別海実顕地55周年
6月10日は別海実顕地が出来て55周年になり、10日夜、全員参加の研鑽会を行った。
事前に荒木さんが、安井登一さんが書いた「ヤマギシズム生活北海道別海実顕地小史」をロビーに準備して頂き、各自が読んだ。
別海実顕地が昭和34年(1959)6月10日、床丹第一地区(現在の美原)にさん安井恒平さん(美里G)川瀬敏詮さん(豊里G)ら若者6名が8畳のバラックを建てて開拓の第一歩を踏み出した日です。
ちなみに別海実顕地が搾乳にフリーストール・パーラー方式を導入したのは44年前の1970年(昭和45年)、道東地方でもちろん初めて、大学など研究機関以外では殆ど設置されておらず一般酪農家にこの方式はあまり知られていなかった様です。
6月10日の研鑽会の中で寺田仁さんが当時の事を話してくれました。手作りパーラーを作る為、鉄パイプを曲げる必要があり
別海実顕地55周年当時、鉄パイプを曲げる機械が弟子屈町にしかなく、夕方の搾乳が終わってからトラックに鉄パイプを載せ、凸凹道を約3時間かけて弟子屈町まで行きそこでパイプを曲げる作業を済ませ又、凸凹道を3時間かけて帰り、朝の搾乳作業を行った事や、
その前に山岸会事件やブルセラ病等の為に牛が居なくなり、男は炭鉱へ出稼ぎに女の人はパチンコ屋の出稼ぎに行ったりしたと、岩崎昭子さんは当時、パチンコやへ出稼ぎに行ったときの苦労話をしてくれたり、
当時の別海実顕地ではご飯は麦が7割で米が3割の比率で炊いていて、春日山は麦が3割米が7割、別海実顕地から春日山実顕地へ行った女の人が御櫃を開けて見て「お米がいっぱい入っている~」と感激した話などで研鑽会は大変盛り上がりました。
【別海実顕地 井口義友】
- 寺田仁さん
- 荒木美和子さん
- 岩崎昭子さん
もう60年目なのですね。おめでとうございます。
39年前前、自転車旅行中に寄らせていただきあまりにも居心地が良く2か月滞在させていただきました。
皆さんの写真を見て思わずコメントさせていただきます。
あの時二十歳の青年立石は今や還暦前です。
実験地での生活、研鑽会、子供楽園村でのスタッフとしての体験、未利用資源部で鶏糞出し部隊として奮闘したこと、ベーラー積みのフォークダンス、等々、鮮明に思い返しています。一人一人にいただいたメッセージも今の私を支えています。
別海を出た後も旅を続け、豊里や上野にも寄りました。
豊里ではバングラディッシュから来ていた研修生パンナと2週間衣食を共にした経験から途上国の支援を目指す事になり、青年海外協力隊や持続可能な社会実現に向けた活動にも関わるようになりました。
今は会社勤めをしながら市民活動に取り組んでいます。
皆さんに会いに行きたいです。牧草の収穫にお忙しいとお察ししますが、元気に別海の夏をお過ごしください。
55周年おめでとうございます。
昭子さんは出稼ぎにも行っていたんですね。
そんなご苦労があって、今の別海実顕地があるんですね。
私は、1977年8月の別海実顕地の研鑽学校に参加しました。
特講の係が安井登一さんで、登一さんの勧めで入りました。
見るもの聞くものすることの全てが、異次元のことで、20年生きて
考えたり感じたりしてきたことのぜーんぶが、ぶっ飛んだ感じでした。
特講で、頭でこね回す私を見て、もっと深いところで感じて
欲しいと、登一さんは思ってくださったのかなと、今になって思います。
延々と続くデントコーンの下草刈り(だったのかなあ?)、フォークで
集める牧草、あまりにも手におえない事柄に呆然とした感覚を、ちょっと
思い出しました。ああいう体験、貴重だったんだなあと思います。
そうか、もう55周年なんですね。私も寺田さんの話を聞いてみたかった。先日、夕張からお邪魔したので皆さんの顔が尚更懐かしく感じます。
古い方には、北試(ヤマギシズム北海道試験場の略)と言った方が分かりやすいかな。
20歳の川瀬さん、安井さん、想像できます?でもこういった先人のおかげで、今の別海実顕地が在るのですね。
寺田さん、元気そうでなによりです。たまには本州の方にもお出かけ下さい。