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私意尊重の「尊重」に想いをはせる


私意尊重の「尊重」に想いをはせる

○想いをはせていると、自分の私意から離れていくようだ。
 自己主張する自己から、「個体」としての「自」分、「自個」が現れてくる。
○尊重とは、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くことである。
○「公」とは、「私」が相互に尊重され共存して生かされている状態をいう。

 8月から2か月間「私意尊重とは・・」「公意行とは・・」のテーマでやってきました。
 春日山で、豊里での基本研で、また「むらネット」で、いろいろ考えを出し合ってきました。
 鰻の例で考えてみると・・・
「おいしい鰻を食べたい」という私意を出して研鑽して、結局春日山では今年は食べないことになりましたが、「私意は充分尊重してもらったし、それでオッケー!」と思いました。
 ところが、まず「私意を尊重してもらった」などという表現が出てくることがそもそも「尊重」とはかけ離れたものではないかと思えてきました。
 その証拠(?)に、今年も食べないと思われていた豊里では鰻を食べたと聞いた途端に「え!春日でも食べたいよ」という思いが出てきたのです。思いが出てくるくらいはよいのですが、研鑽会で「やっぱり食べないの?」と何度となく言い、私意が私にしっかりくっついている状態がみえてきました。

「私は単に私意を出していただけだったのか・・・」
そう考えていくと、私の場合あくまでも私意を出していくという感じで、「私意尊重」ではなく「自己主張」です。

「提案が通る、通らない。」という表現はあり得ないと思っていましたが、私の実態はその程度のものだったのだなあと思いました。「おいしい鰻を食べたい」という私意の延長に、「当然食べることができる」という公意行はないのだと気づきました。

他の人の私意を尊重するということも、他の人から私意が離れること。

「地球的規模で考えたら、鰻を食べるのはいかがなものか」
と言っている人の気持ちに私がなることでもなく、「おいしい鰻を食べたい」と自己主張するのでもなく、私意が離れていくことが一番尊重している状態なのではないかと思えてきました。だから、「私意の延長線上に公意はない」と言えるのではないかと思いました。

 そうでないと、研鑽の一致点(公意行)が見出されていかない・・・。
 10月のテーマで「尊重」の意味を研鑽していくことで、「自分とは何か」「公とは・一体とは何か」が浮かび上がってくるのかなぁと楽しみです。
 私の場合はまず、なかなか離れていかない私意が離れていくように、「公意を見出したいです。」と、研鑽学生のように口に出して言ってみることなのかなぁ・・・。

【春日山実顕地 柳 順 (イラスト諏訪花)】
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