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研学IIを出発して


上門由喜子さん(太陽の家で)

上門由喜子さん(太陽の家で)

研鑽学校を出発して村の暮しの中、感じるあたりを綴ってみたいと思います。そしてまた響きあっていきたいです。

春日での研学受け入れ研の時

進行の人から、
「もうこのくらいでいいですか?(研鑽会終わっていいですか?研学生の皆さんもいいですか?の意か?)」

との声がかかったとき、「ああ、もういいな」と自分は思ったが、それは一緒に座っていた研学仲間の重山さんや敦子さん達の息づかいや集まってくれた人の反応、自分の心の動きを含めて、自然と決まっていくような気がした。

今までとは 何か ちがう感触。

今までだとこういう場面では、「自分が話したいか話したくないか。」または「場の空気を読む」「気を使う」と言うようなことが「終わること」への判断基準だったと思うが、上記の変化は研学で研鑽した下記のことと関連があるのかもしれないと感じます。

「言うこと」は言う者が居て、聴いてくれる人が居て、その人が「聴きたい」となったとき初めて成立する。
 又は一体観に立つ。

全体調正作業(製麺)の場面で

G用生パスタの袋詰めの作業だったが生パスタの流れに対して、詰める人の人数が多めだったようで、袋詰めの作業が追いついてしまった。

「今日は自職場の方が人が足りなめだから帰った方がいいかな」と思いかけたとき、ふと「私はこの全体調正作業で何をしたいのかな?」と思った。
そして研学生活の「公意行配置」を思い出した。

掃除一つするのにも「公意行配置」とは!まあなんてたいそうな!
でも、今は研学中だからとママゴト気分で「公意を見出したいのですが」と本番前の練習くらいの気持ちでやってみたが、案外こちらも本番かな?と感じています。

やってみての手応えです。
こんな些細な処にも「公意がある」なんて!!実顕地の配置や職場配置については「公意行配置」と重く受けとめてましたが、毎日の打ち合わせ等も公意行配置としてやり続けてみようと思います。(今まではお茶タイムの親睦くらいに思っていたのですが。)

太陽の家の打ち合わせ、初等部の打ち合わせ、学園部の打ち合わせとなると座ってばかりですが、「一体観に立って」やり続けてみようと思います。

次は、その実践報告を持ちよってやるような研学にしていきたいです。

「うれしいひな祭り」の歌をきいてうれし涙が出ました。

私はこの歌は「古い(昭和の小学生が歌う歌)「歌詞が幼児には難しすぎる歌」と思ってましたが、研学から帰って初めて太陽の家の子がこの歌を歌うのをきいたとき、ほうとうに感動しました。
言葉にあらわせば、「金の屏風」も「少し白酒召された赤いお顔の右大臣」も古くさくも難しくもなくこの子達の中で、リアルタイムでビビットに息づいている。「事実の中で生きている子供達」そんなところかな。

このことは下のことと関連があるように思います。

「このカステラは美味しい」というのはどういうことを言っているのでしょうか?

愛とは無現象のもの…。
いつでも、どこでも何にでも生きている…。
愛するから存在するのではなく、存在するところに愛はある…。

【春日山実顕地 上門由喜子】