今朝、ふと思ったこと【豊里】
今朝、初めて職場のみんなで、豊里ファームの開店前の準備に行きました。
ひと段落して、おいしそうな阿山のパンが並んでいる前で数人で会話した時のことです。
「おいしそうだね」
「来るたびにいい匂いがしてて食べたくなる」
「売れてなかったら、さっともらって食べたらいいやん、おいしいかどうか食べてみてよ」
「いいよ、買って食べるから」
「買って食べるっていう感覚、全然わからん!」
「でもこんなにきれいに包装してくれてるのに」
「売り上げに貢献しようって思っちゃう」
この会話をするまでは、私は豊里ファームできれいに並んで売ってるものについて、お金のやりとりをして、自分の手元にもらうということに、ほとんど違和感がなかったことに気がついた。
会話の中の“売り上げに貢献する”については、私も“感覚わからん”だけど。
いつの頃からか、生産物が必要なときは、お小遣いにしろ、別に提案してもらったお金にしろ、販売所へ行ってお金の受け渡しという“手続き”をとる、ということは豊里の村人で一致してやってきたこと。
そして、たとえば、豊里ファームにあんなにたくさん物が並んでいて、村人といえどもお金のやり取りなしで使えるとなったら、収拾つかなくなるんじゃないか、みたいなことも思ったりした。
でも、考えてみると、それって、世界中が、お金を通して世の中が回っているとしている観方と何も変わらないのでは???
世界でただひとつ、ヤマギシの村人で金の要らない村をつくろうとしてるのに。
“お金がないとあらゆることが成り立たない”と、世界中のほとんどの人がそう思ってやっているのと、変わらないんじゃない?
よ~~~く、考えてみたいと思った。
よく考える前に、「でも、○○する人がいたらどうするの?」
「○○になったら困るでしょ」「そんなことしたら絶対○○になるよ」と、
先走りしないで、わざわざ実顕地をつくってやろうとしているお互いで、なんでそこにお金が要ると思ってるのか、そのことをよく考えてみたいと思った。
7月31日の喜田栄子さんのコメントに答えるのが遅くなりました。
「通哉さんは何を言いたかったのか」__はお察しください。
「実顕地は合真理生活。ほんとうはどうかもっと例をあげてスカッといきたいのですが、」というのは実顕地が本当に合真理生活がやれているかどうかということでしょうか。
もしそのことなら、村人でこそ、これでいいのかどうかは、事実を取り上げて研鑽できることではないでしょうか。
通哉さんのコメントを読ませてもらい、
なんで実顕地が在るのか、なにをやろうとして私たちがここにいるのか、
あらためて考えさせられました。
合理生活をと願いながらも、右往左往の毎日です。
従来の観念でこれでいいとしているのか、易きに流れて見失っているのか、
あまり考えもなく言ったりやったりが多い私です。
ただ、研鑽学校があったり、実顕地にいるだけで、大勢の仲間がいるおかげで、いろんな考えや人に触れることができ、どうにかここで居させてもらっているそんな感じです。
このむらnetの中でも、日常の暮らしの例を一つづつでもあげながら、いろんな思いや考えに触れて研鑽して行ければと思っています。
様々な投稿やコメントを読むと面白いですね。今を一緒に生きている人達、みんなどんな風に生きているのかなって、ふと思います。
これからもどしどし意見や投稿お願いしますね。
通哉 さんのコメントからいろいろ考えさせられています。
合理と合法。
通哉 さんは何を言いたかったのか、もっと詳しく説明してください。
実顕地は合真理生活。本当はどうか、もっと例をあげてスカッと行きたいのですが・・・
雅子さんの記事を読んで思ったこと
お金を使うことに罪悪感(?)躊躇するのはなぜ?
昔、自分で稼いでいた頃はなんとも思わなかったのに、必要なものはすぐ購入していたけど、
今はどうかな・・って一応考えるよね。どうかな?の中身はなに・・
パンも食べたいって思っても、美味しそうと言っても、買ってまで食べたいかなって、お金を出してまで食べたいかなって思う。
その時のお金ってなんだろう・・・
稼ぐ方には躊躇ないのに。
必要なものが必要なところに流れる。けど
通哉さんのコメントを読んで思ったこと。
私もシステム上、社会生活上、そうしていると思っていますが、
金の要る社会で生まれて育った私の観念はどうなっているのかな・・・
贈り合いのこころとか、万金積んでも買えない卵とか、知ってはいるけど、どこまでがそうなっているかな・・・
どの範囲ならそのこころでやれるのかな?親子、夫婦はok、村の中ならどの人まで、事情がわかればok、
お金でのやりとりにすると便利で世界中が使っていると思い、システムで始まったものとは思うけど、
美味しい肉の試食をする時、おいしいって言ってくれるとうれしいけど、買ってもらえるともっとうれしいのは・・・
どこまでが本当にそう思っているのか、どうか今の私はわからない。
生活のために働いているとは思っていないけど、あやしいものも出てくる。
合理と合法
昭和34年の山岸会事件のころに、山岸先生は「合理」と「合法」と言われたことを想い出します。
ヤマギシの村と言はれるヤマギシズム生活の実顕地では、お金の要らない一体生活をしている。無所有・一体を理念とする合真理生活の中ではお金は要らない。
だが、世間一般・個別、所有の世界ではお金が要る。本来、誰のものでもないものが、私のもの、ひとのもの、店のものというように誰かのものになる。
そこで万引きや無銭飲食すれば、法に触れて罪になる。
