「私意尊重」の研鑽をしていく中で
ある日の春日山幸福研鑽会のこと。
平島進さんの、
「西野流呼吸法をやりたい。いつでも新任提案書には書いているのだけど、まだ提案書を書いたことがない」
という話を聞いて、
「何で提案書に書かないの?」
「止めているものは何なの?」
「提案する前にやめるというのはやめようよ」
「みんなでカンパするから是非実現しようよ」
と盛り上がりました。
普段から平島さんを見ていると、そのことを提案することによって、平島さんの心が開けていけるような感じさえ受けました。
二週間経って、次の幸福研鑽会にはカンパの缶も登場して、平島さんのこの間の話を楽しみにしていました。
平島さんが調正所に提案をしたこと、世話係になぜ行きたいか話が出来たこと、世話係から「お小遣いでやったらどうですか」と言われたことなどを話してくれました。
平島さんは、
「小遣いだと毎月やりたいことがあるから、3年位貯めないと実現することができないと思っている」
「8回行くと創始者である西野皓三さんに会えて握手ができ、気が伝わってくる」
「ヤマギシの中で野島医院に夢中になっている人がいるけれども、あの連中と俺とは全く違う」
「西野流と、ヤマギシとは同じ考えで、頭はヤマギシで呼吸法はヤマギシでは出来ないので、西野流でやりたい」
などを聞いているなかで、平島さんが純粋に健康のことを考えて提案をしているのではないことがみえてきて、平島さんに西野流呼吸法の研修に行ってもらうことは平島さんをより不自由にし、幸福の道にはつながらないと思いました。
最近の私意尊重公意行のテーマで「私意の延長には、公意はない」という研鑚を通して、平島さんの話は、聴けば聴く程、私意の「行きたい」という方向しかないということが見えてきました。
最初はまな板の鯉になった本人が開け、得をするとばかり思っていましたが、平島さんの一件では、まわりの私達がえっと思うような展開に出会い、「いい研鑽会だったね」と異口同音にうなずき合いました。「楽しかった、面白かった」で終わらず「いい研鑽会だった」とそこにいた殆どの人がそう思える研鑽会って久々でした。
今は私達まわりの者が、とても得をさせてもらったと思っているけれど、この先の研鑽会でどんなふうに発展していくか楽しみ楽しみ!!乞うご期待。
なお、私達がむらネットに投稿しようという話が、平島さんにも届いたらしく、
本人は、
「原稿を見なくても大いに自分のことを題材に研鑚してもらえたらいい」
と言っているということを聞いて、平島さんの私意が平島さんから離れているような気がして、とても嬉しくなりました。
何年も前の研鑽学校でのことですが、当時夢中で読んでいた「河合隼雄」さんのことを、私は出しました。何でも思っていることを出せる雰囲気の研鑽学校で、素直に出すというよりは、無邪気に出せた感じでした。私の話を聞いて福島理平さんが、「河合隼雄に熱を上げているんだな。そういうのは、後でドカンと落ちる。」と言われました。「うまいこと言うなあ。」と
思いました。確かに熱を上げている感じでした。でも、その後もドカンとは落ちていないので、福島さんに道で出会うたびに心の中で、「まだ落ちてないよー。」と威張ってます。
この研鑽学校に入るまでは実顕地生活が結構苦しかったのですが、私のどうでもいいような話でも、温かく聞いてくれる(尊重してくれる)空気の中に無邪気に自分をさらす味わいをして、それ以来うんと楽になりました。
今はミスチルに熱を上げている私ですが、豊里へ行ったら、「いよっ、ミスターチルドレン」とか、「今回は追っかけはないのかい?」など、みんなが声をかけてくれて、コンサートへ行けるかどうかより、この温かな雰囲気が何より嬉しいと感じています。
平島さんの提案のことから、こんなことを思い出しました。
このコメントがきっかけで、春日山の幸福研に行ってきました。
みんな思った辺りを出して、聞いて、自由な雰囲気で楽しかった!!
平島さんのテーマに留まらず、なんとか真の自由を探りたい、ものにしたいと、どの人も自分に照らし合わせて考えてみた。あっというまの2時間でした。
平島さんの「変えることもできるよ」「コントロールされて」とか節々に出てくる言葉の中に強く持って放せないものを感じ、“もっとも窮屈、不自由だと思っていた中に真の自由があった”を予感させてもらった。
仕組みや人に助けられて何事もなく過ぎて行っていただけでは、自由も真の自由も分からないなーと思った。
平島さんのことでは、持って放そうとしていない、それではいつまでもどこに行っても変わらないよ、と言えるし、持っている姿ってこうなのかと感じることもできるのだけど、自分の例になれば、どんな姿なのか、どちらでもできるよ、そこから考えたいとはなかなかならない。
参画してずーっとやってきているのに私意尊重もすっきり見えていない私。なんとかならないかな・・・なんだか息苦しい。フウーフウーハー。と言われてもしょうがないなー。
行ってきたのですか~
なんか、そんな予感したな~
伝わってくるものがありますね。
なんだか息苦しい。フウーフウーハー。
メッセージありがとう。
息苦しいってひろちゃんらしい、かな? みんなで研鑽していくのが本当に面白い。自分も人も研鑽会の中で変わっていくのが楽しいです。
あのね、それより青蓮寺の葡萄畑の案山子めちゃくちゃ楽しいよ。見に来て欲しいくらい。
かかしの写真も見た~い!
是非季節の風景フォトで載せてくださーい!
自由の研鑽なのに、「なんだか息苦しい。フウーフウーハー。」
と感じさせるのは、〔自由〕からは、ほど遠いな~と感じます。
空飛ぶ、とりたちは〔自由闊達に飛び回っている〕けれど、
『鳥たちの空飛ぶ理』から逸脱してないだろう。
この『理』に学べば、ある人の〔自由闊達〕な行為・行動も、
『人間社会の自由の理』からは、逸脱しないでしょう。
当然にも、〔自由闊達〕な人を観察する人も『人間社会の自由の理』
に立っての観察でなければ、〔自由闊達な行為・行動〕が、
他のものに視えるでしょう。
互いに、縛り合う関係でなく、互いに「自由・開放」する関係で、
今回の「自由」を探っていきたいです。
私も「いい研鑽会だったね」の片鱗にでも触れたいな~。
【平島さんが純粋に健康のことを考えて提案をしているのではないことがみえてきて、平島さんに西野流呼吸法の研修に行ってもらうことは平島さんをより不自由にし、幸福の道にはつながらないと思いました。】
どの辺りで平島さんをより不自由にし、幸福の道につながらないと思ったのですか?
カンパまでしようとしていた心がどのへんで変わったのかもっと具体的に書いてもらえませんか?
【私意の延長に公意はないの研鑽を通して】とあるけど、どんな研鑽だったのかな~。どういうこと?
具体的に変わってきた辺りを知りたいです。
栄子さんメッセージありがとう
研鑽会の内容を文章にするって難しいですね。「自由」って何? と研鑽している中で「全て自分の思うようにしたい」ってこと? というような事も出て、それしか考えられないってやっぱり不自由なんじゃないかと・・・・・・。
ごめんなさい。研鑽会の空気、温度、香りを文字にするのは難しいです。