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西田さんからのお礼状


物資の受け入れ先に立ってくれた西田さん一家

ヤマギシズム実顕地の皆様へ

ヤマギシ会員の皆様へ

                仙台若林区  西田清彦・友子・航洋・地平

 今朝、予定より早めの時間に豊里からの荷物を積んだトラック(運転:奥村さん・谷口さん)が無事若林区に到着しました。  町内会の役員さんと共に、たくさんの生産物を運び出しながら、「どれだけ多くの方がこの短期間にこの便のために動いてくれたのだろう・・・。」と思うと、その親愛の情と行動力の素晴らしさに何という言葉で感謝を述べたらいいのか分かりません!  今迄も私はヤマギシズムに触れて以来、ずっと多くの方に支えてもらってやってきましたが、今回はもう、本当に「ありがとう」ではすまされない様な・・・まさしく言葉にできない感謝の念でいっぱいです。

 西田家に直接電話下さった方、気遣ってかけずに遠くから見守って下さっている方、今回の便に関わる関わらずたくさんの方が心配され気にかけて下さっているのがこちらに日々伝わっています。皆さん本当に本当にありがとうございます。心配おかけしましたが、うちは皆無事です。  届けていただいた生産物は町内会を通して全世帯(約470)に配布することになりました。役員の方はもちろん、地区の方にも感謝されお礼いただいていますヨ!!皆喜んでいます!

 さて、皆さんが心配されているこちらの現状(震災から2週間)としては、まだまだガソリンが手に入りません。

 都市ガスもまだほんの一部しか復旧していません。電気は市内は震災の一週間以内にはつきました。水道は市の半分ぐらいがまだ止まっています。灯油がやっと昨日から、徒歩・自転車のみ販売と言うことで並んで手に入るようになりました。(いつもならもう暖かい頃なのに、石油ストーブが放せません。夜は氷点下です)

 私は30年前の宮城県沖地震を教訓にガスはプロパンと決めて使っているのですが、都市ガス(多いですね)の人は風呂も料理もまだできないでいます。一方スーパーは昨日午後ようやく並ばなくても入れるようになりました。ただし、日配品(牛乳・卵・豆腐・納豆類)はやはり、朝早くから並んだ数十人しか手に入らないそうです。これは仙台どこもだそうです。

 店舗内も壊れているなか、品揃えはもちろん少なく、夕方には全品品切れです。それでもおとといまでは、寒い外で3時間並んでひとり数点まで制限で「カップラーメンと天ぷら粉とリンゴとレギュラーコーヒー」と、とにかく口にできるものならなんでもいい、と必死で買い物している有様でしたからまずはほっとしました。

 そんな中、私のいる、飯田大町町内会では「自分たちでやれる事を」と避難所から在宅者用として物資を調達し、集会所に来た人々に配給活動をしていたのでした。その時に、町内会長さんに、

「うちの井戸水の管が地中で壊れて水が出ない」

と言ったら、

「職人さんがガソリンがないから遠くへ行けず、町内の工事をやってくれている」

と連絡してくれ、その日のうちに水もれする箇所を全て(なんと4か所も破損していた!)直してくれました。おまけに主人の通勤のためのバイクにガソリンを分けて下さいました。

 いま、この状況で2ℓのガソリンがどんなに貴重か…。主人の仕事は老人施設の介護です。変わりの人がいないので、休むわけにはいかないのです。

 ガソリンが底ついたので、雪の中片道二時間かけて(半分が坂道)歩いて施設へ行きました。 (15kmのうち5kmは地下鉄にのって…)会長さんのおかげでバイク通勤ができました。

 そして、町内会で力仕事のできる中高生をボランティアに募集するというので、うちの息子二人を送り出し、私も何かやれる事はないか…と考えていたころに関東お父さん研メンバーのメールを見たのでした。(パソコンも余震が落ち着いてからつなぎました。でもつないだらインターネット接続がエラーで、父、母、何度やってもダメ、二男が取説片手についに接続に成功しました。)

 メールから電話から、多くの方が被災地のために何ができるか、やれることはないか?と考えてくださっているのが伝わってきました。  「西田家を窓口に」という言葉に背中を押され、東京案内所の松本さんと連絡を取り合うに至りました。

 3日前には避難所にいる友人にも会いにいきました。二男が通った六郷小学校、六郷中学校が津波被災者の避難所になっています。地理的には、ニュースで最初に200~300人の遺体が発見された”荒浜地区”の南隣になります。

  二男が中学校時代部活で共に地区優勝を達成した先輩が全員、そしてもちろん同級生数人も、家が流されたり二度と住めない状態で避難しています。親同士、試合の応援ですごく仲良しになった彼女は、

「今日はじめて家を見に行ったの。もうダメ…。でも皆も同じだから…いちだけじゃないからサ。」

と、落ち着いて明るく応えてくれました。田舎ならではの近所付き合いの濃さが幸いして、体育館は段ボールで隔てることなく、ひとつの家族のようなあたたかい雰囲気でした。物資も食品、衣類、日用品が豊富に山積みされ、自衛隊の炊き出しもあり、在宅者より物資的には豊かなことにも安心しました。

 子どもたちも、高校生から幼児までが兄弟のようにじゃれ合っていて楽園村のようでした。

 そうは言っても、この地区も数十人の死者・不明者が出てますし、家も車も全てが流されてしまった人がほとんどです。そして、美しかったこの田園地帯では、塩水に浸かった影響で3年は作物が育たないそうです。(奥村さん、谷口さんに生でその被災地を見てもらいました。)そしてそして、宮城県では気仙沼や石巻、南三陸町、山元町他、海岸線の郡部の町は壊滅状態の上に、いまだに電気すら通っていず、物資が届きにくく、残り少ない食料をやりくりしている人たちがいるのです。

 全国の会員や実顕地メンバーの親戚や知り合いの方にも被災者が少なくないと思います。(おもにガソリン不足です)  そこに行きたくてもいけず、歯がゆい思いは、ここに住んでいる私たちも同じですが、今はそこをこらえてやれること、ところから、と思っています。

 借家のこの家も、この揺れで今まで以上にねじれ、傾き、柱や梁にひびが入り、コンクリートははがれ床材が見え、戸が瓦の重さに動かず(家を支えてる?)ななめで鍵がかかりません。 「よく倒れなかったねぇ。」 とほめては、余震びびくびくしながら住んでいますが、めどがつけば引っ越すことになりそうです。

 気づいたら20年たっていました。長年のあいだに、すっかり顔みしりになった町内会役員の方々、近所の皆さん、息子の同級生の親の仲間…。今回、その地域の皆さんへ、ヤマギシ会の親愛の情と生産物を届ける「窓口」をやらせてもらうことで、恩返しができたような気がして、うれしいやらありがたいやら、本当に胸いっぱいです。(淋しさもあったり…。)

 この状況だからこどみえてくるものもたくさんあり、強烈な日々です。生きていることが震災前より濃厚な感じです。 連日が非日常で、笑えたり、悲しんだり、感情の変化もめまぐるしく深く生きている感じです。  二週間が過ぎ、さすがに疲れが少しきた様なので、これからは休める時には休みながら長期戦に備えるつもりです。東北人の根気強さで、じっくりやっていきます。

 イズムでつながっている会員、実顕地メンバーのうしろだてがあって、ここでやっていける私です。こちらでやってほしい事があれば声かけて下さい。現状ではまだ”復旧”という言葉はピンとこない有り様ですが、一歩ずつ元の生活に戻れるよう、踏み出していきます。これからも一緒にやって下さい。

 生産物(救援)ありがとうございました。報告かたがたお礼申し上げます。