ヤマギシの村にはそれがない。
今の世の中は、合法生活で成り立っているといえるでしょうか。
お金の要らないヤマギシの村のお店と、豊里フアームや春日の日曜市のように、お金のやり取りで成り立つ仕組み(決まり)のヤマギシのお店との違い。
村人はそれを使い分け?して当然ではないでしょうか。
お金のいる世の中は不合(眞)理でも、法(決まり)に従う合法生活をしていくことだと、私は納得しています。
すべてを放せないでいる私が参加するテーマではありませんが、ちょっと思うことを・・・・・・
近くの実顕地にたびたび寄させていただくのは、そこがふるさとの実家のよな・・・・・・・・そして迎えてくださる人の、ともすれば忘れかけそうな人の温もりに浸る時間を求めてです。
「お金のいらない、仲良く楽しい村」が手招きしてくれているからです。
だから、宿泊代も食事代も払ってはいません。勿論、お伺いする時は「海の幸」を手土産にはします。
それは個人的に行った時の事で、企画に多くの方と参加する時はそれなりの参加費を出してはいますが、それも当たり前と思っていて、「お金のいらない村」に抵抗はありませんでした。
それはヤマギシがそこを目指していても、現実の社会に存在しているから当たり前と思っていました。
現実の社会では、例えば魚屋さんが、八百屋さんが自分の家族の食事に店の品を使用する時はレジーにその分のお金をいれなければなりません。
でないと、その行為は脱税になるのです。
今の時代は商品と私物を混同出来ない仕組みになっているのですネ。
また、私の方からみれば 「豊里ファーム」の経営感覚も首をひねる事ですが、それも生産物の販売促進に必要な研鑽を重ねたのでしょうが、ネットで知る限り あれだけの人手を要してどの位の売り上げがあるのでしょうか?と、こちらにいると思ってしまいます。
いわきから供給所を撤退したのと「考え方」はちがうのでしょう。
全国にある供給所の考え方とは、同じレベルの話題ではないのでしょうネ。
面白いテーマだったので ついつい参加させて頂きました。
『魚でもみな魚屋へ取りに行く、衣類・衣料品でも何でも勝手に取りに行く、と。 そうすると「帳付け」になって、月末はそこの実顕地会計から払っておく。』(全集四・p322)
『町へ行ってみなタダ。百貨店でも「通い」か「預託金」を置いといて、みなタダですわね。』
(全集四・p75)
お金持たなくても、簡単にやれるみたい・・・。「仕組み」でね。
仕組み。。。。 おなかすかせた幼年さんたち 連れて行って おいしそうな阿山のパンみせたら パクつきそうですよね〜 (^^)パクっと食べちゃうじぶんになりたい そして合法生活逸脱 そのときわたし 心はどこにあるんだろうか 阿山のパンはどうみえてるんだろうか 心はどんな世界に住んでるんだろうか 仕組みに安住して 見えなくなってしまわないか カードという板きれで 現金をもたない都会生活でも 仕組みがあってもなくても 心はタダの世界にあるのか お金使っても 使わなくても タダの世界ってどんなんだろう って 果てしなくじぶんをみつめてしまうテーマですね。。。。
雅子さん良いテーマを投げかけてくれました。
いつも私達はなにをしようとしているのか。いつの頃か意識が薄くなっていたこのテーマ。
日常の全てがここにあるようです。
私は、イズムのこころでやっていたかしら?と。
よ~~~っく考えてみたいと思った。投げかけにどこかにヒビが入ったのだけど・・・。どこだ?
まづ、私、売上貢献派かも。「肉、うちのは物は良いけど高いからスーパーで買う。」とか聞くと
「え~」と出る。生産物食べようよ、それに、お金は実顕地に還元する方がイイでしょ、って訳。
それから「村のお店」のパン「うまそう、量もいいし、カロリー低そうだし、これにしよう」。
我が家の「豊里ファーム」のパン「うまそう、で、いくら?安い(根拠アイマイ)お金あるし、これにしよ」 他のコンビニ、スーパーと同じ感覚。 見事に使い分けている。
「豊里ファーム」も自律調正練習所に?!先走り、でも・・・・
自分は「本当はこうなんだけどね~」って流していることが多々。私、いつ本当をやる気なんだろ?
他の人の意見に触れると、また、考えが進みますね。
実顕地では愛和館でも、村のお店でも、洗濯物をだしても、一切お金が介在してないことに改めて気づくというか・・・
400人、500人で暮らしていても、愛和館でお金が要らないからと言って、おかずが際限なく無くなるということが起こってないのは不思議なこと?
うーん、賛同。
私自身は、食べることについては昨年2週間ほど入院した機会に、一日の食事量はこんなに少なくて良いのかと納得しました。
5月に近くのホームセンターで200円くらいで買ったミニトマトの苗が育ち、今無数に実をつけ始めています。
これを見てもお金って何かなと思う日々です。
村のお店にあるヤマザキのパンにはお金を払ったことがない
豊里ファームにあるヤマギシのパンにはお金を払った
同じ実顕地の中だけどちがうなあ うちで作ったものにお金を払ってます
村のお店と豊里ファームは何がちがうんだろう?
いろんな角度から考えていけるテーマで面白そう
金の要らない、の意味をどう考えているか?
ということに尽きると思います。
「・・・・・金の要らないこころの要る、美しい心の要る世の中に替えるのです。」という一節がありますが、
無所有、無報酬の真理の世界では、金が要る・要らないは、ほとんど意味をなさないないことのように思われます。