるの著書にまで手をだし、、)勿論毎日体操もしている。今年に入ってそれが加速し(彼も年だし、、西野さんも90才超えてる?)いよいよ提案となったのです。一目会ってあの「気」に触れてみたい、人が吹っ飛ぶ姿を見てみたい。(これは私の多分に想像です)以前に「どうしてそれに凝るの?」と聞いてみたことがあります。色々説明してくれて、(中味は忘れてしまったけど、、、)「あ~彼流のイズムの表現なんだ~」と思ったことがあります。「ヒラシマさんって面白い人ねー」とよく人は言います。かって研学が一緒だった上山さんが(名前出してごめんなさい)『真面目に横向いてる人』と言ったとか、、、。それを聞いた私は「うまいこと言うなー」と感心してしまいました。
6年位前にスイスに4か月交流に行ったことがあります。(おかげで私も行けたのですが)その時も10年位「ハイジのおじいさんみたいに大鎌で草刈りがしてみたい」と思いを温めていて「一年交流に行きたい」の提案が4か月になったのです。傍で見ている私は10年目位に「あ~ァ本気なんだー」と思うのです。ところで今回の提案はいざとなるとそれなりにお金もかかるし、結構考え考え
の提案のようでした。調正所の人に熱い思いも語り(伝わったかどうか、、、)何日かした、きょう「おこずかいでどうですか?」との公意?が出されました。彼は今、次なる公意を見出すべく色々思案中です。
西海Gにインターロックの通路があって模様になっていました。 色違いに組み合わせてあって とてもきれいなモザイク模様に見えました。 利用する人が分かりやすくて、迷わないロータリー。 そんなのがいいかな。 それでも迷う人はいるのでしょうね。きつと。
豊里診療所まえの介護車ロータリー工事をすすめている。ロータリーは一方通行。住専門部の喜田さんからインターロックに→を描いてと言われた。
聞いて「え、カッコ悪。品がないし」 建設部で出したら「無くても分かるんじゃないか、それで事故起きることもないし」「ね、見栄えもわるいよね。」
で、喜田さんに「何で要るの?」と尋ねたら「それは見栄えの問題だよ。」へ~、喜田さんも「見栄え」で考えて真逆! その時は時間切れ。
でも、私意尊重して、公意を出さなくては仕事が進まない。喜田さんの言うことをシッカリ聴いて、私の見栄え観も出してどっちが優れているかを研鑽して、公意を見出さなくては。ヤル気充分。
ふと、インターロックに→が浮んだ。「幅る辱しさに気付き、他に譲り度くなる」アレ、「→は無い方が良い」という私の意見が放れて「→がある方が見栄えが良い」という意見とぷかぷか浮んで並んでいる。
話合う前にあるんだなと知った。「→は無い方が良いと言った自分」と同じ延長線上でない、全く異う自分がいる。今はここまで。これから楽しみ。
先ず、ほのぼのイラストに・・・。あれ、だれが描いたのかなあ。へ~、坂本さんだ。
私意尊重とは、公意行とは、ゆっくり研鑽していきたいです。