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一体として観る


11月16日からの研鑽学校(2)に参加しました。
その動機は、日々の生活に喜びがなく、すべての事に何となく閉塞感を感じていて、その状態を先ずは洗い流し整理してみたい、ということでした。

・「このカステラはおいしい」ということは事実ですか。
事実と観念の分離。「○○○が事実である」と言えることではない。観念が事実(の世界)をそのまま全て認識する、ということはできない、ということについての研鑽。
こういったイズムの基本はわかっているつもりだった。

「宇宙自然界は一体である、ということは事実ですか」と考えてみた時、そう言えるということではない、と気がついた。
「じゃ、何に基づいてヤマギシをやろうとするのだろう」と非常に心もとないものを感じた。

春日山の住居公園部に実行研鑽を受け入れてもらった日、その感想を出発研で話してみた。するとその場にいたみんなが、その話のままで研鑽学校に帰すわけにはいかない、という感じで次々とそれぞれの考えを話してくれた。僕はありがたさを感じつつ、しかしながら受け止めきれなくて理解がついていかなかった。

研鑽会の中でもそのことを話したが、その場ですぐに検討するということではなく、「これから用意されている研鑽会の中でそのことへの理解ができるかもしれない」と伝えられ保留状態で時間が過ぎていった。

・「恋愛と結婚について」(保ち合いの理)を何日かに分けて研鑽する中で
人間の活動としての観念(考え)と行動が現象界のものであること、そしてその現象界の背景に無現象界がある。
無現象界の愛の作用や発露によって、すべての存在や、その本能の発露、愛情の流れがあり、そのことから無現象界の愛、すなわち真理を感じ、意識し、確認するのではないか。
人間の観念が真理に合う状態となることが正しいことであり、それをやろうとしているのがヤマギシズムではなかろうか、と研鑽の内容を受け取った時にその不足感がなくなった。
ただし、そのこともひとつの人間の観方としておくことが、宗教になっていかない要点だと思った。

このことは今回自分にとって大きなことだったが、それはあくまでも知識としての理解の段階のことであって、その後にもっと大きなことが控えていた。

・13日目に一斉作業で春日山のタマネギ定植に行った。
朝7時過ぎ、皆と寒い中でやっているうちは気がつかなかったが、ちょっと暖かくなってきて、春日山のみんなも一緒にやっていることに気付いた時に、まるで研鑽学校のバーチャルな空間から現実の春日山の実顕地生活に戻されたような感じがした。
この間忘れていた「閉塞感」のようなものが戻ってきて、感じられた。

何日も時間をかけて研鑽を続けてきても、いつまでもイズムの基本的なことの共通認識を相互理解することに終始していて、自身の観念の転換がなされていないことに落胆した。

もう残す日も少ない時に、この程度であることを認めなければならなかった。
フト昨夜確認した、今日の実践テーマを思い起こした。
「一体と観る」
あぁ! 一体と観るのか!
自分が、一体と観るのか!
自分が、一体観に立つのか!
初めてそのことがスッと入ってきた。

特講で問われた一体観。参画したのはそれを味わってみたいから。
それがいつになったら味わえるのかと、ずーっと思っていた。待っていた。
いつまで待ってもそのようなものは観えてこなかった。
もう今生では無理なのか、と思いかけていた。

一体ではなかろうかと、そのように観て、考え行動する中で味わい見えてくるものがあるのではないだろうか。
係りの永瀬さんは「まぁ、自分がそう観て、やり易い人、やり易いことからそうしたらいいんじゃないか。難しいあいてから始めるとだいたい失敗するんじゃないか。」とあっさり言った。

日常の実顕地生活でやっていくことが見えた。この2週間13名で、それぞれ違いがありながらも、楽しい家族としてやってきたことをそのままやっていくことと思った。

[ 考えたこと・もっと考えたいこと ]
・自分の私意を出す時に、それが実現していくのをどのくらいの時間的スパンで考えているか
・人類社会のモデルとして提示できるヤマギシの実顕地とは
・研鑽の精度
・相手の話を聞いているか?
話を聞き終えて、内容として一つのことしか意識にない程度では、「まぁ聞けていないんじゃないか」
・「急進Z革命」

【春日山実顕地 佐藤元泰】