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或る日の放談会
【一志】


 かれこれ一年以上続けている放談会の一こまを紹介します。

 月2回、夜7時半から約2時間、4人のメンバーが寄って言いたいことを出し合っています。酒とつまみは持ち寄りで、最初の30分は酒なしで、後は自由にやっています。

 言いたい事の中身は主にヤマギシズムに照らしてみて、あのこと、このことはどうなんだろうと言うような、流れになって行きます。今回の放談会でも、全体研やそれに続く翌日の運営研での発言が話題の中心になりました。

 話が見えずらいと思うのでちょっと中身を紹介すると、全体研のテーマは、一志実顕地の仕組みをどうするかということで、今まで10数回続けてきている研鑽会のテーマですが、「今のままでよい」、「少し手をいれたら」、「いやいや調正世話係りを置いた以前の仕組みがよい」と、結論が出るまでには至っていません。それでも全体の1/3くらいの人は出続けています。
仕組みの元にある何かを探って行きたいという意欲が感じられます。

 そこで、明確に出たわけではないけれど、それはそれで別の研鑽会に委ねることとしてと、仕組みを専門に研鑽する研鑽会を立ち上げてそこで研鑽したものを全体に提案して、よければそれを採用するという流れで行こうとなりました。

 調正世話係りを置いた以前の仕組みがよいと提案する人からは、

「みんなで研鑽したところでこうしようと言うのはやっていくが、自分の案を引っ込めると言うのはしない。だから自分が専門研鑽会に入れば、譲ることは出来ないから研鑽会に入らないほうがいいと思う。」
と出してきました。

 それを受けて、
「それって、ヤマギシズムで言う『無妥協』と言うことじゃない」
と言う人がいて、本当にそれが無妥協かどうか、よく分からないなとその場は自分の中で収めて終わりました。

 その『無妥協』が放談のテーマになって、いろいろと発展し最後は、幸福になるには、幸福研鑽会を設けるということではないか、そうだ、そうだと終わりました。あっという間の2時間でした。

 でもこのまま、この文章を終わってしまうとなんだか中途半端な気がしますので、発展の中身を少し紹介します。

 研鑽会であれ、打ち合わせであれ、話し合いであれ、人が話をする時、一見頑固と思われるくらい意見を主張し、譲らないことがあります。それは、その、人にはその時、そう思えているということで、頑固かもしれないし、そうでないかもしれないが、少なくともヤマギシズムをやっていこうとする限り、その態度を批判されたり、違う視点からの意見が出されたりしていく内に、人の頭の中身は少しずつ変わっているのが事実ではないか、と出ました。

 人と人とが話し合っていくと言うことそのものが、考えに角があれば、まるで流れの中の小石のように角が取れて丸くなって行くような作用を及ぼしているのではないか。そうだとするならば、研鑽会を持っていくことが重要である。それも幸福研鑽会を。となって、『幸福研鑽会を設けます。』と実践の書にある通りではないかとなったのです。

『設けます』で、『儲けました』になり、なんだかとても大きなものを発見した気分でした。

楽しい時間をすごせているのが、放談会が続いている秘訣かなと思います。

【一志実顕地 安井利夫】